工業化への反省と、テクノロジーに求められる倫理
─東北大学名誉教授 野家啓一氏に聞く(1)

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聞き手 桐原 永叔
IT批評編集長

ChatGPTが猛烈な勢いで広がるにつれて、改めてAI倫理についての議論が活発になっている。今回は、科学史・科学哲学の第一人者である野家啓一氏に、科学技術と社会文化との接点について話を聞いた。第1回では、物理学を学んでいた野家氏が学園紛争に揺れる大学生活のなかで哲学の道に歩を進めた経緯をたどりながら、日本の科学アカデミズムの特異性を概観する。

取材:2023年3月16日 オンラインにて

 

 

野家 啓一(のえ けいいち)

東北大学名誉教授。日本哲学会元会長。専攻は哲学、科学基礎論。近代科学の成立と展開のプロセスを、科学方法論の変遷や理論転換の構造などに焦点を合わせて研究している。また、フッサールの現象学とウィトゲンシュタインの後期哲学との方法的対話を試みている。1949年仙台生まれ。東北大学理学部物理学科卒業。東京大学大学院科学史・科学基礎論博士課程中退。南山大学専任講師、プリンストン大学客員研究員、東北大学文学部教授・理事副学長を経て現職。『言語行為の現象学』『無根拠からの出発』(以上、勁草書房)、『物語の哲学』(岩波現代文庫)、『科学の解釈学』(講談社学術文庫)、『パラダイムとは何か クーンの科学史革命』(講談社学術文庫)『科学哲学への招待』(ちくま学芸文庫)、『歴史を哲学する』(岩波現代文庫)など、著書多数。1994年第20回山崎賞受賞。2019年第4回西川徹郎文学館賞受賞。

 

 

目次

政治の季節のなかで科学を問いなおす

哲学修行を経て科学哲学の道へ

日本の大学に工学部が置かれた意味

 

 

 

 

 

 

政治の季節のなかで科学を問いなおす

 

桐原永叔(以下、桐原) 先生は学生時代は物理を専攻されていて、卒業後に哲学を学ばれたのですよね。

 

野家啓一氏(以下、野家) 私はもともと理科少年でした。中学生のときにロシア生まれの物理学者ジョージ・ガモフ(1904-1968)の『1,2,3…無限大』(白揚社/崎川範行 訳)という青少年向けの科学解説書を読んだことがきっかけで、物理学に興味を持ちました。『ガモフ全集』というシリーズのうちの1冊で、同級生から借りて読みました。20世紀の数学や物理学の最先端の話題が挿絵入りでたいへん面白く解説してあって、相対性理論や集合論、量子論など、それまで聞いたこともなかった考え方に触れて、物理学に興味を抱きました。ガモフはビッグバン理論の最初のアイデアを出した物理学者ですが『ガモフ全集』では、宇宙の果てはどこにあるだろうとか、時間のはじまりはどこだろうといった哲学的な問いを立てながら解説していくのです。私もそういったことを知りたくて理学部の物理学科に入学しました。ただ、物理学教室の現場は徹夜で実験装置を組み立てたり、1日中、計器の針の振れを記録したりということばかりでした。「時間のはじまりはどこだろう」と先輩に聞いても「そんな能天気なことは文学部で聞いてこい」と言われたりする有様で、私がイメージしていた物理学とは違うということを実感しました。

 

桐原 それが理系から文系課程の専攻に鞍替えした原因なんでしょうか。

 

野家 私が大学に入ったのは1967年で、卒業したのが1971年です。当時は大学闘争の真っ最中で、私の通った東北大学も校舎が封鎖されたり、毎日クラス討論やデモ行進が行われたり騒然としていて、授業もまともに開講されませんでした。ですから、ガモフによって関心を掻き立てられた科学哲学や科学史の本を図書館で借りたり、自分なりに学んでいました。当時、中央公論社から刊行されていた「自然」という雑誌の1969年2月号には、広重徹さんという科学史家の「問い直される科学の意味」という論文が掲載されていました。そこには、当時の学生が反発していた管理社会とは、科学の権威化によりもたらされたものであるという非常にストレートな批判が記されていました。その論文から、物理学者も実験室にこもって実験を繰り返すだけでなく、自然科学と社会との関係を考えなければならないことを教わりました。

 

桐原 東京大学に山本義隆さんがいた時代ですね。

 

野家 まさに山本さんが東大全共闘の議長をしていました。山本さんものちに物理学から科学史研究に転じましたから、私も非常に大きな影響を受けています。また同じ時期に、哲学者でマルクス研究者として全共闘運動のイデオローグでもあった廣松渉さんが名古屋大学を造反教官として辞められました。廣松さんは「思想」という雑誌で、のちに『世界の共同主観的存在構造』にまとめられる連載をはじめていました。大上段から当時の思想状況を捉えた内容だったのですが、注釈に「アインシュタインの相対性理論とマッハ主義との関係については拙稿『マッハの哲学と相対性理論』という論文を一覧願いたい」と書いてありました。廣松渉さんが訳されたエルンスト・マッハの『認識の分析』(法政大学出版局)は当時絶版だったのですが、図書館や古書店を探しまわって入手しました。この本を読んだことが科学哲学に深入りするきっかけになったわけです。ですから、私が物理学から哲学に転じるにあたって、広重徹さんと廣松渉さんの2人がメフィストフェレスの役割を果たされたことになります。

 

桐原 若者が社会を変えられると思っていた時代背景は先生にも影響を及ぼしていたわけですね。

 

野家 影響は大いにありました。日本では三里塚闘争や新宿騒乱事件、海外ではパリ五月革命やプラハの春など、世界中が激動していた時代でしたし、大学自体が揺れ動いていました。ある意味では時代の転換点と、私自身の物理から哲学への転換点とが重なり合ったともいえます。

 

 

哲学修行を経て科学哲学の道へ

 

桐原 学生運動の背景には高度成長をもたらした科学や工学に対する批判や反省がありますよね。

 

野家 はい、水俣病などの公害問題もありましたから。科学には未来を約束するプラス面だけでなく、表裏一体でマイナス面を持つことを、私を含む当時の学生たちが自覚しはじめました。こういう時代に、知らぬ顔で実験室にこもって物理学をしていてよいのだろうかという疑問を抱きました。

 

桐原 1980年代ごろから、SF小説や映画では科学のもたらすディストピアが多く描かれるようになりました。私は1970年生まれなのですが、大阪万博で描かれていたような明るい未来が色褪せていく一方で、世の中はテクノロジーでどんどん便利で豊かになっていきました。今の若い人たちはAIやメタバースのようにITとテクノロジーの先に豊かな未来がやってくるという希望を抱きつつ、現実生活に不安を抱いたり期待を失ったりしています。ちょうど私たち世代の裏返しのようです。未来とテクノロジーが同じ夢を見ていない感じがしています。

 

野家 私の子どものころは「鉄腕アトム」の時代です。鉄腕アトムの妹はウランちゃんという名前です。私たちのころは工学部が一番の人気で、成績のよい高校生はみな工学部を目指していました。多くの大学に原子力工学科ができて、優秀な同級生の多くが工学部の原子力工学科に進みました。科学が明るい未来を約束してくれるということに、まだ疑念を抱かなかった時代ですね。ところが1970年前後から公害問題などが報じられて、必ずしも科学が輝かしい未来を約束しないことや、社会にマイナスの影響を及ぼすことがわかってきました。私が専門を物理から科学哲学に変えたバックボーンにはそうした背景があります。

 

桐原 哲学研究に移行されるのに、当時はどのような経緯があったのですか。

 

野家 東北大学の物理学科に在学中に、大学院でこのまま物理を続けるか、哲学の道に進むかを迷いました。そこで1971年に物理学科を卒業してから、1年間文学部哲学科の研究生になりました。当時の東北大学には科学哲学を教える先生はいませんでしたが、細谷貞雄先生のニーチェのツァラトゥストラの演習や、滝浦静雄先生のフッサールの演習に出席して哲学の基礎を学びました。同じ頃、教養部でヘーゲルの自然哲学をご専門にされている本多修郎先生が、教養科目で「自然科学概論」を担当されていました。あるとき本多先生のもとにマッハのドイツ語の原書をはじめ何冊かの文献を借りに伺いました。そのとき、科学哲学に興味があるから物理学から哲学に専攻を変えたいと相談したところ、そんな馬鹿なことはやめろと一喝されました。本多先生のところには、毎年何人か“文転”を志す理系の学生が相談に来ていたそうですが、文転して成功した学生は1人もいない。私もその二の舞になるから、真面目に物理の勉強をしろと叱られました。ただ、その後も何度か本を借りにいったり、話を伺いに行ったりしていました。するとある日、東京大学の理学系大学院に新設された「科学史・科学基礎論」専攻のパンフレットを渡されて、1年間勉強してから受験するよう勧められました。翌年1972年に大学院に入学を許可され、物理学から哲学に転向した先達である大森荘蔵先生や科学史・文明史の専門家である伊東俊太郎先生のもとで本格的に科学哲学の勉強をはじめました。

 

桐原 周囲の方々の反応はどうでしたか。

 

野家 周囲の友人たちからは、とんでもないことをする奴だと思われました。東北大学は理工系中心の大学ですし、文系が格下にみられる傾向もありました。“文転”する学生も私の周囲にはいませんでした。ただ理学部の2学年上には数学専攻の佐々木力さんがいて、大学院生のときに雑誌「思想」に数学史や科学論関係の論文を発表していました。彼は東京大学の大学院で伊東俊太郎先生のもとで1年間研究生をしてからプリンストン大学の科学史科学哲学コースに留学されたのですが、私も数年後にフルブライト奨学金を得てプリンストン大学に留学することとなりました。プリンストン大学では佐々木さんと再会して、さまざまなことを教えてもらいました。

 

 

日本の大学に工学部が置かれた意味

 

桐原 数学や自然科学の知見を文系論者が扱うことに対する「サイエンス・ウォーズ」のような反発は当時からあったのでしょうか。

 

野家 私が科学史・科学哲学をはじめたころは、そうした自然科学系や理工系からの反発はまったくありませんでした。そのころの科学史や科学哲学は、理工系の研究者からは定年退官した教授たちの趣味にすぎないと思われていました。科学史・科学哲学が本格的な学問として認められはじめたのは、広重徹さんが英語で国際的に通用する論文を書いたり、廣松渉さんが哲学からのアプローチで『相対性理論の哲学』を出されたりしてからです。その後、大森学派では私の兄弟子に当たる村上陽一郎さんなどが登場して、科学史・科学哲学が学問の1分野として認められました。海外でも同じように、今まで軽視していた科学史・科学哲学が自分たちの学問を批判することに腹を立てた自然科学系の学者がバックラッシュを起こしたのがソーカル事件の顛末だと思います。

 

桐原 数学科の佐々木先生が思想誌に論文を発表したのは珍しいことだったんですよね。

 

野家 きわめて例外的でした。佐々木さんは「東北大学新聞」に科学論的な論文を寄稿していました。それが廣松渉さんの目に留まって「思想」編集部に紹介されたのだと思います。佐々木さんは第四インターナショナルという新左翼の運動家でもあったので、廣松渉さんとも相性がよかったのかもしれません。

 

桐原 トロツキズムだったんですね。理系学生の論文が思想誌に掲載されるのが例外だったとしても、当時の学生の間には社会性や政治的な意識を持たなければならないという感覚はあったのでしょうか。

 

野家 それはありました。私が大学に入った1967年は、授業が休校になるとすぐにクラス討論がはじまって、それが終わるとデモに行くというような生活で、今とはまったく違う騒然とした雰囲気でした。理学部の学生も、物理学者・武谷三男の科学技術論『弁証法の諸問題』(勁草書房)の読書会を催して議論をしたりしました。

 

桐原 工学部や理学部が日本のアカデミズムのヒエラルキーで上位に置かれていたことは、明治維新後の日本が世界に追いつくために富国強兵施策として工学に力を入れてきたことの影響だと言われます。

 

野家 もともと工学部は工部大学校として、フランスのエコール・ポリテクニーク(理工科学校)のように大学とは別に設置されていました。それが帝国大学令のもとで今の東京大学が再編成されるときに、工部大学校を工学部として大学に組み込んだのです。これはユニバーシティ(総合大学)のなかに工学部を設置した世界で最初の例です。日本は明治維新以降、急速に科学技術を導入するために、科学と技術とを同列のものとして導入しました。ヨーロッパやアメリカでは、技術は理論より一段低いものとされていたので、テクノロジーはユニバーシティ内には設置されませんでした。アメリカでもハーバード大学とは別にMITを設置しています。ヨーロッパでは、フランスのエコール・ポリテクニークやドイツのTH(Technische Hochschule)などは大学の外につくられていて、学位授与権は持ちませんでした。日本だけはユニバーシティのなかに工学部を設けて工学博士を輩出したので、海外のアカデミズムは驚きました。「サイエンス」誌でも、ヨーロッパは日本の先進事例に学ぶべきだというエッセイが掲載されたほどです。日本では「科学技術」の1語で表されますが、英語では必ず「サイエンス&テクノロジー」として科学と技術とは別個のものとして考えます。最近は「テクノサイエンス」という言葉も使われるようになりましたが、まだ正式な英語としては認められていません。

※ソーカル事件:1996年、思想誌「ソーシャル・テキスト」に数理物理学者アラン・ソーカルによる寄稿論文「境界線を侵犯すること――量子引力の変形解釈学へ 向けて――」が掲載された。しかし後にソーカル自身が、この論文がフランスの思想家の言葉や物理数学のでたらめなパロディであることを明かし、当時のポスト・モダン系知識人の衒学趣味が暴露されることになった。

(2)に続く