スペクタクル、東京、近代個人主義
銀座から浅草へ
われは明治の児(コ)なりけり。
或年 大地 俄(ニワカ)にゆらめき
火は都を燬(ヤ)きぬ。
[中略]
江戸文化の名残 烟(ケムリ)となりぬ。
明治の文化もまた灰となりぬ永井荷風「震災」
吉見俊哉が『都市のドラマトゥルギー』でまず論じたのは、関東大震災を境にした浅草から銀座への盛り場の変遷だ。震災によって東京から完全に江戸が失われと嘆き、むしろ銀座から足を遠のけた作家がいる。永井荷風である。冒頭に引いたのは、荷風の有名な詩の一節だ。この関東大震災のちょうど10年前、日和下駄と蝙蝠傘で市中を散策し江戸の名残をみる荷風の随筆『日和下駄』(講談社学芸文庫)に書かれたような景色も、この災害によってほぼ奪われてしまった。
荷風については2回前に『摘録 断腸亭日乗』上下(岩波文庫)を読み耽ったことにすこし触れた。荷風は日々、東京の盛り場を渡り歩いた作家である。荷風は震災後、銀座を遠ざかり、墨東つまり向島へ向かう。戦前期の狂乱めいた喧騒は向島の溝川の蚊の羽音に紛れる。やがて日米開戦。東京大空襲で焼け出されてしばし東京を離れた荷風は、戦後になると昔の江戸の面影を見たのか、千葉の市川に住むようになる。そこからは世の中が銀座、大手町と騒ぐなか、荷風は浅草へ日参した。
昭和30年代に亡くなる、晩年の荷風の日記に至ってはほぼ毎日、天気と「正午浅草」の記述が羅列されていく。戦前の「銀座に飯す」と繰り返されたのとは、その当時の記述の豊富さも相まって対象をなす。誤解ないように付記しておくと、荷風が浅草を出歩いたのは戦後ばかりのことではなく、戦争の前にも浅草をよく逍遥しておりレビューショーや浅草オペラを楽しんでいる。
荷風が家を飛び出すのは遊興への欲求や寂しさのためだけでもない。当時、放送の始まったラジオの声が隣家から聴こえてくると堪らず家を出たという。荷風はラジオという近代文明を憎悪した。日記を読めば、雑踏に響く笑い声や噂話に耳を傾け、虫の声を楽しんだ荷風は、ラジオの声を受け付けることができなかった。あたかも、そこに潜むスペクタクルの無粋を憎むかのように。もう一冊、吉見俊哉の本をとりあげておけば『「声」の資本主義 電話・ラジオ・蓄音機の社会史』(河出文庫)の序章は、「1 永井荷風とラジオの声 〈荷風の苛立ち〉」である。吉見はラジオに対する荷風の苛立ちはそのまま昭和の文明全般にわたるものに向かっていると述べる。そのうえで、日記からラジオに対する執拗な口撃を1ページかけて抜書きする。ナチスがラジオによって国をひとつにしたように、ラジオがそのスペクタクル性で東京が江戸を、昭和が明治を覆っていくことを恨んでいる。
『「声」の資本主義』は電信、蓄音機、電話、ラジオへとテクノロジーが発展するなかで、社会のコミュニケーションがどう変化したかを論じたもので、本来であればここの記事のテーマに非常に参考になる──とくに電話によるコミュニケーションの変化がテクノロジーの民主化のパターン事例になる点など──のだが、今は紙幅がないのが恨めしい。
永井荷風に話を戻す。荷風の父は漢詩人であり実業界で活躍した永井久一郎である。その長男として明治12年(1879年)に東京に生まれた荷風は、アメリカ、フランスに滞在したこともあり近代化を象徴する存在でありながら、墨東に代表されるような陋巷の女たちを愛し、フランスの芸術文芸に深い敬愛を示しながら、落語、歌舞伎、ストリップといった大衆文化の世界に浸かる生活を送った。
文芸評論家の磯田光一が書いた評伝『永井荷風』(講談社文芸文庫)では、文明開化の時代、近代化の必要性を説き「有用」であることを第一義にする父と、江戸の昔を慕い「無用」であることに孤立していこうとした荷風の対比が描かれる。この父子の葛藤は劇的なものではなく、穏当で静かな、なんというか内向的な対立だったようだ。わたしの視点でも面白いのは、父のほうが歴史として新しい近代を信奉し、子のほうが古い時代に恋慕し頑ななほどである点だ。これが逆であれば非常にわかりやすいのだが。さらに加えておくと、この信条からみれば近代個人主義を体現しそうなのは父のほうでありながら、むしろ徹底して個人主義に邁進したのは荷風のほうだった。
父子の葛藤より、より劇的なのは弟の永井威三郎とのそれである。初婚こそ父の勧めで材木商の娘と結婚しているが半年で別れ、同時期に情を通じていた新橋の芸妓と結婚し家に引き入れたことで、威三郎は荷風と絶縁した。荷風の日記にも明らかだが、ふたりの母親のツネが危篤に陥った際に、再三にわたって面会するように求められた荷風が威三郎の家の敷居を跨ぐことを忌避し、結句、死に目に遭わなかったことだ。そのくせ、その日の日記には痛切に母の死を悼んでいる。それ以前にはいくども母を訪れ、伴って観劇にでかけていた様子を窺うと、どのような気持ちで荷風が死に瀕する母との面会を拒絶したのか。想うに余りある。
荷風は徹底して古いコミュニティを断絶した。作家の集まりも嫌っていた。実業家めいた菊池寛を蛇蝎の如く嫌った。明治時代の文明開化を嫌悪した漢詩人の大沼沈山にシンパシーを表明している。荷風は近代化を進める政治家たちの軽薄を嘲った。骨身にまで達した自己の信念、思想があり、それは何ものにも流れない。それでいてエロであり、底辺の大衆と容易に結託してみせる。自由奔放なのだ。磯田は荷風こそ日本で最初の近代的な個人主義者だったと述べている。近代を拒否した荷風がもっとも近代的だったというのは皮肉なことだ。
荷風はまた政治や軍隊とそれを牛耳る薩長閥を嫌った。菊池寛がつくった「文藝春秋」の記者であった半藤一利が書いた『荷風さんの昭和史』(ちくま文庫)を読むと、江戸っ子たる荷風に薩長の田舎者に江戸を奪われたことへの強い反発が窺える。半藤自身も、向島生まれの江戸っ子であり、父祖の土地が長岡とくれば薩長嫌いは荷風以上のものがある。
半藤はすぐれた日本近代史の研究者であり、ことに戦前から戦中の社会について詳しく、『荷風さんの昭和史』でもその筆力はぞんぶんに発揮される。半藤は荷風が当時の熱狂をよそに戦前、戦中の日本を冷徹に眺め、その行末をほぼ正確に見抜いていたと描く。どんな熱狂が帝都を覆っても「我関せず焉」と冷ややかに眺め、「そんなもんがうまくいくわきゃねェよ」と呆れる。卑怯な連中がのさばっているのを苦々しく思いながら、金属供出に協力するぐらいならと煙管を川へ投げ捨てる。表立って歯向かうのでなく、ただ淡々と粛々と抗いつづける。しかし、そうした姿勢を、あの時代に貫けた人がいったいどれだけいただろう。個人であること、自由であることは、かくも苛烈なことであると思い知らされる。
とはいっても、現代の市民運動的な徒党も主張も心底、憎んでいた。その態度はときにエゴイスティックで子どもじみて見えた。
戦時荷風日記の特色は、どれほど矯激(キョウゲキ)な戦争批判が記されていようと、大衆を戦争から守ろうとするいわゆる「反戦」からはほど遠い。正義を掲げて戦争に反対するのではない。戦時体制のもたらす不当な強制が、個人の存在そのものを過酷に脅かしてくることへの、痛罵の文字を荷風は執拗に書きつづけていたのである。
『永井荷風』
半藤も荷風に同調して述べる。だいたい、明治政府をつくり、軍閥の中心となった薩長の連中というのは、天誅討ちを繰り返した暗殺集団、テロリスト集団なのだ。どんなにお高くとまっても、その野蛮から逃れることはできないと。
そういえば、ちょうど2年前の#23「現代史のなかの宗教とテロリズム 安倍元首相襲撃事件で考えたこと」のなかで、わたしは日本の近代史においてテロリズムといえば右翼のものだったと書いたが、考えてみれば当然でその伝統はむしろ保守側のものだったのだ。
荷風もいう。たしか盧溝橋事件についてだが、だいたい日本の武人というのは闇討ち、奇襲が大好きではないか。そんな連中が国際感覚を正しく読んで諸外国の理解を得られるような仕儀をとれるわけがないではないか、と。ネット界隈の過激な嫌韓言論にある、伊藤博文を殺した安重根というテロリストを英雄と祭りあげるなんてという嘲笑も、なんのことはない伊藤博文ももとをただせばテロリストであったとすれば、こんな“巨大ブーメラン”はなかろう。
今回のトランプ氏の狙撃について、その暴力を憎む発言はすぐにライバルであるバイデン現大統領から発せられた。わたしは、日本の知識人のなかに一定数以上、「トランプみたいな男は殺されても仕方ない」という心情がなかったかと疑っている。それはわたしたちの伝統がそう思わせるものかもしれない。むろん、アメリカのSNSでも野蛮な投稿が見られるようだから、ことは日本人のみの話ではないのだが。
数年前、アカデミー賞の授賞式で俳優のウィル・スミスが妻を侮辱したコメディアンを壇上で殴打した事件が話題になったときも、ウィル・スミスの暴力を徹底的に批判する欧米人とは対照的に、日本人はウィル・スミスへのシンパシーが語られた。そのときにも、わたしたちの奥底に暴力を肯定してしまうなにかがあるような気がした。
この7月には新紙幣が発行された。渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎と実業界、教育界の偉人が占めたが、以前は紙幣といえば明治の元勲たちの顔がよく覗いていた。そういう元勲たちも、かつてはテロリストだったといえば誰かにお叱りを受けるのだろうか?