サイボーグ・フェミニズムの到来
第4回 再定義される性とジェンダー
人について考えるさまざまな思想は、相互に関連しながら展開されてきたが、人文学という呼称が示すように、それは言語に特権的な地位を与えてきたロゴス中心主義的な側面を強く有していた。20世紀後半には、それを相対化する思潮が芽生えたが、それもまた乗り越えられていくこととなる。
目次
再考される「性-ジェンダー」規範論
ドイツ観念論の哲学者ヘーゲルは『精神現象学』のなかで、自己は理性においてではなく、他者のなかに存在する自己を見出すことによって認識されるという相互承認論を提示した。シモーヌ・ド・ボーヴォワールはキャリア初期に、のちにレーモン・クノーによる講義録『『ヘーゲル読解入門――『精神現象学』を読む』』(上妻精・今野雅方訳/国文社)として刊行される、アレクサンドル・コジェーヴのヘーゲル講義に大きな影響を受けている。1949年に著した『第二の性』執筆に先立つ1947の評論「両義性のモラル」(『ボーヴォワール著作集 第2巻』所収/青柳瑞穂他訳/人文書院)ではこの承認論を「個別性に欠ける」として批判している。人口に膾炙して久しい「女は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言葉は、男というカテゴリーから疎外された他者として強制された社会的な構築物として女のジェンダーを定義づけたものとされ、その立場を脱して実存的な主体となるための女性の権利を獲得しようとする運動の理論的支柱となった。その背景には、非対称的なジェンダーのもとで、新たな男女の関係を弁証法的に産出することは不可能であるという断念があった。
ボーヴォワールが戦略的に採用したのは、社会規範や慣習を形成している男性的な言説中心主義に、欲望の対象としての女の身体を対置することだった。女性は普遍的な規範からの他者として脱文脈化されているが、女の身体に他者性をしるしづける男性的なロゴス中心主義の意味機構のほうは、脱身体化されているではないか、という批判である。だからこそ、ボーヴォワールは自由な身体に基づいて女が主体性を持ちうる道筋を説いたのである。
とはいえ身体と精神とを対立させる二分法がプラトンからデカルトに連なる心身二元論の延長としても捉えられるだけでなく、通時的な理解においても齟齬を生じさせる。ボーヴォワールの言うように、男性的な社会文化的な強制においてジェンダーとしての“女になる”のであれば、それ以前はなにとして生まれるのかという疑問がある。他の多くの動物のように、生物学的な雌雄としての性があるというのが性(セックス)と性別(ジェンダー)を区別する一般的な認識ではあるが、その認識を敷衍すれば、生物学的な性が先験的に社会文化的なジェンダーを受け入れる準備をしていることになり、その生物学的な性は、女性がジェンダーの役割に基づいて出生した一方の性差として発生したという無限後退を辿らざるを得ないこととなる。また、男性的強制によりジェンダーがもたらされるというこの定式からは、セクシャル・マイノリティに属する人々の性自認がいかに発生するのかは不鮮明になってしまうことからも、少なくとも現代においては再考の余地が残されているように思われる。