倍速視聴とビジネス教養本
世の中の生きづらさを生み出す素地
世界には唯一絶対の答えなどない
ショーペンハウアーは現代人に救いの手を差し伸べてくれる哲学者だと論じるのは、フランスの小説家、ミシェル・ウエルベックが著した『ショーペンハウアーとともに』(澤田直訳/国書刊行会)だ。この現代を代表する小説家は、自らが苦難のときに偶然、古本屋で出会ったショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』Ⅰ〜Ⅲ合本(西尾幹二訳/中央公論新社)に感激する。ショーペンハウアーの説く悲観主義の本質にあるものに救われるのだ。
世界とは私たちの意志の反映であるとショーペンハウアーは論じる。私たちが立ち向かう世界とは私たちの身体が認識するのであって、それ以外にはない。大胆に噛み砕いてしまえば、この世界に共通の正解などというものはないということだ。なんと清々しく救われることか。絶対に間違えたくない若者やビジネスパーソンにこそ、ショーペンハウアーを読んでほしい。
ショーペンハウアーは生涯、長い間、思想界からは無視されつづけた。世の中が馬鹿すぎてショーペンハウアーを理解できなかったのだ。まったくもって、現在の教養本ブームのど真ん中を突き刺して切り裂く思想なのだ。
私は考えている。世界には唯一絶対の答えがあるとしたプラトンのイデア主義のごとき、あるいは宗教的な絶対性を押し付けてくる情報社会の反動が近いうちに来るのではないかと。その先触れのひとつが若者たちの常識の変化なのかもしれない。
若者の行動は大いなる崩壊を目前とするひとつの臨界点なのではないか。
ショーペンハウアーとともに
国書刊行会
ISBN:978-4-336-06355-7
意志と表象としての世界
中央公論新社
言葉を紡ぐことのない情報摂取
私たちの受容はいつしか情報に特化されてしまっている。言い換えれば、身体を失って頭脳(意志)の処理のみが進行している。そもそも頭脳(意志)と身体を分けること自体、違和感がないわけではない。
身体を失った知識とは、倍速で観る映画であるし、ミキサーでジュースにした料理だし、ダイジェストとしての教養紹介本だ。
みたび、『映画を早送りで観る人たち』に戻るが、取材対象として登場する若者たちは作品を観賞したら、何かを語り論じなければならないという圧力にさらされている。作品に対する言葉を求められている。それが、現在の若者たちをしてオタクへの憧れを醸成するものなのだ。論じるための正解が欲しい、だから誰かに代わりに考えてほしい。だからネットを漁る、YouTubeの解説動画を倍速で観る。
しかし、身体を失った知識からは言葉は生じづらい。誤解のないように言っておけば、私はそれが良いことだとも悪いことだとも思いわない。そういう知識のあり方は認めている。インプットは必ずしもアウトプットを求めないのに、みながアウトプットを求められ(ているという空気を読んで)性急なインプットに励む。性急なインプットでは浅薄なアウトプットしかできない。それはそれでいいはずだ。ファストフードも、ファストファッションもあるのだ。
しかし、怖いのはビジネスパーソンが、ビジネスの教養を性急なインプットによって浅薄なアウトプットしているとすれば、それはただひたすらに人と組織を振り回す。当面の正解だけが大事なのだから、ビジネスの手っ取り早い正解である成果のみを追求する。それなら批判にさらされることもない。
私は思う。私たちが鍛えなければならないのは、性急なインプットの効率的な方法ではない。アウトプットのための言葉、文体だ。文体、つまり身体だ。言葉には身体がある。
言葉を得ること、文体を得ることが私たちの生き方をすこしだけ救ってくれるのではないかと考えている。
そのヒントは、私たちが芸術をどのように語ってきたかにあるように思う。映画や音楽をどのように語り論じてきたか。本来的に身体的なものである感動をいかに言葉にし、文体をつくっていくか。
たとえば近代のヨーロッパで培われてきたのは、クラシック音楽を語る言葉、文体だ。
音楽批評も、ときに観念論に傾いて、つまりイデア主義のようになって「音楽は語れない」といったスノビズムに陥るのだが、そんななかでもいつも言葉は紡がれ語彙を蓄えてきた。音楽のような抽象性の高い表現にこそ具体的な言葉が鍛えられてきたのだ。
映画を鑑賞して、あるいは教養を読み込んで、私たちが慰めを得るのは自らの言葉、文体に置き換えられるときだけだろう。
京都大学の音楽学者である岡田暁生の『音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉』 (中公新書)の結末には示唆があった。正解を持たない存在であるアマチュアの演奏という実践のなかに語ることの中心を見つけるのだ。演奏という「すること」が身体性に直結するのは言うまでもない。「すること」はもっともタイパ、コスパが悪い。実践がなければ作品を理解できないとなればその道のりは効率化で叶うものではない。
サブカルのオタクたちやビジネス書の著者のように語ること、論じることに憧れるより、自らが「すること」こそ鑑賞や教養の根幹である。なんだか、守旧派ジジイのお小言めいてきたが、私は倍速試聴をなんら咎めるつもりはないし、ダイジェスト教養本も一定の意味をもつと思う。
ただ、それには身体性が欠落していることを認めてほしいだけなのだ。
音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉
中公新書
ISBN:978-4-12-102009-3
理解とは身体の修養のこと
私がここまで身体性と知識について考えたのは、正解主義に毒された多くのビジネスパーソンが苦しんでいるのを見ているからだ。あなたが求める正解とは、誰かに与えられたものに過ぎず、その誰かの正しさは、単に立派な肩書きだけが根拠なのだ。一流大学、士業、大企業幹部そんな肩書きがあれば、ビジネスパーソンは信じるのだ。そのほうがタイパ、コスパがいい。しかし、まったくもって無意味なことだ。バカバカしいの一言だ。
文芸評論家で舞踊研究者でもある三浦雅士の『考える身体』(河出文庫)に示唆的なエピソードがある。
三浦は、哲学者の木田元の「文系の読書とコンピュータ」というエッセイから長い引用をする。その一部を孫引きすれば、次の一文に出会う。ハイデガーやフッサールの研究に際して苦痛にまみれながら日々、ドイツ語原文と向き合うなかで、いつしか思考そのものがハイデガーやフッサールになるというエピソードのあとに続く一文だ。
理解というのは、知性だけの働きではなく、相当程度身体的なものであるらしい。
三浦は「情報を得るためだけに読むものではない読書こそが、哲学にとっては重要である」と、木田の考えをまとめる。情報を収集することとものを考えることは別物であるし、教養とは古今東西、すべからく身体的な修養によって身につけられたのだという。
私は膝を打たずにいられないのだ。倍速試聴も教養本も、バットを一振りしただけで「野球をした」というのに等しいし、外国人がたった一度、お茶会に参加しただけで「茶道を理解した」というのと変わらない。その言葉が、自らの不安を解消してくれはしても、生きづらさの根本を慰めはしてくれないし誰かを救うこともない。
私たちはみなわかっているのだ。頭だけではダメなことを。
ここまでが長くなってしまったが、この問題はAIの進化の先に現れるであろうことと同じである。AIは映画や教養を情報として処理することは可能だろう。しかし、それを人と同じように理解するには、必ずや身体の問題にぶちあたるはずだ。翻っていえば、身体こそAIのさらなる進化、イノベーションの可能性を握っているものだ。
この辺りも興味深い書籍が多くあるが、紙幅が尽きた。またいずれ。
考える身体
河出文庫
ISBN:978-4-309-41817-9



