ポスト・モダンからポスト・ヒューマニズムへ
玉川大学文学部名誉教授 岡本裕一朗氏に聞く(1)

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聞き手 桐原 永叔
IT批評編集長

人間中心主義としてのヒューマニズムは、近代以降、私たちの歴史に大きな影響をもちながら前世紀のポスト・モダン的文化状況のなかでゆるぎ始めた。人間の終焉さえも感じさせる今世紀において“ポスト・ヒューマニズム”は単なる思潮を示すものではなくなってきている。テクノロジーの進化によって実体としての「ポスト・ヒューマン」の誕生が現実味を帯びてきたからだ。「ポスト・ヒューマン的展開」を説く岡本裕一朗氏に訊いた。

2023 年3月7日 トリプルアイズ本社にて

 

 

岡本裕一朗(おかもと ゆういちろう)

玉川大学文学部名誉教授

1954年福岡県生まれ。九州大学大学院文学研究科哲学・倫理学専攻修了。博士(文学)。九州大学助手、玉川大学文学部教授を経て、2019年より現職。西洋近現代哲学を専門としつつ学際的な研究を行う。現代の哲学者の思想を紹介した『いま世界の哲学者が考えていること』(ダイヤモンド社、2016)はベストセラーとなった。『モノ・サピエンス 物質化・単一化していく人類』(光文社新書、2006)、『フランス現代思想史 構造主義からデリダ以後へ』(中公新書、2015)、『ネオ・プラグマティズムとは何か ポスト分析哲学の新展開』(ナカニシヤ出版、2012)、『思考実験 世界と哲学をつなぐ75問』(ちくま新書、2013)、『世界を知るための哲学的思考実験』(朝日新聞出版、2019)、『哲学100の基本』(東洋経済新報社、2023)など著書多数。

 

 

 

目次

バイオテクノロジーが導いたポスト・ヒューマンのリアリティ

デジタル技術が人間を追い越すのか、人がデジタルで進化するのか

フィジカルを軽視してきた人工知能と哲学

 

 

 

 

バイオテクノロジーが導いたポスト・ヒューマンのリアリティ

 

桐原永叔(以下、桐原) 岡本先生は、21 世紀にテクノロジーが人間を凌駕することを指摘したうえで、これまでの人間中心の思想を相対化するポスト・ヒューマニズムの思想を論じています。現在の思想状況についてどのような見取り図を描いていらっしゃるのでしょうか。

 

岡本裕一朗氏(以下、岡本) 思想状況にヒューマニズム/ポスト・ヒューマニズムいう図式がもたらされたのは、21世紀になってからのことだと思います。人間というテーマについて、19 世紀にニーチェが「超人」という概念を持ってきたり、20 世紀にハイデガーやフーコーが「人間の終焉」を論じたりしていたときは、まだ人間以降になにが到来するのかという実像が見えていなかったのだと思います。ニーチェのいう「超人」というのは、漠然とした進化論が想定されたうえで、サルから人間、その延長上に超人がくる、というようなイメージなんです。

 

桐原 ニーチェのいった「神の死」や「超人」というのはどういったイメージでとらえたらいいんでしょうか。

 

岡本 ニーチェがどこまで本気で「超人」のイメージを持っていたのかは疑問です。20 世紀になってからのヒューマニズム批判の文脈でニーチェの言説が用いられたことも多くなりました。20 世紀に「神の死」や「超人」がよく言われるようになったのは、「人間の超克」や「人間の終焉」が語られるようになっていたからです。

 

桐原 フーコーは「人間の死」ということを言いましたが、これも人間ではなく人間中心主義の終焉のニュアンスに近いものだと考えています。

 

岡本 人間以降の存在が、現実的な話題として俎上にのぼったのは、まず分子生物学の分野からだったと思います。1970 年代から、遺伝子を組み換えることがはじまったときに、その延長として、人間の遺伝子を操作するという発想が生まれました。当初の遺伝子工学は、人間に適用できるほどの精度はありませんでしたが、21 世紀になるとゲノム編集ができるレベルになってきます。確率も高く安全性も確保されるようになると、ヒトゲノムの編集も現実的になってきます。そうすると、遺伝子編集がなされた人間という存在を想定できるようになる。そのときに、なにをもって人間として定義するかということが改めて問い直されるようになったんです。

 

桐原 生物としての人間も、いずれ特権的なものではなくなる可能性がありますね。

 

岡本 20 世紀の後半から、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』(河出書房新社)のような人類学が流行しました。南アフリカでは劣等種だったホモ・サピエンスという種がどのように現生人類の立場を確保したかについて多くの人が関心を抱いたのは、バイオテクノロジーによってホモ・サピエンスという種を乗り越えられることが現実的になったからだと考えてもいいでしょう。

 

桐原 生物としての人間を、その祖先から遡って認識しなおそうという流れにも見えますね。

 

岡本 私自身も哲学においてポスト・ヒューマンについて考えるようになったのは、やはりバイオテクノロジー研究の進化を目の当たりにしたからです。学問としての生命倫理というのは 20 世紀後半にアメリカではじまりました。当初は生身の人間の臓器移植や人工妊娠中絶、またはインフォームドコンセントについて語られていましたが、1990 年代にヒトゲノム計画が開始されました。人間のゲノムがバイオテクノロジーの中心的課題になると、まだ誕生していない人間や新たに生命を誕生させることが、現実的に起こりうるものとして、大きな論争になりました。つまり人間のゲノムを操作することをよしとするのか、法的に禁止するのかという論争です。それが21世紀初頭のことですね。それが、バイオテクノロジーが哲学の俎上にのぼる出発点となりました。そして、その延長としてクローン技術なども話題になってきます。受精卵のゲノムを編集すれば、その遺伝情報が代々にわたって引き継がれていきます。そうすると、現在の人間とは異なる新たな生物が誕生することになります。この生物を「ポスト・ヒューマン」と名付けているわけです。

 

桐原 「ポスト・ヒューマン」という実体を仮定して、それについて論じるのがポストヒューマニズムということになっているんでしょうか。

 

岡本 私たちヒューマンの後継種としてのポスト・ヒューマンを語るわけです。バイオテクノロジーで想定されるポストヒューマンの誕生を考えると、その一方で人間の終わりというものが想定されます。20 万年前ぐらいに誕生して、現在は地球上を支配しているホモ・サピエンスという単一種が終わるということが、大きな問題として語られるようになりました。これはハラリの問題意識にもあったのだろうと思います。それが具体的にどれぐらいのスパンで考えられるかというと、人工的にゲノムを編集しつづけたとしても、新しい種の人間が登場するのは早くても数百年ぐらいかかりそうだというのが遺伝学者の予想です。ハラリが『ホモ・デウス』(河出書房新社)で書くような、非常に優秀なホモ・デウスとホモ・ユースレスとの間の対立がどの時点で起こるのかは未知数です。

 

 

 

 

 

デジタル技術が人間を追い越すのか、人がデジタルで進化するのか

 

岡本 20 世紀の終わりからデジタル・テクノロジーが急速に発展しました。レイ・カーツワイルは、人間がゲノム編集によって進化するよりずっと前の 2045 年ごろには、ニューラル・ネットワークの処理能力が、人間の脳の能力を超える可能性があるという文脈で「ポスト・ヒューマン」という言葉を用いました。これは、バイオテクノロジーによってホモ・サピエンスのゲノムが書き換わる、という意味での人間の終わりや人類の消滅が、デジタルテクノロジーによってもたらされる可能性があるとも考えられるわけです。アリストテレスが知識「エピステーメ」と技術「テクネー」とを峻別して以来、テクノロジーは単なる手段として低く位置づけられてきた側面がありました。哲学におけるテクノロジー観を再考しようという動きがでてきたのは、21 世紀になってからのことです。

 

桐原 テクノロジーがあまりに進化して思想にも影響をもたらすようになった。思想がテクノロジーを無視できなくなったということですよね。

 

岡本 15 世紀の活版印刷のテクノロジーは近代社会を形づくってきました。同じように考えると、20 世紀末から 21 世紀はデジタルテクノロジーが社会を変えてきたといえます。1970 年代にポスト・モダンという思想的流行がありました。しかし近代の後になにを置くかについては、さまざまな可能性が模索されました。近代(モダン)については、経済の側面からすれば資本主義として捉えられますし、政治形態でいえばリベラルデモクラシーとして捉えられます。その代替として社会を変えるものを考えたときに、これまで哲学では中心に据えられなかったテクノロジーというものが一躍注目を集めるようになりました。

 

桐原 カーツワイルの著作を読むと進化論によって神のもとから奪われた生命誕生の神秘を、人間の手によって取り戻そうとする宗教的な思想の匂いを感じるんですが。

 

岡本 そのような含意はあると思います。カーツワイルの発想は、人間の知性と機械の知性とを別個に比べるものではなく、人間の脳と機械とを組み合わせる発想です。その意味では、コンピューターが人間を超えるというよりも、人間そのものがコンピューターの力を借りてアップデートするような発想ですね。

 

桐原 人間が変わるといっても、ゲノム編集の場合とは異なり、カーツワイルやハラリのいう変化は、ナノマシンを身体に入れるなどして侵襲的に「変える」ということになりますよね。

 

岡本 そうですね。バイオテクノロジーで現在、すでに生きている人間を変えることはあり得ません。あくまでも精子と卵子を使ってゲノムを変え、次に生まれる人間を変えることになります。カーツワイルの場合は人間の脳とコンピューターを結ぶことを想定しています。

 

桐原 そうすると、トランス・ヒューマンやホモ・デウスというのは、ニーチェのいう「超人」のように、神なき時代に神の代替としてふるまう人間ということになってきます。

 

岡本 そうですね。

 

桐原 神が創造した存在である人間を改造するということが、カーツワイルの信仰に照らして許されるかどうかに疑問を抱くのですが。

 

岡本 カーツワイルにとってあまり強い禁止事項にはなっていない気がします。ほんの少しですが、カーツワイルの著作にもニーチェへの言及があります。シンギュラリティの主張においては、おそらくニーチェの超人思想も念頭にあったのだと考えられます。カーツワイルにおいては、むしろ生物と機械の対比から科学を総合して研究していくサイバネティクスの考え方が大きく影響していると思います。人工知能においては、2 通りの考え方ができます。ひとつは人間からまったく独立した機械として人工知能をつくる発想、もうひとつは人間と機械とが融合する発想です。カーツワイルは、おそらく後者のサイバネティクス的なことを考えていると思います。

 

 

フィジカルを軽視してきた人工知能と哲学

 

桐原 カーツワイルに限らず、多くの研究者の興味が生命としての人間というより知能としての人間に偏っているように思います。知能が普遍性や永遠性を持っていて、それさえ人工的につくれたら生命のほうも普遍性や永遠性をもつという誤解がある気がします。

 

岡本 その通りだと思います。哲学者の思考実験でも、脳だけを取り出してそれをプールの中に漬けて保存するような発想が数多くあります。ある意味ではデカルトの心身二元論以来の西洋哲学の伝統かもしれません。肉体を持たない精神としての人間を究極的な形態として捉える、ということです。それが神性と結びつくイメージもありますから。20 世紀に現象学として身体論が流行した時期もありましたが、ポスト・ヒューマニズムとして語られるときには、やはり知性的なものが中心になります。

 

桐原 一方で、たとえば認識論を批判したリチャード・ローティのネオ・プラグマティズムのように、身体やテクノロジーといったフィジカルな事物を見直す思想というのも行われていますよね。「IT批評」でも身体性については何度か議論しています。

 

岡本 21 世紀になってテクノロジーが重要になってきて、哲学においても精神的ではないものをテーマに据える側面はあると思います。その意味ではテクノロジーに限らず、物質や身体をどう位置づけるかは哲学上の大きな問題になるかもしれません。

 

桐原 テクノロジーの追求は利潤の追求と結びつきやすく資本主義の要請が働きやすいです。どちらかというと、唯物論的な思想と親和性が高くなりますよね。

 

岡本 いま実際に哲学の分野では、物質主義や唯物論の研究が盛り上がっています。テクノロジー全盛の一方で、唯物論的な哲学の可能性が求められています。

 

桐原 いま実在論がまた注目を集めていますね。

 

岡本 そうですね。20 世紀哲学は反実在論として、言語による表象を中心に思想を重ねてきました。しかし、言語を伝えるにあたってもメディア技術が必要となりましたし、言語を語るのは人間の身体であり諸器官であることから、具体的な物質を中心に考えるというのが、21 世紀の基本的な方向になってきたと考えられます。そこで実在する物や身体を含めた物質的な次元について問いなおすのは、哲学としては比較的自然な流れかもしれません。

 

桐原 私自身はポストモダニズムの洗礼を浴びた、いわゆる「ニューアカ(ニューアカデミズム)」世代です。私たちの若いころはサルトルや実存主義といえば、すでに過去の人、もっといえば古臭いものという感じだったのを覚えています。

 

岡本 私もまさに同じ時代にいた自覚があるので、よくわかります。

 

桐原 私たちは、ニューアカやポスト構造主義に影響を受けて、文化や社会情勢を冷めて見るという態度に慣らされてきました。そのなかで、もう一度、本気で人間を考えなおそうというマルクス・カブリエルがフィーチャーされる理由は、わかる気がします。ガブリエル本人は、冷めた現状にたいして情熱をもった言説を持ち込もうとしているように感じられます。

 

岡本 講義で21世紀哲学の話をしていたとき、突然「サルトルは終わった人だと聞きましたが、違うんですか」という質問を受けたことがあります。サルトルが結構、若い人にウケるらしいのです。その一方、パソコンやスマートフォンを手に育った世代なのに、サルトルや実存主義に惹かれるというのが、少し意外にも感じられます。

 

桐原 チョムスキーとフーコーがフランスのテレビで論争したことがありますよね。チョムスキーは人間の本性を先天的な部分から論じ、フーコーはそれを後天的なものとして論じていたと記憶しています。いま、「親ガチャ」を嘆く若い世代においては、チョムスキーのいうように生得的な本性に意味があると言われるほうが救われるように思えるだろうと推測できます。そのほうがかえって救いがある。後天的に本性を掴めるのなら、それは自助努力や自己責任を問われるわけですから。

 

岡本 そうですね。それまでの世代は、かつてのサルトルのアンガージュマン(政治参加)のように思想に基づいて社会を変えようとする態度には、非常に冷笑的でしたが、21 世紀になってムードが変わってきました。最近になって、サルトルの研究書や入門書も多く出版されています。

→(2)に続く