シンギュラリティはより近くなっているのか
第4回 あるいはコードでいっぱいの心

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テキスト 都築 正明
IT批評編集部

前回は2024年に物故したダニエル・カーネマンの業績に触れたが、同じく昨年生涯を終えたダニエル・デネットは“意識のハード・プロブレム”の想定や“哲学者のゾンビ”の思考実験が無意味であると批判しつつ、機械に意識が宿る可能性を提示した。

 

 

目次

回帰するデカルトの亡霊たち

哲学者の語るゾンビと甘美な夢想

 

 

 

 

回帰するデカルトの亡霊たち

 

第1回で、レイ・カーツワイルが、デイヴィッド・チャーマーズに依拠していることを指摘したが、チャーマーズの説を鋭く批判したのが2024年4月に物故した哲学者ダニエル・デネットである。あらかじめ強調しておくと、デネットはコンピュータに意識が生じる可能性を強く主張している。1980年代にはタフツ大学でコンピュータの講座を担当しており、同大学内に計算科学を“カリキュラ―・ソフトウェア・スタジオ”を創設した1人でもあり、人の心をコンピュータのアナロジーで説明してきた科学者だ。

自然主義哲学者を名乗り、徹底して唯物論的に進化や意識について考察してきた彼は、チャーマーズのいう“意識のハード・プロブレム”は願望的思考にすぎないとする。私たちは、だれもが意識を持っているにもかかわらず、それを客観視することができない。言い換えれば、認知科学者であれ幼児であれ、私たちはみな意識の専門家でありつつ門外漢であるというところだろうか。教育をめぐる議論について、しばしば総評論家や床屋談義と揶揄されることがあるが、発達を底にするゆえに、似たような構造があるのかもしれない。

デネットは『解明される意識』(山口泰司訳/青土社)において“意識のハード・プロブレム”を論じる科学者は、人の心に神聖不可侵なものがあることを無批判に信じており、その領域を解明しようとしないのは想像力の欠如にほかならないと喝破する。多くの認知科学者は、自身のことを心身二元論に与しない客観的な唯物論者であることと自認しているが、デネットにしてみると、この領域に踏み込もうとせず、知覚経験を処理する意識の中央処理装置のようなものを仮想する科学者たちは「我思うゆえに我あり」のモデルから脱することのできない“自称”唯物論者の反知性的な責任回避ということになる。

複数の知覚モデルを統合し、それを映画を鑑賞するようにみている意識の主体が脳のどこかにあるという考えを、彼は二元論から派生した“カルテジアン劇場”と呼び、意識する私を意識する私、そしてそれを意識する私……という無限後退にすぎないとしている。“カルテジアン劇場”は、ルネ・デカルトのラテン語名レナトゥス・カルテシウスにちなむもので“デカルト劇場”と称されることもある。“カルテジアン劇場”を否定する見地からは、チャーマーズのいう“意識のハード・プロブレム”は、作動の合理性を解明する“イージー・プログラム”を解決したうえでなお残る、名状しがたい自己意識を信じようとする人々の言い分ということになる。デネットは、論理的説明が不可能なものの存在があるという仮定に立っている人は、それゆえに科学的な理解を受け付けず、それこそが“ハード”な問題であると皮肉っている。

 

解明される意識
ダニエル・C. デネット 著, 山口 泰司 訳
青土社
ISBN978-4791755967

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