“ポスト・トゥルース”時代のナラティブとハルシネーション
第3回 世界の「わからなさ」にどこまで付き合いきれるか
ナラティブのもつ論理性はどこに
アリストテレスは『詩学』(三浦洋訳/光文社古典新訳文庫)において演劇を論じ「感情には明晰な思考を妨げる精神の緊張をほぐす機能<カタルシス>があり、また演劇によって露わにされた構造を忘れないようにさせる働きもある。その構造の哲学的――つまり事実的・理論的――な内容を忘れないようにさせる働きもある。
こうしたことは「すべて物語の助けを借りて行なわれる」と記している。演劇や哲学をひくまでもなく、勉強において教員の軽妙な語りや効果的に編集された動画で学習内容が定着した経験はだれにもあるだろう。エピソード記憶が長期記憶に大きく関与することもよく知られている。
ブレヒトに演劇を、ポパーに科学哲学を学んだオーストリア出身の科学哲学者ポール・ファイヤアーベントは『知とは何か: 三つの対話』(村上陽一郎訳/新曜社)において「神話や民話などの物語には科学的・客観的な事実がない」という批判を真っ向から否定し、むしろそこに科学的・客観的事実がかたちづくる世界と同じくらい力強く、しかも高度に洗練されたひとつの実体があると語る。物語は、社会とそこに生きる人々の構造や、それが孕む哲学的命題をも明らかにするものだとして、神話や民話は明晰な思考のための道具であり認識の方法ですらあるとさえいう。
物語には、たしかに再現可能な客観的事実はないかもしれないが、ファイヤアーベントの言う構造や事実的・理論的内容はたしかに存在する。
私的な主観を通じて普遍性や客観性にいたるのが芸術的営為のひとつとするならば、そこには作家の主観を通じて得られた客観的世界があり、その世界はひとつの実体として、私たちの前に立ち現れてくることになる。私たちがたんなる鑑賞のレベルを超えて芸術作品に感動するのは、まさにこの世界観に触れるからであろう。
やや卑近な例だが、高等学校の学習指導要領の更改により「現代文」の科目が「論理国語」と「文学国語」に分かれたことに首をひねる人が多いのも、この峻別が明確でないことを実感するからだと思われる。
複雑な社会の「わからなさ」とどう付き合うか
このコラム連載では、たびたび倍速視聴やネタバレサイトを例に、ヒューリスティックな思考が前景化していることをとりあげている。
これは人々の思考の短絡に基づくものだろうか。
プロパガンダのような意図的なナラティブに基づいてアイデンティティを形成して政治的にふるまうさまは、たしかに性急なふるまいに思える。ただし、そのシンプルさを求める背景には“ポスト・トゥルース”ともいわれる社会の不定形さがあるようにも思える。
ファイヤアーベントが語るように、ナラティブは明晰な思考のためのツールであるのと同時に、それを妨げる道具にもなりうる。そこで「主体的で理性的な判断を」とお題目をならべてみても、しかたがない。
たとえばナチスについて、ヨーロッパでは社会悪としてのコンセンサスが取られており、ナチスに賛意を示す発言をした映画監督ラース・フォン・トリアーは一時映画界を追われたし、ファッションデザイナーのジョン・ガリアーノも解雇され、メゾン・マルジェラでの復帰まで一定の時間を要した。ではその他の戦争犯罪、またエスニシティやジェンダーについての問題については、口を噤んでいる状況は多い。
アラン・ソーカルに「イジられた」哲学者の一人ジル・ドゥルーズは『意味の論理学』(上下 小泉義之訳/河出文庫)所収の「ルクレティウスとシミュラークル」において、こう記す。
「哲学は何の役に立つのか?」と問う人には、次のように答えなければならない。自由な人間の姿を作ること。権力を安定させるために神話と魂の動揺を必要とするすべての者を告発すること、たったそれだけのこととはいえ、いったい他の何がそれに関心をもつというのか。
つまり、自身を正当化するために神話や人々の不安につけこむ権力者の嘘を暴くことが、哲学の仕事だということだ。
事実が不定形のものになってしまうなかで、社会を形あるものとして認識するためにナラティブはその拠り所になるかもしれない。
一方、GPT-4は10兆トークンの学習データ――書籍にすると約1000万冊――をもとに、もっともらしい回答を生成する。世界の「わからなさ」にどこまで付き合いきれるか――私たちが直面しているのは、むしろそこなのかもしれない。