古典力学の常識では測れない量子コンピューターとAIの融合
─ 大阪大学大学院教授・藤井啓祐氏に聞く(3)

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聞き手 桐原 永叔
IT批評編集長

量子機械学習には既存の古典コンピューターが解くことができない「量子課題」の解決が期待されている。物理現象の根幹がもともと量子的(ミクロ)であるのに、私たちはコンピューターによる計算を古典力学(マクロ)の常識でしか考えていないという落とし穴が見えてくる。むしろ不自然なのは古典コンピューターなのだ。

2022年12月15日 オンラインにて

 

 

藤井 啓祐(ふじい けいすけ)

大阪大学大学院基礎工学研究科システム創成専攻教授。大阪大学量子情報・量子生命研究センター副センター長。

2011年3月京都大学大学院工学研究科博士課程修了。博士(工学)。理化学研究所量子コンピュータ研究センター量子計算理論研究チームチームリーダー、東京大学工学系研究科物理工学専攻客員教授、情報処理推進機構(IPA)未踏ターゲット事業プログラムマネージャー、量子技術の普及のための一般社団法人 Quantum Research Institute 理事を兼任。量子コンピュータのソフトウェアベンチャー、株式会社QunaSys、最高技術顧問。

専門分野は量子情報、量子コンピューティング。特に、量子誤り訂正、誤り耐性量子計算、測定型量子計算、量子計算複雑性、量子機械学習。著書に『驚異の量子コンピュータ:宇宙最強マシンへの挑戦』(岩波科学ライブラリー) など。

大阪大学基礎工学研究科 藤井研究室

https://quantphys.org/wp/qinfp/

株式会社QunaSys

https://qunasys.com/

 

 

 

目次

量子のICTインフラが普及しない限り量子機械学習は普及しない

量子データに対する量子による量子のための機械学習

古典力学をベースとした常識から量子的思考へ

量子性が絡んでいる環境問題を量子コンピューターで解決

量子情報科学の時代の始まりを告げたノーベル物理学賞

 

 

 

 

 

量子のICTインフラが普及しない限り量子機械学習は普及しない

 

桐原 「量子機械学習」についてお尋ねします。現状で、AIと量子コンピューターは、どのような部分で研究が連携されているのでしょうか。なかなかイメージしにくい部分なので、そこをお伺いできれば──。

 

藤井 量子機械学習の現在のフェーズをイメージしていただくために、図でご説明いたします。これはAIの歴史を簡単に第1次、第2次、第3次にまとめたものです。第1次はパーセプトロンの原理とかが出てきた1950年代で、思考する機械を考えましょうということだったのですが、当時はトイプロブレム*しか解けないというので批判されて冬の時代が訪れました。次に1980年代、第2期AIブームが訪れます。いわゆるエキスパートシステムですね。人間がルールを定義したらそのルール通りに機械が動くことを目指しました。ただし、学習という観点ではAIは発達しませんでした。その原因は良質なデータとそれを処理する計算資源がなかったからです。いいラベルが付いた膨大なデータがなかったのでうまくいきませんでした。現在の第3次AIブームで、やっと産業に応用され大きな飛躍を遂げたわけですが、大きな要因としてはICTインフラの普及があります。

*トイプロブレム(Toy problem、おもちゃの問題)とは、例えば迷路やオセロなど、ルールとゴールが決まっている問題のこと。

 

 

藤井啓祐氏作成の図による

 

 

桐原 インターネットでデータが集められるようになり、さらに計算資源も増大しましたね。

 

藤井 インターネット上でラベルが付いた意味のあるデータが膨大に集まるようになりました。さらにGPUが発達してコンピューターのなかにアクセラレータというかたちでGPUが搭載されて、計算資源が一気に普及しました。さらにディープラーニングという枠組みが出てきたことによってAIが猛烈に進化したわけです。AIの進化の歴史と比較して、量子コンピューターの進化を考えてみると、だいたい第1次ブームに相当するのは量子コンピューターという原理が提唱された1980年代から90年代だと思います。純粋な物理学者の興味で研究がされていた時代ですね。第2次の量子ブームは2010年代ですね。マルティニスが精緻なエンジニアリングをして、量子コンピューターというシステムをつくっていこうというフェーズに入った。それこそ「量子超越とかクラウドで量子コンピューター使えますよ」という、実際に使用できるように量子コンピューターを進化させていった時代ですけど、残念ながら今の量子コンピューターは性能がかなり制限されているのでトイプロブレムしか解けないと言われているフェーズです。

 

桐原 社会に実装されるにはまだまだ時間がかかるということですね。

 

藤井 おそらく量子AI、量子機械学習が本当に使われるのは、2030年代以降ではないかと見られています。量子のICTインフラが普及しない限り、第3次AIブームみたいなかたちで広がるのは難しいと思います。というのも、そもそもAIとは目的ではなく手段、道具なのです。何かをやりたいっていうときの手段、道具です。その「何か」という材料がないとAIは動かないわけです。画像データがなければ画像認識をやりたいというモチベーションが湧かなかったように、量子の機械学習が普及するためには、量子コンピューターが処理能力として進化する必要があり、さらに量子センサーが普及することによって、いろんなところから量子データが取れるようにならないといけない。さらに量子通信が進むことによって、そうした量子データのやりとりがされるようになり、量子コンピューターのなかでの仮想的な実験に対するモチベーションが出てきます。こういう物質をシミュレーションしようとか、ああいう物質をシミュレーションしようとか、量子データを使って何かしたいという欲望が出てくるわけですね。このフェーズにならないと、量子機械学習が生きる時代にはならないと思います。

 

 

量子データに対する量子による量子のための機械学習

 

桐原 どうしても今のコンピューター上で行われている機械学習を量子コンピューターにやらせれば高速化できるのではと短絡して考えてしまうのですが──。

 

藤井 それはなかなか難しいと思います。そもそも問題設定が古典コンピューターの言葉で書かれているので、そこに乗り込んでいって量子コンピューターが古典コンピューターと戦って勝つというのは相当、難しいんですね。それが実現するのはもっと先だと思います。もっと手前の段階で、量子ICTインフラが整って、そもそもデータが量子だから、そこから有益な情報を得るためには量子のAIじゃないといけないよねというのが量子の機械学習が使える時代だと思います。

 

桐原 データが量子であるというのは、どういうふうに理解すればいいのでしょうか。

 

藤井 たとえば、古典コンピューターでは、必要なデータをロードしてきて、それを機械学習にかけたりするわけです。それと同じように量子コンピューター内部に、ある化学物質の状態を計算すると、計算が終わったときには、化学物質の電子の状態になっているような量子データがあるわけですね。これがある化学物質Aのデータです。これが化学物質Bのデータです。Aの物質かBの物質、どっちがいいですかとか、それが増えたときに特定の機能を持っている物質はどれですかとか。そういうのを学習したいと思ったときに、それをわざわざ古典のデータに焼き直してから古典の機械学習かけるんだったら、量子コンピューター内部でそのままパイプライン的に量子AIのアルゴリズムで処理すればいいですよねということになります。

 

桐原 なるほど! 量子を量子のまま計算するということですね。古典のデータにする必要はないですもんね。量子コンピューターなら、そっちのほうが、都合がいい。

 

藤井 たとえば化学物質って量子力学で表されるので、たとえばH₂Oとかそうですね。原子があって電子が飛びまわっていて。これはそもそも量子的なものなんですね。量子コンピューターのなかで量子的なものとして保存をする。そういう量子的なものが身の回りに増えないと。たとえばセンサーからセンシングした量子状態であったりとか、量子的なデータを通信やりとりして受け取った量子的なデータであったりとか量子的な対象物が増えないと、それを使った機械学習とか学習分類推論っていうのがそもそも必要ないわけですよね。

 

桐原 よく分かりました。言われてみればその通りでミクロの世界がもともと量子の世界であるのだから、そのままデータとして取り込めればいいっていうことですよね。

 

藤井 そうです。今は古典コンピューターしかないので、わざわざ古典のデータにして計算しているわけですよね。

 

桐原 われわれが扱いやすいように、一回マクロな状態で古典コンピューターに取り込んでいるわけですが、そういうことをしないでも済むということですね。

 

藤井 そうですね。量子コンピューターのなかで仮想的な化学実験をして、そこから得られたデータでどういうふうな物質設計をすればいいかというのを量子機械学習のアルゴリズムで処理する。そうなるともう古典コンピューターとの比較自体が意味をなさないのです。

 

桐原 本当ですね。

 

藤井 古典コンピューターにできないことをさせる。そういう方向で問題を設定しないと、今のAIのようには使えないと思います。古典化したデータに対してこの行列計算は量子コンピューターにやらせようみたいな、せこい使い方をしている限りはなかなか勝てないんじゃないかなと思っています。そもそも問題設定を根本的に変えて、量子データに対する量子による量子のための機械学習を目指すべきです。

 

桐原 今のお話は目から鱗ですね。たしかに自然の世界は量子でできているのに、われわれは理解するために、古典物理の世界に持っていこういとするんですけど、その必要はなくなるということを理解しないといけないわけですね。

 

 

古典力学をベースとした常識から量子的思考へ

 

桐原 Google本社の元副社長の村上憲郎さんとお話した際に、量子力学的な発想――クオンタム思考――が大事とおっしゃっていましたが、先ほど藤井先生が言われていた、量子のための量子による量子のコンピューターということがクオンタム思考的だなと感じました。

 

藤井 今はどうしても古典物理学の常識にとらわれすぎだなと思っています。その常識で成立しているビジネスから見ると、古典の土俵に来てくださいというのは当然だと思うのですが、何かを根本的に大きく変えるためには、量子の舞台で考えないといけないと思うんですね。よく言われるのは、機械学習で古典のデータを量子コンピューターで機械学習すると、古典のデータを量子コンピューターに送るインターフェースがボトルネックになるんですね。だったら最初からデータは量子化して持っておけばいいわけです。量子コンピューターを使いたいなら、データセットを量子コンピューターでネイティブに持てるように処理してから保存すればいいわけです。たとえば画像を保存するときにjpegとかいろんな規格がありますけど、あれを量子回路にすぐに流し込めるようなデータフォーマットで持っておくといったことです。本当に量子コンピューターの機械学習が有益になったら、そういうデータの持ち方をすると思います。データ転送がボトルネックになってブレーキがかかるなら、最初から量子コンピューターに合わせてデータのフォーマットをつくるという考え方が量子的思考と言えるかもしれません。

 

桐原 伺っていて、古典力学の常識で考えてしまうと、可能性の幅はすごく狭くなってしまうし、将来の見通しも悪くなるなということを思いました。

 

藤井 とはいえ、量子的な思考にいますぐに転換するのは難しいと思います。やはり動く量子コンピューターが発達して身近に使えるようにならないといけない。真空管のコンピューターとかENIACとか、1940年代、50年代のコンピューターでTwitterっていうアプリケーションは思いつけないですよね。

 

桐原 たしかに。分かりやすいですね。

 

藤井 絶対、無理ですよね。量子コンピューターが進化していって、それがいろんな人が使えるようになって初めて、量子前提で何をしましょうかということが考えられるようになると思うんです。

 

 

 

 

 

 

量子性が絡んでいる環境問題を量子コンピューターで解決

 

桐原 先生は、世の中には量子性がネックになって解決できない問題が結構たくさんあって、それを量子コンピューターで解決できるとお話しされています。世の中にある量子性がネックになっている課題とは具体的にはどういう課題でしょうか。

 

藤井 身の回りの重要な課題というのは量子性が絡んでいることが多いのです。というのも化学の世界は、ほとんど量子力学なんですね。水がなぜ水のように振る舞っているか理解しようとした際に、HとOがくっついていることを量子力学によって説明が可能です。世の中の化学的な現象で解決されていないことは、ほとんど量子力学が絡んでいると言ってもよいでしょう。地球規模のエネルギーの問題もそうです。生物が何億年かけて最適化をしてきたなかで、太陽エネルギーを使って無機物を有機物に変えるということを上手にやっているのが光合成という現象です。この光合成にもかなり量子的なダイナミクスが使われていて、非常に複雑に重ねあわさった量子力学的な状態が、光合成のメカニズムの中にあるのですが、実は光合成のメカニズムは解明されていません。他にも窒素固定のメカニズムがあります。地球上の人口を支えているのは、それだけの食べ物をつくれるからです。そして食べ物をつくれるようになったのは肥料が開発されたからですね。肥料がなかったら、これだけの人口を支えることはできません。肥料をつくるためには空気中の窒素が必要です。窒素は空気中にいくらでもあるわけですが、それを、固定化して物質にしないと使えません。空気中の窒素を固定化するのに使われている方法がハーバー・ボッシュ法という高校で習う化学変化なのですが、これは高温、高圧が必要で世界の消費エネルギーの数パーセントが窒素の固定化に使われています。だけど身の回りの生物の世界を見るとマメ科の植物は根っこのところに根粒菌があって空気中の窒素を固定化する媒介の役割を果たしています。根粒菌が持っている触媒酵素と呼ばれる物質があるのですが、やはり量子性が強くてメカニズムがよく分かっていません。スーパーコンピューターでも解けないぐらい複雑な電子状態になっているからです。こうした問題を、量子コンピューターを使ってメカニズムを解明し、それに基づいて効率のいい触媒をつくるとか人工光合成を実現できるようになれば、地球規模の問題に貢献できると思います。

 

桐原 今のお話は、先ほど言われたスーパーコンピューターで計算できるように翻訳しないで、そのまま量子コンピューターに取り入れることができればというお話につながりますね。

 

藤井 そうですね。量子コンピューター上で量子的な振る舞いをそのままそっくりシミュレーションすることで、触媒のメカニズムを理解できるようになります。

 

桐原 現状ではどうしても古典力学に一回翻訳してスーパーコンピューターで計算せざるを得ない。

 

藤井 そうですね。量子力学の式をシュレーディンガー方程式に書いて、古典コンピューター上の0、1の足し算引き算の世界で計算させるしかないわけです。重ね合わせとかつくれないですからね。数式に落とすと指数的に効率が悪くなるのですが、それを頑張ってスーパーコンピューターを使って解いているというのが現状です。

 

 

量子情報科学の時代の始まりを告げたノーベル物理学賞

 

桐原 今年(2022年)は10月にノーベル物理学賞を量子の研究者が受賞して*「量子もつれ」という言葉が世に広まりました。

*2022年のノーベル物理学賞は「量子力学」の分野で大きな貢献をした3人の研究者に授与された。研究者らは、「量子もつれ」や「量子テレポーテーション」といった、これまで理論上ありうると言われていた現象が、実際に存在しうることを実験で証明した。

 

藤井 重要だなと思っているのは、あれは始まりだということです。実は量子コンピューターの開発で中村泰信先生がノーベル賞を取ってもおかしくなかったのですが、それ以前の根本になった量子力学の基礎研究者3名が受賞しました。起点になった人が取ったというのは良かったと思います。これがスタートで、以降のブレークスルーを果たした研究者に今後ノーベル賞がどんどん授与されるのではないかと思いました。量子情報科学の時代の始まりを示す象徴的な出来事でした。(了)

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