ビッグデータ活用で実現する市民参加型のまちづくり
東京大学 先端科学技術研究センター 吉村 有司氏に聞く(1)

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聞き手 都築 正明
IT批評編集部

ジェイン・ジェイコブズが生活者の立場から著した都市論『アメリカ大都市の死と生』(山形浩生訳/鹿島出版会)刊行から約 60 年。私たちは都市を手にする糸口をつかめているだろうか。専門家の経験則や直感により工学的になされてきた都市計画やまちづくりの分野に、データサイエンスの立場からアプローチする吉村有司氏に聞いた。サイエンスとして捉えた都市の実像を明らかにし、市民由来のまちづくりを実現する、現在の都市への希望とは。

2022 年 12 月 13 日 オンラインにて

 

 

吉村 有司(よしむら ゆうじ)

東京大学 先端科学技術研究センター 特任准教授

愛知県生まれ、建築家。2001年よりスペインに渡る。ポンペウ・ファブラ大学情報通信工学部博士課程修了(Ph.D. in Computer Science)。バルセロナ都市生態学庁、マサチューセッツ工科大学研究員などを経て2019年より現職。ルーヴル美術館アドバイザー、バルセロナ市役所情報局アドバイザー。国内では、国土交通省まちづくりのデジタル・トランスフォーメーション実現会議委員、東京都「都市のデジタルツイン」社会実装に向けた検討会委員、第 19 回全国高等専門学校デザインコンペティション創造デザイン部門審査委員長などを歴任。主なプロジェクトとして、バルセロナ市グラシア地区歩行者空間計画、ビッグデータをもちいた歩行者空間化が周辺環境にもたらす経済的インパクトの評価手法の開発など。データに基づいた都市計画やまちづくりを行う、アーバン・サイエンス分野の研究に従事。

 

 

目次

データサイエンスから都市を読み解く

データという共通言語を用いることで横断したコミュニケーションを可能に

バルセロナに息づく市民の相互扶助意識

Bluetooth センサーを用いて公共空間に新しい“流れ”を

MIT でアーバン・サイエンス研究を深化させる

 

 

 

 

 

データサイエンスから都市を読み解く

 

都築正明(以下、――) 東日本大震災や東京オリンピック、また現在も続くコロナ禍など、都市機能をめぐる議論のきっかけとなるできごとが、ここ数 10 年でいくつかありました。現在進められている大規模開発もいくつかあります。こうした街づくりのプロセスが、どうしても旧来の――ジェイン・ジェイコブズの語法に倣えば「ブルドーザー式」の――ものに留まっている気がしてなりません。一方、吉村先生がこれまで関わられてきた都市計画やまちづくりのプロジェクトでは、いずれも AI や機械学習を用いつつ、旧来とは異なるアプローチを実現していますね。

 

吉村有司氏(以下、吉村) 僕の研究が機械学習と親和性が高い、というご指摘はそのとおりだと思います。往々にして、まちづくりや都市計画、建築といった分野は専門家の直感や経験則に基づいて行われてきたり、データを取っていたとしても、それを人の目と手を使って分析して……という手順のスモール・データで行われてきました。僕はその分野で、研究者としてビッグデータを用いることに取り組んでいます。

 

――それは、その都度データをとるわけではなく、既存のデータを援用することもあるのでしょうか。

 

吉村 オープンデータと組み合わせることはよくあります。最近行った、都市の景観を解析する研究の初期段階では、Google Street Viewを使い、20 メートル間隔ごとの画像データを取得して行いました。それくらいの地理的粒度で都市データを収集すると、例えば「日景マップ」を実装した渋谷区では、画像解析に必要なデータは 50,000 枚ほどになりました。この数になると、データを取得するだけでも、人間の目と手で行えば相当な負担になってしまいますし、ましてや、それらを一枚一枚人間の目で分析していたのでは、時間も手数もかかりすぎます。ビッグデータを自動的に収集するシステムをつくり、解析は AI にさせてみよう、というのが、僕のとるデータサイエンスからのアプローチです。

 

 

 

――単に手数や時間が削減されるだけでなく、他に応用できるという汎用性もありますね。

 

吉村 先ほどは渋谷を例に引きましたが、同じ手法を用いて、東京の規模でも行うことも可能です。そこがサイエンスの優位性の 1 つですね。

 

 

データという共通言語を用いることで横断したコミュニケーションを可能に

 

――東日本大震災の直後は、コミュニティや住民の互助的行動ということが盛んに言われました。しかし、復興五輪を謳う東京のオリンピックの後には旧来型の利権構造が明らかになったり、耐震工事を含む現在進行中の再開発が旧来型のゼネコン主導型だったりするのをみると、そこにコミュニティという変数がうまく機能していないのではないか、と疑問をおぼえます。

 

吉村 東日本大震災については、そのころ僕は海外にいましたので、よくわからないというのが正直なところです。ただ、まちづくりや都市計画を行うにあたって、コミュニティという要素はとても重要で、そこでどのように意見を集め、その意見をどう調整していくか、合意を形成していくかというところがカギになります。このことについては、世界でもいろいろな方が研究されていますし、先行研究はそれこそ星の数ほど存在します。僕の研究の場合は、こうした分野に大規模データと機械学習を持ち込んだことに新規性があると思っています。ビッグデータを活用しながらコミュニティを醸成していき、都市を育てていくことが、自分の役割だと思っています。

 

――従来、都市についての研究は、一方で建築家や都市計画の立場の人々が設計やデザインという視点から行い、他方では社会学やカルチュラル・スタディーズといった立場の人々が文化研究という視点から行ってきました。しかし、そもそもの視点が異なるために、都市像というものが定まらないことが多かったように思います。先生の研究を拝見すると、データを用いることで、両者のイメージを近づけることが可能なのではないかと思います。

 

吉村 それは僕もよく実感するところです。データのよいところは、複数の分野を横串にできるところにあります。今まで分野ごとで議論されていたことについて、データという共通の言語を用いることで、横断したコミュニケーションをとることが可能になる。さまざまな分野の方々と、同じ目的を持ってコミュニケーションをはかることができるのは、データを用いて得られる大きなメリットです。

 

――現在、コロナウイルスの感染対策で、多くの方がリモートで仕事をしています。仕事はリモートで行いつつ、これまで通勤などに割かれていたリソースを近隣のローカルなコミュニケーションに配分する、というスキームで、地域コミュニティの立ち上がりを期待できたかにも思えたのですが。

 

吉村 コロナ禍やその影響については、まだ僕もきちんと整理がついていません。さまざまなことが起こるなかで、ZOOM などを援用した会議や授業などのテレコミュニケーションが社会に浸透しました。2019 年以前には Skype があり、僕も MIT (マサチューセッツ工科大学)にいたときは、日本やバルセロナと Skype で会議をしたりしていましたが、やはり対面での会議の副次要素として捉えられていました。そのころからすると、日常的にオンラインでのコミュニケーションが普及してきたというのは、非常によいことではないかなと思います。新しいコミュニケーションのチャネルができた、というようにポジティブに捉えることができるのではないでしょうか。その一方で、オンラインだけではできないことも顕在化してきました。対面のコミュニケーションの大切さや、住むことの意義などが浮き彫りになったのが、この 3 年間だったと思います。

 

 

バルセロナに息づく市民の相互扶助意識

 

――先生は、大学で建築を学ばれた後にスペインに渡られたのですよね。

 

吉村 多くの建築家が歩むスタンダードなキャリアコースは、大学を卒業してから好きな建築家のもとに弟子入りして、そこで 10 年ぐらい働いた後に独立する、というものです。僕の場合は、師事したい建築家がスペイン人で、バルセロナ在住の方だったので、そこに弟子入りに行く、という経緯でバルセロナに行きました。

 

――それは、建物を設計しようと思って行かれたわけですよね。

 

吉村 そうです。パブリックスペースも含めて、住宅や美術館などの設計を仕事にしたいと思って渡西しました。そこから現地での紆余曲折もあり、バルセロナ市の都市生態学庁という機関に入ることになります。その機関では、都市戦略を含めた公共空間のデザインもしていたので、入所してそうした空間のデザインに携わりたいと思っていました。ところが、入所初日に長官に呼ばれ、翌日から ICT 技術を用いた交通計画の仕事をするよう命じられました。

 

――先生がもともとしたかった仕事とは違ったわけですね。

 

吉村 望んでいたものとは全く違う仕事を割り振られたんです。「日本人だからテクノロジーが得意だろう」などと言われまして。ですから、当初はちょっとしょげた気持ちもありました。とはいえ、仕事をこなすためにさまざまな調査をはじめてみたら、面白さが見えてきました。

 

――都市生態学庁というのは、全体としてはどのような機関なのですか。

 

吉村 バルセロナの都市を根本的によくするためには、縦割りではなく総合的な視点から取り組む必要がある、というコンセプトのもとにつくられたのが、このバルセロナ都市生態学庁です。通常の都市開発であれば、交通は交通局に、緑化だったら森林局に……というように、各部局に割り振られて進行します。そのうえで、各局が自局の権限内で、他局に踏み込まないようにして、それぞれ限られた分野での施策を行います。バルセロナは、その方法では都市全体を構想することができない、ということに早い段階から気付いていて、さまざまな要素を俯瞰しつつ、総合的な都市計画を作るべきだ、として都市生態学庁をつくったんです。このような経緯でできた組織なので、働いている人の職種もさまざまでした。僕がいた時の所員数は 30 〜40 人ほどでしたが、そのうち建築家は 3 人程度で、数学者や交通学者、植物学者や海洋学者など、さまざまな分野のスペシャリストがいました。

 

――俯瞰するといっても、バルセロナは約 100 平方キロメートルの、大きな都市ですよね、

 

吉村 そうですね。人口が約 160 万人ですから、日本でいうと神戸市と同じ規模だと思っていただければ、わかりやすいと思います。

 

――神戸市という街で考えると、古くからさまざまな階層の人々が住んでいますし、六甲アイランドやポートアイランドのように土地そのものを造成したり、阪神淡路大震災後に箱物と企業誘致で復興してきたりと、漸進的に変化した経緯もあったりと、総合的に捉えたりということが困難に思えます。バルセロナでは、街を俯瞰して根底から変えていくというコンセンサスが、どのようにして市民に共有されたのでしょうか。

 

吉村 その背景にはバルセロナという都市の置かれた歴史的経緯があります。スペインは 1975 年まで独裁政権で、民主主義に移行してから、まだ 45 年あまりしか経っていません。スペイン内戦以降、独裁政権を敷いていたフランコ首相はマドリードに拠点を置いていたのですが、スペイン内戦時に敵側についていたカタルーニャをひどく冷遇しました。国家としてインフラ投資をしなかったため、バルセロナの都市は荒れていて、病院がなかったり、小学校が十分に機能しなかったりという状況が長く続いていました。そうしたなかで、バルセロナの市民は近隣住民どうしで、教えられる人が子どもに勉強を教えたりという互助的なネットワークを形成して生活していました。1980 年代初頭までそれが続き、1986 年にオリンピック開催の権利を勝ち取ります。そこでようやくオリンピック開催にあたる資金で、社会のインフラを本格的につくっていくことになりました。多くの都市では、学校や病院などの箱物ができてからソフトが整備されますが、バルセロナの場合はこういった箱物行政とは逆のプロセスを辿ったんです。お金がなかったので最初に住民ネットワークでソフトウェアをつくらざるを得ず、そのうえでオリンピックの投資を呼び込んで、建物をつくったのです。バルセロナという都市は、そうした近隣住民ネットワークの伝統が今でも生きているという稀有な都市です。だからこそ、まちづくりにおいても、自分たちで話し合いながら決めていく、というのが当然のこととして受け入れられたのだと思います。

 

――話は逸れますが、サッカークラブの FC バルセロナも、一般会員からの会費を募って運営されていますね。

 

吉村 そうですね。FC バルセロナは、カタルーニャ民族の象徴として“MÉS QUE UN CLUB”(MORE THAN CLUB:クラブ以上のもの)といわれ、みんなでチームを育てるという気風があります。

 

――レアル(Real:王室の)の冠を戴いているレアル・マドリードとは対極的な位置づけですね。

 

 

 

Barcaの本拠地、カンプノウ(吉村氏撮影)

 

 

Bluetooth センサーを用いて公共空間に新しい“流れ”を

 

――バルセロナ都市生態学庁で交通計画を任じられてからは、どのようなことをされたのですか。

 

吉村 それまでテクノロジーについても、交通計画についても考えたことがなかったので、本当に何から手をつければよいのかがわかりませんでした。そこで現状について調べてみたら、車の位置情報や移動経路など、街路レベルにおけるデータが把握できていないことがわかりました。そこで、こういったデータを取得できる仕組みができないだろうか、と考えました。当時は Bluetooth の通信規格が普及して携帯電話に搭載されていたので、この通信情報をトラッキングできるセンサーをつくって街中に設置すれば、プライバシーの問題もクリアしつつ、車がどこに何台いて、歩行者がどこに何人いて、それぞれがどこからどこまで移動したのか、というデータを取得できるのではないか、と考えました。そこでセンサーを試作して、実証実験をしてみたら有意なデータをとることができて、本格的に採用されることになりました。

 

――交通量調査というと、道路に腰掛けた方がカウンターを手にして、自動車や人の数をかぞえているイメージがあります。

 

吉村 そのように、車が何台通ったか、人が何人通ったかを手動でカウントすることを、Bluetooth センサーを用いて自動化したということです。

 

――そうした技術は、基礎調査のほかにも生かされたのでしょうか。

 

吉村 ICT 技術を用いた交通計画とは別案件として、グラシア地区という場所の歩行者空間化を同時に担当しました。このプロジェクトは、現在バルセロナ全体で進めているスーパーブロック・プロジェクトという大規模なものに発展するのですが、その最初の実証実験です。ここでは、交通で使っていたセンサーを人の歩行にも応用して、まちづくりに生かすことができました。

 

――ルーヴル美術館でも、混雑を解消するために人の動きを分析されたそうですね。

 

吉村 Bluetooth センサーをバルセロナの路上に設置することで、交通計画で使えることが実証され、さらにグラシア地区に設置したことで、歩行者にも使えることがわかりました。 当時、僕は欧州プロジェクト(FP6, FP7, Horizon 2020)なども担当していて、ブリュッセルにある欧州委員会(European Commission:EC)を訪問する機会も多く、ICING(Innovative Cities for Next Generation)というバルセロナ、ダブリン、ヘルシンキの3都市で連携したプロジェクトを担当していました。このプロジェクトのなかからMaaSの原型がヘルシンキチームから出てきたり、バルセロナチームからはDecidimのアイデアが生まれたりと、いま思えば現在に繋がるスマートシティのはしりだったと思います。僕のBluetoothセンサーもブリュッセルでは大変評判が良くて、直ぐに欧州中に噂が広がりました。そんななかでルーヴル美術館の方から相談を受けました。「モナ・リザ」などの人気作品の前では 5 重、6 重もの人垣ができてしまって、困っているとの内容でした。美術館は、1 枚の絵と向き合いながら己とも向き合い、さまざまなことを考える空間なのに、ゆっくり鑑賞できないというのは大問題だ、何とかならないか、と。そこで鑑賞者がどのような作品で立ち止まり、どのようなルートで鑑賞しているのかのデータを取るために、Bluetooth センサーを使いました。

 

 

サモトラケのニケ周辺の混雑状況(吉村氏撮影)

 

 

――そこでも、一定のパターンが抽出できたということですね。

 

吉村 混雑を解消するには、現在どこが混んでいるのかという現状分析と予測が必要です。多くの美術館では、学芸員の方が紙と鉛筆を持って鑑賞者の後をついていき、どこで立ち止まったか、どんなルートで歩いたかなどをチェックしています。ほとんどの美術館の平均滞在時間は多く見積もっても 1 時間程度ですが、ルーヴル美術館の平均滞在時間は 4 時間あります。4 時間も 1 人の人について回るのは困難ですし、たとえついてまわったとしても、得られるサンプル数は 1 個にすぎず、現実的ではありません。そこで、bluetooth センサーをガラスのピラミッドの下や、スフィンクスやミロのヴィーナスなどの主要ポイントに置いて、ビッグデータを集めました。1 年間くらいかけて集めたデータを、機械学習でパターン抽出することで、○曜日の△時ごろには、人はこう動いて、このあたりが混雑する、という予測ができました。

 

 

ルーヴル美術館内に設置した Bluetoothセンサーの位置と各作品間の来館者の移動量
(出典:Figure 3 from Yoshimura Y., Krebs A., Ratti C. 2017, Noninvasive Bluetooth monitoring of visitors’ length of stay at the louvre, IEEE Pervasive Computing, DOI:10.1109/MPRV.2017.33)

 

 

――日本では、ふだんは混雑していない美術館で伊藤若冲やフェルメールが展示されると、そこで何時間も並ぶ、ということがあります。コロナ禍以降は時間ごとのチケットを発行することも多くなりましたが、データを使えばもう少し余裕を持った鑑賞が可能になるかもしれませんね。

 

吉村 実際に日本でも取り入れようとしている美術館はありますし、世界中のどの美術館でも取り入れられます。そこがデータサイエンスの強みですね。1 度システムを作ってしまえば、どこでも同じ条件でデータを取得できるのです。

 

 

MIT でアーバン・サイエンス研究を深化させる

 

――MIT(マサチューセッツ工科大学)に赴任されたのは、どういった経緯からでしょう。

 

吉村 フルタイムで赴任したのは 2017 年からですが、MIT との関係は以前からありました。最初に行ったのは、2012 年のことで、ビジティングとして 6 カ月ほど滞在しました。僕のいた MIT のセンセーブル・シティ・ラボ(Senseable City Lab)の所長はカルロ・ラッティというイタリア人建築家なのですが、彼がいきなり「なんかルーヴルで面白いことやってるじゃないか」という趣旨のメールを僕宛に送ってきたんです。「一度ちょっと話さないか」というように。面白そうだったので話をしてみて、そのままビジティングに来ないか、という誘いを受けました。6 カ月ぐらいなら行ってみよう、と思って行ってみたところ、ボストンの街が思いのほか楽しかったんです。6 カ月のビジティング期間を終えて一旦はバルセロナに戻ったのですが、すぐにまたメールが来て、もう一度来ないかと誘われました。そこで、また 1 年後ぐらいに 6 カ月のビジティングに行ったところ、いくつかのプロジェクトが立ち上がりました。それ以降は必要に応じて行ったり来たりしていたのですが、2017 年からはフルタイムの研究員として、本格的に移住しました。

 

 

MITグレート・ドームでの伝統的な学生のイタズラ(吉村氏撮影)

 

 

―― MIT での研究は、他の方と共同で行うことも多かったのですか。

 

吉村 MIT には、自分のプロジェクトを勝手にしている人もいましたし、所長のカルロ・ラッティのように、ラボ単位でプロジェクトを動かしていて、他の研究員に依頼する人もいる、というように、さまざまなタイプの研究者がいました。僕はデータを活用したプロジェクトを、色々な人を巻き込みながら、チームを作って研究していました。

 

――『アメリカ大都市の死と生』を翻訳された山形浩生さんはインタビューで、MIT の不動産センター修士課程でのことを、不動産屋さんのおじさんに 2 次方程式の解き方を教えたりする一方で、その方が身体に叩き込んだ都市設計の何たるかを教えてもらったりした、と述懐されていました。

 

吉村 不動産センターは僕が勤めていたDUSP (Department of Urban Studies & Planning)のなかに入っていますが、そういう風土があるんですよ。日本では MIT というとメディアラボばかりフューチャーされることが多いのですが、都市計画やまちづくりに関しては、僕の勤めていたDUSP(建築・都市計画学部)が中心です。いろいろなバックグラウンドを持つ専門家が集まってさまざまな研究をしていましたし、異分野の研究者との交流も多く、非常に魅力的な学部でした。MIT には研究員として、約 3 年間勤務しました。

 

――その後、現在の東京大学の先端科学技術研究センターに招聘されて帰国されるわけですね。

 

吉村 はい。2019 年に日本に戻ってきて、共創まちづくりや社会連携研究部門市民共創型スマートシティといった分野での研究を進め、現在に至ります。

(2)に続く