オルタナティブな日常が与えてくれる“大きな物語なき現代”の幸福
――『メタバースとは何か』著者・岡嶋裕史氏に聞く(1)

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聞き手 桐原 永叔
IT批評編集長

サイバー空間に構築されつつあるもう一つの世界「メタバース」。メタバースが次のキラーサービスとして大きな注目を浴びているのは「リアルと仮想の融合」や「仮想世界に住む」ことが、空想ではなく現実味を帯びているからに他ならない。著書『メタバースとは何か ネット上の「もう一つの世界」 』(光文社新書)で、リアル社会との対比で鮮やかにメタバースの本質を解き明かした岡嶋裕史氏に話を伺った。

取材:2022年3月9日 トリプルアイズ本社にて

 

岡嶋裕史(おかじま ゆうし)

1972年東京都生まれ。中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程修了。博士(総合政策)。富士総合研究所勤務、関東学院大学経済学部准教授・情報科学センター所長を経て、現在、中央大学国際情報学部教授。『ジオン軍の失敗』『ジオン軍の遺産』(以上、角川コミック・エース)、『ポスト・モバイル』(新潮新書)、『ハッカーの手口』(PHP新書)、『思考からの逃走』(日本経済新聞社)、『ブロックチェーン』『5G』(以上、講談社ブルーバックス)、『数式を使わないデータマイニング入門』『アップル、グーグル、マイクロソフト』『個人情報ダダ漏れです!』『プログラミング教育はいらない』『大学教授、発達障害の子を育てる』(以上、光文社新書)など著書多数。

 

 

目次

コンピューター、ゲーム、アニメの洗礼を受けた最初の世代

AIが人間の知性を相対化するようにメタバースが社会を相対化する

人は本当に多様性を求めているのか

生きる目的を強いられることの辛さがメタバースで緩和される

若い人たちはSDGsのような大きな物語を必要としている

 

 

 

コンピューター、ゲーム、アニメの洗礼を受けた最初の世代

 

桐原永叔(IT批評編集長、以下桐原) はじめに岡嶋先生の経歴からお伺いします。子どもの頃の興味・関心からお聞かせいただければと思います。

 

岡嶋裕史氏(以下岡嶋) 私は小学校のころから、非社会的な子どもだったので集団生活とか苦手で、学校には居場所がないと思っていました。それが、小学4年生ぐらいのころにPC-6001とか8001とかが出てきて、コンピューターでプログラミングを始めたら、それが面白くて夢中になりました。当時まだネットワークもアプリストアもなかった時代ですが、雑誌メディアがすごく発達していて、カセットテープにプログラムを録音して送ると、採用されて活字になるという経験をしました。

 

桐原 ピーヒョロヒョロっていうやつですね。

 

岡嶋 そうそう。ピーヒョロロです(笑) 「Beep」(ソフトバンククリエイティブ)とか「I/O」(工学社)とか、そういう雑誌に投稿した自分のプログラムが載ったのです。それで味をしめて、「ひょっとしてこれで食っていけるんじゃないか? この仕事だったら、人付き合いとかしなくて済みそうだし」なんてことを考えていました。9歳とか10歳のころだったと思います。それで変に自信を付けてしまって、高校には行きませんでした。大検(大学入学資格検定)を受けたら、あらかた単位が取れたので親もそれで納得してくれました。3年間遊ぼうと思って、PCゲームの『大戦略』(システムソフト)とか『信長の野望』(コーエー)とかをやっていました。3年遊ぶつもりが5年遊んでしまって、それで20歳で大学に入りました。大学は、いろんなことが勉強できるように総合政策学部に行きました。当時、田中芳樹さんの『銀河英雄伝説』(徳間書店)にかぶれていたので、政戦両略を学んでみたいと思ったのです。入ってみたら、そんなことをやる学問はなかったので、結局コンピューターばかり勉強することになりました。それで、やっぱり会社員生活が自分にはできるのだろうかと思って躊躇していたら、何となく大学に残ることになり、今までずるずると大学に居続けている感じです。一回就職はしているのですが、働いてる間もずっと大学院には通っていました。

 

桐原 ご経歴を拝見して、一度完全に社会に出られて戻られたのかと思っていたのですが。

 

岡嶋 富士総合研究所(現・みずほ総合研究所)にいたのですが、これから三行統合するので忙しくなるぞと言われ、じゃあ辞めようと。籍だけ大学に残していたので戻りました。僕は、人生を間違えつづけているのですが、統合のときに辞めたのだけは正しい判断だったなと、今でも思っています。

 

桐原 なるほど。いまだにみずほ銀行は統合の後遺症で大変なことになっていますね。私は世代も近いですし、勝手に岡嶋先生にシンパシーを抱いているのですが、コンピューターとかサブカルチャー、アニメやゲームなんかがメインストリームになりはじめた最初のほうの世代ですよね。先ほど『銀河英雄伝説』の話が出ましたが、それもオタク的にその世界にはまった感じでしたか?

 

岡嶋 はい。すっかりはまりました。でも、オタクって意外と活動的だったりするじゃないですか。推し活やってみたりとか、コンサートに行って踊りを披露してみたりとか。私は人前に出るのが嫌いだったので、ああいうのはやっていないです。コミケとかも混むから行きません。

 

桐原 そうか。たしかにオタクって活動的な人たちが多いですね。オタク同士で旅行行ったりしますからね。

 

岡嶋 抱き枕抱えて、ツインの部屋でお願いしますみたいな人たち。世間一般のオタクのイメージと違って、人と一緒にいるとか、集まってどこかに遠出するのが好きな人たちが実は多いですよね。

 

桐原 分かります。いわゆる内向的な感じとは、ちょっと違いますね。

 

 

AIが人間の知性を相対化するようにメタバースが社会を相対化する

 

桐原 実はずっと「生きづらさ」をテーマとして抱えていて、IT批評のレビューも、生きづらさをどう捉え、どう考えるのかという姿勢で書いたものもあります。メタバースという「仮想現実」に対して、現実逃避のような言い方がされたりするのですが、先生のこの本(『メタバースとは何か ネット上の「もう一つの世界」)には、現実のオルタナティブとしての仮想現実という捉え方がされていて、AIが人間の知性を相対化するのと同様に、メタバースが社会を相対化するのではないかということを本日はお聞きしたいと思っていました。

 

メタバースとは何か ネット上の「もう一つの世界」
岡嶋裕史/著
光文社新書
ISBN 978-4-334-04584-5

 

 

岡嶋 大きいテーマですね(笑) 今まで社会といえば、このリアルな世界しかないと思われていたなかで、メタバースはリアル以外の社会や世界もあり得るという一つの可能性を示したかもしれず、そこはすごく面白いなと思っています。これまでも違う世界はあったのだとは思うんですね。それこそ活字で小説を読んでその世界観に浸るとかそこで遊ぶみたいなことって、これまでも普通にやってきたと思うんです。

 

桐原 私も性格的に世の中に合わせることが難しくて活字の世界に居場所を見つけたタイプなのですが、他人とそんなに仲良くなれなくてもいいや、自分の好きな本や音楽に囲まれて過ごしていければいいやと思っていました、よく。

 

岡嶋 そうそう。そう思いますよね。リアルと違う世界ってみんなどこかで必要としていると思うんです。卑近なところで言うと、学校の人間関係が嫌な人が、塾にも行ってもう一個の社会に属することで生きにくさが希釈されることがあります。趣味の世界に生きるというのもそうです。それが小説かもしれないし、最近ですとSNSやゲームかもしれない。そこで、リアルで満たせない欲求を満たします。銃を撃ってみたいとか、嫌なやつがいない人間関係の場をつくりたいとか。

 

桐原 そこでお聞きしたいのは、小説やこれまでのゲームとメタバースはどこが違うのでしょうか。

 

岡嶋 メタバースが質的にちょっと違うなと思うのは、生産活動もそこでできるかもしれないことです。2003年に3DCGで構成されたインターネット上の仮想世界である「セカンドライフ」がリリースされた頃にも言われていましたが、仮想世界のなかで商売や学習が実現できそうなところまで進歩してきました。仮想世界での学習ってあまりみんな真剣に捉えてなかったですが、このコロナを経験した2年間でタイムマシン的に時計の針が進んだところがあって、「仮想世界で授業なんて成立するわけないじゃん」って言われていたのが、いや、むしろそっちでやってくれよと思うようになりました。リアルとはまだ比肩し得ることはできないですけれども、ここで生活圏を広げていけるのではないだろうかと、情報の密度とか広がりみたいなことも含めて、一つの世界といえるぐらいになってきたんだなと、そんな認識が広がってきた気がします。

 

桐原 そう思う人が増えてきたことが大事ですね。

 

岡嶋 認識の部分が大事だと思うんですね。いくらやれるよと言っても、社会が受け入れてくれないと成立しないものなので。技術側の人間としては、まだ10年、20年かかると思っていたのが、コロナでみんな意識が変わって、この世界もありかなって思いはじめたので、メタバースがまた再浮上してきたのかなと思います。概念はあったし言葉もあったけど、まだまだ先だよね、夢想だよねと思われていたのが、コロナで半強制的に仕事や勉強をオンライン上でやらされて、これもありじゃないかと思う人が増えてきたことで、この時期にメタバースがハイプを迎えているのかなと思います。

 

 

 

 

人は本当に多様性を求めているのか

 

桐原 出社自粛だとか通学がなくなるだとか、人がリアルに集まることの意味が薄まって、それこそ東京一極集中も終わると言われたりする。時代を先取りする企業は早々にオフィスを解約するようなことが起きました。コロナは都市の機能や構造を考え直すタイミングになったのは間違いないですし、それがメタバースの隆盛と重なる気がします。

 

岡嶋 そうですね。やはり人が集まることの優位性や意味、価値は大きいと思うんです。東京に一極集中がよくないねというのは、もうずいぶん前から言われていることです。でも、実現しない。みんな過疎地に行けばいいかというと、それは利便性が大きく損なわれてしまう。やはり二律背反があって、どうしても両方は達成できないと思われていたのが、仮想世界でいいのなら密ではあるけれど一極集中を緩和できるような構造にできる。それが産業や学業の部分で実現したということが言えると思います。私は所管が文科省なので、そちらの話になりますけど、一極集中はよくないと「東京23区にこれ以上大学つくらせないぞ。地方に人を、若者を分散させるんだ」といったさまざまな施策を打ち出してきました。しかし23区を禁止しても横浜に人が集まってくる。結局のところ、人は集まるし、そこに利便性がある。そんな状況のなか、コロナで今度こそ東京に人が来なくなると言われはじめ、実際に学生は来なくなった。地方の学生が上京して受験してくれなくなった。どこに集まっているのかというと、地元の大学ではなくて、通信制で海外の大学のコースをとるといったほうにシフトした気がします。

 

桐原 イノベーションというのは多様な人が集まるからこそ都市で起きてきたのに、都市への集中がなくなると新しい文化を生み出す機能が落ちるのではないかという考えもあります。その代替としてインターネットが多様な人々の交流の場としてイノベーションの契機になるという反論もある。しかし、岡嶋先生がよく指摘されているようにインターネット上にはフィルターバブルが発生して、むしろ多様性を受容しない動きになりやすい。人が集まり交流する場としてメタバースは意味を持ちうるでしょうか。

 

岡嶋 後ろ向きな見方ですが、多様性、多様性って言うけど、実はみんな多様性なんて欲しがってないんじゃないか。多様性のなかで、ポリコレみたいなものと折り合い付けて生きていくためには、むしろドメインを狭めて完全にフィルターバブルをつくってしまうほうがいいんじゃないか。寂しかったらAIが相手してくれる。リアルでは実現不可能でもメタバースならできるかもしれないから、それをつくってしまえば、争いにはならないのではないか。多様性があるなかでみんな刺激し合って成長していこうという世界を私は描いていません。おそらく世の中で語られる多様性とは「みんなが互いの悪い部分も含めて飲み込んで刺激し合おうよ、そうすると、イノベーションが起きるよね」ということだと思うんですけど、どっちかというと、イノベーションよりはケンカばかり起きています。

 

桐原 よく分かります。企業でも多様性が大事だ、ダイバーシティだと言うんですが、ダイバーシティ&インクルージョンの部分が一番難しくて誰も目を向けていない。多様性は言えるけど、インクルージョンの部分に注目して語るビジネスマンがあまりいない。たしかにSNS上でも人の意見を受け入れない姿勢は変わりようがないですね。

 

岡嶋 自分の意見が変であっても、それを受け入れてほしいという多様性は主張するけど、他人の気持ち悪い意見を受け入れるかといったら、それはない。今後もなかなか難しいかなとは思っています。なので、バブルの中に閉じこもって、一人で楽しく暮らそうよということを言っている、超後ろ向きな本(『メタバースとは何か ネット上の「もう一つの世界」 』)なんです。

 

 

生きる目的を強いられることの辛さがメタバースで緩和される

 

桐原 ゲームに参加するときって、ゲームのキャラクターにも生きる目的が必要になってきますよね。

 

岡嶋 ああ、そうですね。

 

桐原 リアルで生きていると生きる目的をみんなに求められるわけです。何のために生きているの? 何のために働いているの? それに対して自分も答を出さないといけない。先生の本を読んでいて惹かれたのは、メタバースのなかでゲームをしないで、目的を持たずに生きているキャラクターたちの存在です。これを逃避と言うべきかどうか分かりませんが、生き方のオプションとして、現実では得られないものがそこにはあるぞと感じました。

 

岡嶋 本当にそう思います。なんでそんなに目的が必要なんだろうと。自分らしく生きなきゃいけないとか、やりがいを実現できるような仕事に就かなきゃいけないとか。それはたしかに価値があることだと思うのですが、学生さんがつらそうにしているのを見ると、みんなが達成しなければいけないようなタスクなのかなと疑問に思います。もちろんやりがいや社会との関わりに価値を求めるのはいいけど、たとえば僕の世代がそんな大層なことを考えていたかなというのはちょっと思うんですね。

 

桐原 私も若い人たちに向かって、キャリアプランが大事だなんて言いながら、いや、明日何があるか分かんないよって言ってしまいます。

 

岡嶋 本当に分からないですよ。

 

桐原 人生の目的について考えることは無駄にはならないけど、そのとおりに生きなきゃいけないって考えたら苦しいでしょうね。

 

岡嶋 すごく苦しんでいますからね。そんなに先々のことまで考えて、職を選んだりしなくてもいいのにって言いたくなります。

 

桐原 メタバースがあることで、かえってリアルにおける生きづらさが強調されているかもしれないですね。

 

 

若い人たちはSDGsのような「大きな物語」を必要としている

 

桐原 先生の本に、若い人の間に「絶対に間違えたくない、時間や労力を無駄にしたくない」傾向があると書かれています。

 

岡嶋 投じた努力は100%回収するんだという感覚です。

 

桐原 若いときは1、2年ぐらいぶらぶらしてもいいと思うんですけど、そういう感覚を彼らは持ちえない。それはやっぱり現代という時代がどんどん生きづらくなっているからでしょうか。

 

岡嶋 彼らは2時間の映画を観ることができない。時間を無駄にしたくないので、他の人のレビューが済んでいて星5つの映画しか見ない。あるいは10分でまとめてくれている動画を見て、良さそうなら2時間を1.5倍速で観ている。正直、それで楽しいのかなと思うんですけど、2時間という時間をつまらない映画に費やしてしまったら、時間という資源を無駄にしたことになるので、彼らにとっては今日という価値ある日を毀損してしまったことになると真面目に捉えているのです。

 

桐原 われわれが実感しているより抑圧を感じているのでしょうね。その抑圧というのは、本にも書かれていましたが、ポストモダン的な大きい価値が失われて、目標とするものがない世界がもたらしたものなのでしょうか。

 

岡嶋 「大きな物語」に回帰している傾向はあると思います。SDGsが好きなのもその一つです。自分が学生のときには、そんな大きな話には興味がありませんでした。

 

桐原 大文字の正義とか愛とか、われわれは恥ずかしくて口に出さなかった。

 

岡嶋 出さなかったですね。若い人たちはそういう物語を必要としているのかもしれません。何でも自分で組み立てて、そこに立脚して、自分ができる目標を決めて、自分のオンリーワンの人生を生きなさいと言われるとしんどいのでしょう。SDGsなら、誰もが納得してくれる。本当はそんなに深く考えてないのかもしれないですが、そういう大きな物語があると生きやすいのかなと思います。

 

桐原 それはある意味で相対的ですね。みんながいいと言っているからいいと思っている。むしろひねくれて、いや、SDGsなんて怪しいよって言うほうが、実はしっかりしているかもしれません。

(2)に続く