マルチバース化する社会で「クオンタム思考」を身につけよ
――元グーグル米国本社副社長・村上 憲郎氏に聞く(1)

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聞き手 クロサカ タツヤ

岸田政権は、新しい資本主義実現会議において、科学技術分野の成長戦略を議論し、人工知能(AI)や量子技術など先端技術に関する国家戦略を策定すると表明した。新たなテクノロジーとして注目を集める量子技術、量子コンピューターだが、その技術の背後にある量子力学の論理に我々が慣れ親しんでいるとは言い難い。今回は、1970年代から先端コンピューター技術に関わり、Google本社副社長兼日本代表を務められ、量子力学の著書も上梓している村上憲郎氏に、量子コンピューター時代を生き抜くための「クオンタム思考」や、量子コンピューターが社会やビジネスに与えるインパクトについて、慶應義塾大学大学院特任准教授を務めるクロサカ タツヤ氏が聞いた。

聞き手:クロサカ タツヤ/司会:桐原 永叔(IT批評編集長)

2022年5月20日 トリプルアイズ本社にて

 

 

村上 憲郎(むらかみ のりお)

元グーグル米国本社副社長・日本法人社長。株式会社村上憲郎事務所代表取締役。1970年京都大学卒業後、日立電子のミニコンピュータのシステムエンジニアとしてスタート。1978年Digital Equipment Corporation(DEC)Japanに転籍。通産省第五世代コンピュータプロジェクトの担当を務める中で人工知能(AI)分野の知見を修得。1986年米国マサチューセッツ州 DEC 米国本社人工知能技術センターに勤務。2003年Google米国本社副社長兼Google Japan代表取締役社長に就任。日本におけるGoogleの全業務の責任者を務め、2009年に名誉会長に就く。2011年の退任後、村上憲郎事務所を開設。京都大学で工学士号を取得し、現在は大阪公立大学大学院都市経営研究科教授、国際大学GLOCOM客員教授、大阪工業大学客員教授、会津大学参与にも従事する。著書に『クオンタム思考』(日経BP)、『量子コンピュータを理解するための量子力学「超」入門』(悟空出版)等がある。

 

クロサカ タツヤ

株式会社 企(くわだて)代表取締役、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科特任准教授。1975年生まれ。慶應義塾大学・大学院(政策・メディア研究科)修士課程修了。三菱総合研究所を経て、2008年に株式会社 企 (くわだて)を設立。通信・放送セクターの経営戦略や事業開発などのコンサルティングを行うほか、総務省、経済産業省、OECD(経済協力開発機構)などの政府委員を務め、政策立案を支援。2016年からは慶應義塾大学大学院特任准教授を兼務。著書に『5Gでビジネスはどう変わるのか』(日経BP)。その他連載・講演等多数。

 

 

 

目次

量子的世界には“いい加減力”で慣れていく

決定論は最後には神様を措定せざるを得ない

ネオ・ヒューマンと「五蘊非我」

すでに世界はマルチバース化している

「生命」とは何か「自己意識」とは何か、ピーター3.0が問うもの

 

 

 

量子的世界には“いい加減力”で慣れていく

 

クロサカ タツヤ氏(以下、クロサカ) 今回、「IT批評」では量子コンピューターや量子力学について特集を組むことになりました。そこで、黎明期からコンピューターに深く関わられ、かつ量子コンピューターに詳しい村上さんにお話をお伺いしようという趣旨です。私自身は量子コンピューターの研究開発には直接は関わっていませんが、大学の教員として常に近くにあるWIDEプロジェクトでも量子インターネットに取り組んでいます。そうした同僚達と話をしながら、生半可な知識ではあるのですが、自分が量子コンピューターや量子力学について何が分かっていないのかが分かってきた、というレベルです。

 

村上 憲郎氏(以下、村上)それが分かっていれば、SFCの単位が取れます(笑)

 

クロサカ ギリギリCはなんとか取れるかな、みたいな感じです(笑) 今回は私も含めて読者の皆さんが疑問に持っている、そもそも量子とは何かということを、技術的なことはもちろん、その奥底にあるパラダイムや思想について詳しくお話をお伺いしたいと考えています。

 

村上 私も最初は量子力学が分かりませんでした。数式を追いかけていっても、それがいったい何を意味しているのかが分からなかったのです。結局、非日常的な世界を記述しているわけですから、むしろ分かるという人がおかしい。

 

桐原 永叔(以下、桐原) そうですよね。マクロな世界ではありえないことを記述していますから。私は、量子力学については、理解するというより、本を何冊も読んでその世界に慣れていくしかないなと思っています。そういうことが起こりうるということに対して、拒否感がないようにするぐらいが精いっぱいですね。

 

村上 2021年の5月に『クオンタム思考』という本で量子力学について書いたのですが、もう少し難しくても構わないから詳しく書いて欲しいというリクエストに応えたのが『量子コンピュータを理解するための量子力学「超」入門』です。なぜこの本を書こうと思ったかというと、自分が50年ほど前には理解できなかった「数式の意味するもの」が、量子コンピューターを通じて理解できるようになったことで、読者にもそれを追体験して欲しいという思いからです。結局、最後はおっしゃったように、慣れるしかないというところがありますね。

 

桐原 村上先生の『クオンタム思考』を読ませていただいて、普遍絶対の法則を追い求める決定論的な考え方だけでは社会も我々が住んでいる世界も語れなくなってきていると感じています。出版界で言えば、哲学書が売れていることの理由でもあるのですが、哲学書とか思想書が2010年以降売れるようになっているのは、きっともう決定論や既存のロジックでは未来を予測することができないという感触を多くの人が持ち始めたからではないかと考えています。すべては相対的で観測者の介在によって変化する確率論的な世界観に親しむこと、まさに『クオンタム思考』が必要になっているのではないかと。

 

クロサカ おっしゃる通りだと思います。ただし、ずっとそのパラダイムが長い時間続くのであれば、人間は順応していくと思うのですが、いきなり決定論から確率論に移行するのは難しい。不確実な世界って、普遍絶対の法則を信奉してきた人は順応できないと思うのです。まして不確実性と不確定性の違いなんて、一見すると訳が分からないのではないか。私なんかいい加減なので「へえーそうなのか」と思うわけですが、これからは“いい加減力”が試されてくるんじゃないかという気がします。

 

村上 いいことをおっしゃいますね。本当に、“いい加減力”が必要になってきています。私もクオンタム思考なんて偉そうなことを言っていますが、一知半解のいい加減思考ですから。

 

クロサカ 私は「いい加減」と「適当」という言葉が大好きで、どちらもいい言葉なんですよね。良い加減だし、適当ということは状況にフィットしているという意味ですから。

 

 

決定論は最後には神様を措定せざるを得ない

 

桐原 実は私、禅寺で育っているので、量子的な考え方にまったく拒否感がないのです。むしろなじみがいい感じがするんですよ。

 

村上 そうですか。私の実家も臨済宗・妙心寺派の檀家です。

 

桐原 禅宗になじんでいると、量子の話もそんなに突飛ではない感じがするのですが。

 

クロサカ まずその話を解説していただくのがいいと思います。今、なんの話をされているのかというところからお話いただいていいですか。

 

桐原 最近、『時間は存在しない』(NHK出版/冨永星訳)というベストセラーを出したカルロ・ロヴェッリという物理学者が『世界は「関係」でできている』(NHK出版/冨永星訳)という本を出しました。量子物理学の話なのですが、彼はずっと読んでこなかったナーガールジュナ*を読んでみた。

 

村上 『中論』ですね。

 

桐原 そうです。で、読んでみたら量子力学のことが書いてあるというのですね。だから彼は、東洋人のほうが量子力学の世界について理解が早いだろうとまで言っています。欧米でも量子力学を進化させた人たちは、ヒッピー世代だから、仏教的な世界観になじみがあったというのですね。

 

*ナーガールジュナ:2世紀に生まれたインド仏教の僧。中観派の祖と言われる。ナーガールジュナは、著作である『中論』において、存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの因果関係の上に成り立っていることを論証している。さらに、因果関係によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「独立した不変の実体」はないことを明かしている。これによって、すべての存在は無自性であり、「空」であると論証している。

 

村上 湯川秀樹先生も、お兄さま(貝塚茂樹)が東洋史学の大家ですから、その影響もあったのでしょう。湯川先生は仏教からヒントを得たみたいなことをエッセイに書いていらっしゃいましたね。

 

桐原 もしかしたら量子の世界観は日本人になじみがあるのではないかと思っているのですが。決定論は、突き詰めていくと最後には神様を措定せざるを得ない。神様でしか説明できないところに行きつくと思うのですが、仏教は神様を置かないので決定論的にならない。そこの違いで日本人は量子的世界にシンパシーがあるのではないかと思っています。例えば、レイ・カーツワイルの『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』(NHK出版/井上健、小野木明恵、野中香方子、福田実共訳)なんかを読むと、神様の話に行きつく宗教の本だなと私は感じます。でも量子の本を読むと、何を読んでも親しみを感じるのは、どこかで神様ではないところに行くからです。

 

村上 カーツワイルと私は同世代ですが、ボストンの人工知能学会で会っています。その時に彼は「ノリオ、ベビーブーマー(団塊の世代)は永遠に生きられるぞ」って言うから、「へー、どうするんだ」と聞いたら、「とりあえずサプリメント飲め」と(笑) いろいろ話をしていたら、サイボーグになって機械化して生き延びる方法を考えていると言っていました。脳が一番機械化が難しいから人工知能学会に来たんだと話していました。

 

 

 

 

 

ネオ・ヒューマンと「五蘊非我」

 

村上 サイボーグと言えば、エンハンスト・ヒューマンビーイングという言葉をご存知ですか。去年の今ごろ日本語訳『ネオ・ヒューマン 究極の自由を得る未来』(東洋経済新報社/藤田 美菜子訳)が出ましたけど、著者のピーター・スコット=モーガンというイギリスのロボット学者の方が、2017年にALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断されて余命2年の宣告を受けたのですね。ロボット学者の彼は、そんなことは受け入れられないと言って、自分の体をどんどんサイボーグ化していきました。まだ機械化されたのは一部分に過ぎませんが、自分では「ピーター2.0」と称しています。現在、65歳くらいですが、84歳になる2040年頃には、いよいよ完全に機械化すると言っています。つまり脳ですね。最終的に脳もオーガニックなパーツである限りはへたってくるから、20年後には脳もAIに置き換えるとおっしゃっています。

 

桐原 面白いですね。脳もAIに置き換えるとなると、自己意識とは何かという問題が浮かんできます。「IT批評」でもAIに意識は宿るかということをいろんな方が議論してきました。村上先生も『クオンタム思考』の中でAIと自己意識について論じられていました。

 

村上 そこが仏教でいうところの「五蘊非我(ごうんひが)」につながってきます。無我ではなくて「非我」というところが重要です。五蘊は「色受想行識」と言って、肉体や感覚器官や思考や認識みたいなことです。それに対して、「色」我に非ず、「受」我に非ず、・・・、「識」我に非ずと全部否定していくわけですが、お釈迦様は、我自体を否定したわけではなく、我を頼りにして修行しなさいということを言っています。そこで言われている我とはいったい何なのか。AIにとって自己意識とは何かという話が出てくると、この「五蘊非我」という言葉を想起せずにはおれません。

 

 

すでに世界はマルチバース化している

 

村上 「シュレーディンガーの猫」というのがありますよね。この思考実験が素晴らしいのは、多世界解釈という考え方が出て来ることです。0になった場合には毒が出るよと、1になった場合は毒が出ないよという箱の中に猫さんがいますと。さて猫さんは生きているでしょうか死んでいるでしょうかという話の中で、それは量子における重ね合わせ状態だとみなせる。開けたら、猫さん死んでいましたということは、そこの量子状態は0だったということなんですが、他の世界に別の我がいて、そっちの我が開けたら生きているほうの1の状態かもしれない。そこから、我も多世界の数だけあるんだと考えられる。

 

桐原 まさに世界はユニバースではなくて、マルチバース、メタバースですね。

 

クロサカ メタバースは、すごく面白い概念だと僕は思っています。今は具体と現象を無理やり当てはめるためにアニメっぽくしていて、理解のためのステップとしてそれが必要なのかもしれないですが、ものすごく矮小化されてしまっていると思っています。実は我々はもうメタバースの中に生きていると考えてもおかしくありません。なぜならば、今日は集まって話をしていますが、いつもはリモートでやっていたりするわけです。先ほど、村上先生に久しぶりにお目にかかりますと挨拶しましたが、実はリモートでは何度もお話をしているわけです。この間お目にかかったのが、実際にお会いしてなのか、リモートでお会いしてなのか、分からないぐらいの状態になっていて、しかも自分はこの分からない状態を受け入れている。ということは、分かるか分からないかということに必ずしも価値がないという状態なわけですよね。どっちでもいい。というか、むしろどっちでもいい状態に価値があるというふうに考えれば、我々はもうすでにメタバースの世界にどっぷり漬かっているし、メタバースではない世界にもどっぷり漬かっている。もう多世界に生きているというふうに言ってしまっていいんじゃないかと思うわけです。

 

村上 今クロサカさんがおっしゃったことが、もう、日常的に起きている。コロナに背中を押されるかたちでのニューノーマルな生活の中で、自分が生きている世界がセカンドライフなのかサードライフなのかフォースライフなのか分からない。例えばコロナの最初の頃に、偉い方が会議にお出になられたときに、お子さまが後ろをちょろちょろされたりということがあった。あれって結局我々が世間様に登場するときの自分と、家の中で父親をやっている自分というのが二重にあるということを、示している。そしてそのことが普通であるということが、この数年間の間に曝露されたのだと思います。だからクロサカさんおっしゃるように、この日常がすでにメタバースだと言ってもいいんだろうと思います。

 

 

「生命」とは何か「自己意識」とは何か、ピーター3.0が問うもの

 

クロサカ シュレーディンガーの猫は、生きているし死んでいるんですよね。もし猫に意思があるとしたら、つまり我々のことですけど、我々が猫だったとしたら生きたいときと死にたいときの両方があっていいということだと思うんです。死んだ後にまた生きていてもいいんですよね。そして、生きていることと死んでいることの境界が非常にあいまいになってくるというのが、さっきのピーター2.0だと思うんです。生きているとはどういうことなんだろうということを、彼は体をもって説明しにかかっているわけですよね。

 

村上 面白いですね。彼はあと20年後にピーター3.0になるとおっしゃっているわけですけど、そのときには本当に生きているとはどういう状態を指すのか議論されると思いますよ。宗教的な観点から言えば、ソウル(魂)とは何かが問題になってくる。つまり完全機械化された後にも「我」は持続しているのかどうか。取りあえず部品の供給が滞らなければ、ピーター3.0は永遠に生きることになると思いますからね。

 

桐原 ピーター3.0だか4.0が実現したときに、どこが生命としての本質なのかということが問われてきますね。それこそ量子の話になったときに、それを生命と呼ぶのかどうかというところまでいきつきますよね。

 

村上 オーガニックの世界とそうでないメカニカルな世界がいよいよ融合を始めてきているという流れのなかで、結局、オーガニックなものを最終的に超越する、トランセンデンスするということになったときに、ピーター3.0さんともちろん会話ができるはずですから、あなたはいったいなんなのよと聞いてみたいですね。

 

桐原 量子というのは究極的に存在しない、関係があるだけで対象物がないと考えると、じゃあ命もないということになる。そもそも命なんてものは、我々は影を見ているだけ、生きていると思い込んでいるだけで実態はないんじゃないかみたいなことも考えられます。

(2)に続く