私たちはいかなる進化の途上にいるのか――心・意識・自由意志をめぐる問い
第4回 自由意志と哲学への問い

この節では、前回紹介した『自由の余地』に続いて『自由は進化する』と『自由意志対話:自由・責任・報い』の2冊を参照しつつデネットの自由意志をめぐる思考の推移を追ってみたい。ときに人を煙に巻くような主張をしてきたデネットが遺した思考のツールにおいて、私たちは彼の考えを継ぐことができるかもしれない。
目次
自由の来し方行く末
『自由は進化する』(山形浩生訳/NTT出版)では、いかに自由な責任主体が現れたのかを、進化のストーリーのもとで語る。本書ではまず、決定論のもとで誕生した生物種の1類である人間が、適応のために相互に協力するという行動が発生したと考える。そして相互協力という戦略を進めるために、自己利益を優先して協力に背いたり従わなかったりする者にペナルティを与えるという行動が発生する。自由意思を行使する者としての責任主体の合理的形成はここに生じる。そこでは言語や制度を通じて協力にコミットすることを顕示しつつ、責任実践を行うことが自己利益にかなうものになってくる。また、能力に応じて責任を負う人と責任を免除される人との線引きがなされるようになり、現在に至っている。しかしこれは進化の途上にある仮定に過ぎず、この線引きは非決定論的な要素を含まない、政治的なものだといえるので、両立論は成立するというわけだ。同書では、進化が進むにつれて自由意志が別様のものになることも示唆されている。
自由意志は“道徳的行為者クラブ”のライセンス?
グレッグ・カルーゾーとのディベートを収めた『自由意志対話:自由・責任・報い』(木島泰三訳/青土社)においては、自由意志を懐疑する帰結論者であるカルーゾ―は、自由意志論に基づいて人がある行為について刑事罰などのペナルティを受けるような非決定論的な事例について、デネットがその人がペナルティを受けるにふさわしいからだという非決定論的な事実において正当化するのであれば、そこに理論の一貫性をみることができるとする。そうすれば、ハード決定論者としてのカルーゾーは、たとえば行為とペナルティとの非対称性を指摘することで、そこに非帰結主義の矛盾を論難することができる。しかしデネットは、ペナルティへのふさわしさ(や免除のふさわしさ)の論拠とされる行為者としての自由意志について、進化の過程において現時点で得られているもので、だれも次の進化における別様の自由意志を知り得ないのだから、そこに留まるしかないという帰結主義的な論で説明することで、帰結論と非帰結論との次元を通時的にバイパスしてしまう。結局この対話においてカルーゾーはデネットとの対話を「あなたとの対話はつかみどころのないウナギと話しているようだ」と評し、デネットは「あなたを“道徳的行為者クラブ”のメンバーに引き入れることができなかったことは残念だった」という。