人間の認知の仕組みへの興味からAI研究の道に
国立研究開発法人産業技術総合研究所 人工知能研究センター長 辻井潤一氏に聞く(1)

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聞き手 桐原 永叔
IT批評編集長

日本のAI研究黎明期から言語処理にかかわってきた辻井氏に、XAI(説明可能AI)が出てきた背景と現在の動向と未来における可能性について伺った。1回目は、研究をスタートさせた京都大学の学問を取り巻く環境、それはまた東京大学とはことなる風土にまで話が及んだ。氏の半世紀に及ぶAIへの取り組みは、人間の認知機能への興味が根底にあるという。

取材:2022年9月21日 オンラインにて

 

 

辻井 潤一(つじい じゅんいち)

情報科学者。国立研究開発法人産業技術総合研究所人工知能研究センター長。

1973年京都大学大学院修了。工学博士。京都大学助教授、1988年マンチェスター大学教授、1995年東京大学大学院教授、2011年マイクロソフト研究所アジア(北京)首席研究員等を経て現職。マンチェスター大学教授兼任。

計算言語学会(ACL)、国際機械翻訳協会(IAMT)、アジア言語処理学会連(AFNLP)、言語処理学会などの会長を歴任、2015年より国際計算言語学委員会(ICCL)会長。

紫綬褒章、情報処理学会功績賞、船井業績賞、大川賞、AMT(国際機械翻訳協会)栄誉賞、ACL Lifetime Achievement Award、瑞宝中綬章等、受賞多数。

 

 

目次

京都の学際的な風土でAI研究をスタート

機械翻訳に技術オリエンテッドに取り組む

言語処理専門家として機械翻訳の国家プロジェクトに携わる

 

 

 

 

 

 

京都の学際的な風土でAI研究をスタート

 

桐原永叔(以下、桐原) はじめに、辻井先生がAI研究にかかわられるきっかけからお聞かせください。

 

辻井潤一氏(以下、辻井) 大学へ入っていろんなことをやりだした頃は、まだ情報科学とか計算科学はそれほど大きな分野にはなっていませんでした。

 

桐原 1960年代の終わりぐらいですね?

 

辻井 1967年に大学に入って、研究者になったのは1970年くらいだと思います。工学部で電気工学を学んでいたのですが、もともと人間に興味があったんですね。その当時の計算科学には方向性が2つあって、いわゆるハードコアの計算科学と、今でいう人工知能的な研究、すなわち、人間が情報をどう処理しているかという人間との絡みをやる部分の研究です。京都大学はどちらかというと後者のほうの研究が盛んでした。最初の頃にやっていたのは、今でいうチャットボットみたいなもので、テキストをたくさん計算機のなかに入れておいて、いろんな質問をされてもちゃんと答えることができる質問応答システムの研究をしていました。今では実用化されてきている技術ですが、その当時は計算機も小さいし、技術的にも成熟していなかったので、かなり無理な研究分野だったと思います。その技術が非常に難しいことだということが分かってきて、機械翻訳の分野に研究テーマを移しました。

 

桐原 京都大学で研究をスタートされたということですが、以前に松原仁*先生にインタビューした際に、当時の東大での人工知能に対する偏見に非常に苦しんだとお伺いしたのですが、京大はどうだったんですか。

*松原仁:(1959年 〜)計算機科学者。東京大学次世代知能科学研究センター教授。人工知能学会前会長。人工知能研究に従事。特にコンピュータ将棋や、ロボットによるサッカーなどのコンピュータゲームを通じたアプローチを行なっている。「IT批評」によるインタビュー記事はこちら

 

辻井 東大とは雰囲気が違っていたと思います。東大は伝統的なアカデミアで、人工知能の類いは不謹慎だという感じがあったと思います。京大のほうは、僕の恩師である長尾真*先生とその上の坂井利之*先生という2人の先生を中心にして、視覚や音声認識や機械翻訳といった人間の情報処理の研究を、僕が研究室に入ってくる以前からやっていたこともあって、人工知能に対する態度は東大とはかなり違ったんじゃないかと思います。

*長尾真:(1936年~ 2021年)情報工学者。京都大学名誉教授。専門は、自然言語処理・画像処理・パターン認識。パターン認識の分野で手書き文字の認識方式を提案した。自動翻訳やAIにつながる技術の原理を開発した。

*坂井利之:(1924年〜 2017年)情報処理工学者。京都大学名誉教授、龍谷大学名誉教授。専門は、情報通信工学、情報工学、情報学。文字や音声などを認識する技術、パターン認識の研究・開拓の先駆者。

 

桐原 どうしてそんなことをお伺いしたかというと、やはり京都学派的な発想と人工知能における「人間とはなんぞや?」という問いが通底しているのかなと思ったためなんですが。

 

辻井 京都学派の定義は難しいのですが、比較的、京都の学者というのは、分野を超えて協働する学際的なことが好きな人が多いですね。今は変わったのかもしれませんが、僕らの頃はそういう傾向が強かった。僕が大学院から助手になったあたりは、文学部で言語研究をやっている大学院生や哲学の研究者、教育学部で認知心理をやっている人たち、人類学でアフリカに行って研究をしている自然人類学のような、そういう若い研究者が、2週間に1回くらい集まって研究会を開いたりしていました。必ずしも若手だけではなくて、長尾先生や教育学部の認知心理学の梅本堯夫*先生だとか、わりとエスタブリッシュされた研究者が若手のそういう集まりをサポートしてくれていました。東大の松原さんがいた頃のAIUEO*なんかはこっそりやっておられたと思うんですけど、それとはかなり違った感じが京都にはあったと思います。

*梅本堯夫:(1921年 – 2002年)教育心理学者、京都大学名誉教授。

*AIUEO=Artificial Intelligence Ultra Eccentric Organizationの略。1977年に設立された東京大学におけるAI研究の自主ゼミ。

 

 

機械翻訳に技術オリエンテッドに取り組む

 

桐原 その時代の学際的な研究が辻井先生に与えた影響はどのくらいあるのでしょうか?

 

辻井 その頃の10年間に、心理学や言語学や哲学の人たちと交流したというのは、その後、自分がものを考えていくうえで結構大きかったと思います。ただ科学的な運動としては、認知科学は面白かったんだけど、方法論的にはあまりうまくいかなかったんですね。やっぱり違う分野の人間が寄ると、何を明らかにしたいのかとか何を価値と思って研究しているのかというのが、かなり違う。話しているときは面白いんですが、実質的な研究をやるということになると、なかなか具体的な成果は出にくかったですね。そういうわけで、15年ぐらいやった後はまたばらばらになりました。技術の連中は技術に戻るし、心理学や哲学の連中はまたそれぞれのグループに戻っていったんじゃないでしょうか。

 

桐原 なるほど。少し強引かもしれませんけど、第1次、第2次と進んでいくAIブームの流れとも少しシンクロするような感じがしますね。

 

辻井 そうですね。方法論的にも技術的な土台からしても成熟していなかったんだと思います。だから少し前のめりになってしまっていて、議論していることと技術的な基盤とがうまくシンクロしていなくて目的意識だけが先行していた。そこに対する反省はあったと思います。

 

桐原 辻井先生はそのときは、機械翻訳をやられていたのですか?

 

辻井 人間の知能とか常識とか身体性も含めて、まだまだ技術には載らないなという感じが非常に強くありました。かたや機械翻訳は言語という実体があるものが対象になっていて、違った言語の間を結ぶというのは、理解とか知識という抽象的なことを考えなくても技術の問題として取り組むことができるわけです。そういうところに僕自身は戻りたくなって、議論としては認知科学的な議論や哲学的な議論もするわけだけど、みずからの研究としては言語そのものの処理にかかわっていました。しかも、言語の意味とか理解とは切り離して、表面に現れた言語のかたちだけを処理することである程度できそうな分野、それが機械翻訳だったわけですけど、そこに意識的に戻っていったという感じはあります。

 

 

言語処理専門家として機械翻訳の国家プロジェクトに携わる

 

辻井 その当時、機械翻訳はフランスのグルノーブルのグループと京都のグループがやっていて、僕は1981年に交流のためにフランスに行きました。アメリカでは、「SYSTRAN」*という商用のシステムがあったのですが、研究自体はちょっと下火になっていた頃ですね。1982年に日本に戻ってくるのですが、そのときに長尾先生を中心にして国家プロジェクトがスタートしました。

*SYSTRAN :1968年にピーター・トーマ博士によって設立されたもっとも古い機械翻訳会社のひとつ。

 

桐原 第5世代コンピューターですか?

 

辻井 いえ。機械翻訳のプロジェクトを始めました。その当時、日本では第5世代コンピューターというプロジェクトが東京のグループで行われていて、電総研(電子技術総合研究所、現・産業技術総合研究所)がその中心としてやっていたわけですけど、京都のグループは「あんなのやってもしょうがないな」という目で見ていたような気がします。

 

桐原 冷めていたんですね。

 

辻井 京都のグループとしては、あるいは、私がということかも知れませんが、機械翻訳というもっと実体があることをやったほうがいいという感じでした。それが1982年から1986年まで4年間続く国家プロジェクトになりました。

 

桐原 面白いですね。東京側の方々から聞くお話とは、研究に対する歴史観が全然違う。

 

辻井 今はいろんな意味で情報の交流が活発なので、どこにいても同じような研究をしていて、各地域の個性はなくなってきたと思うんですけど、僕らの頃ってまだそんなに相互交流がなかったので、東京と京都ではかなり違った問題意識を持っていました。それから言語処理に関していうと、九州地区にやはり強いグループがいて、今でいうワープロの元になったような仮名漢字変換を先行してやっていました。九州のグループからすると、京都のグループも地に足が着いていないように見えたでしょうね。彼らのほうがもっと地道なことを、しかも大規模にやっていたと思います。

 

桐原 先生は、その後もずっと人工知能の言語まわりの研究をなさっていたわけですね。

 

辻井 そうですね。その後に1988年からイギリスに行くんですが、そこはCentre for Computational Linguisticsという、今でいう言語処理だとか計算言語学のセンターがマンチェスター大学にあって、そこのセンター長を務めました。それ以降、言語処理をずっとやっていたという感じですね。

(2)に続く