テクノロジーはイデオロギーから遠く離れて ポストモダンからポストヒューマンの時代へ
第5回 科学的知見が思想の奴隷とならないために

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

1996年の「ソーカル事件」から続く知の相対化と政治化は、現代思想と科学の関係を揺るがしてきた。科学を批判的に再解釈するポストモダン思想は、やがて科学そのものを否定し、政治的イデオロギーに吸収される様相を見せる。本稿では、「知」の欺瞞と相対化の過程を振り返りつつ、AI時代におけるテクノロジーと思想の関係を問い直す。

 

 

目次

「知」はどこまで相対的か

相対化される真実

テクノロジーに思想的な断定を加えてはならない

 

 

 

 

 

「知」はどこまで相対的か

 

「不満スタディーズ事件」は、「第二のソーカル事件」、「ソーカル二乗」としても名高い。よく知られているように「ソーカル事件」とは、1996年に物理学者アラン・ソーカルがポストモダン思想分野の学術誌『ソーシャル・テキスト』に、意図的に内容が非科学的でナンセンスな論文を投稿して始まった一連の出来事をいう。
論文は「境界を侵犯すること:量子重力の変換解釈学に向けて」というタイトルで、難解な用語やポストモダン理論を引用し、科学的根拠を欠いた、専門家にはすぐに嘘とわかるフィクションで構成されていた。論文は査読を通過して掲載された直後にソーカルはこれが無内容な疑似論文であることを暴露。ポストモダン思想や人文学の学術の基準を批判し、「サイエンス・ウォーズ」と呼ばれる大論争を巻き起こした。
首謀者のアラン・ソーカルは事件後、物理学者のジャン・ブリクモンとともに『「知」の欺瞞—ポストモダン思想における科学の濫用』(田崎晴明、大野克嗣、堀茂樹訳/岩波現代文庫)を書き、ラカン、クリステヴァ、ボードリヤール、ドゥルーズとガタリといった名だたるポストモダニストたちの名を章タイトルに掲げ、それぞれの理論の自然科学における知見に対する理解の杜撰さ、解釈の手前勝手さを具体的に指摘し、ポストモダンの理論が根拠にした数学の定理や物理学の法則を無化した。
わたしが読んで面白いのは、トーマス・クーンのパラダイム論、カール・ポパーの反証可能性、ポール・ファイヤアーベントの「なんでもあり」の科学的方法論について、それぞれに批判を加えていることだ。これらの科学哲学は、ポストモダン思想に先行して科学的な事実が文化に多大な影響を受けていたり、理論負荷性といった──主観的な先入観に影響をうけるという意味で──相対的なものであったりすることを説明する理論を立てていた。
ソーカルらの科学哲学への批判は、因果関係の観念が事象の連続性から生じる「心的習慣」にすぎないと結論づけ、実態より経験を重んじたディビット・ヒュームの帰納法にまで及んでいる。
ソーカル事件の衝撃は大きく、ポストモダン側からの反論も激しかった。現代思想の失墜を思わせるものがあったが、先に見た不満スタディーズに明らかなように、その後、ますます先鋭化し政治化していった。
ソーカル事件後、日本でも『「社会正義」はいつも正しい』の訳者でもある山形浩生氏が浅田彰の著書『構造と力-記号論を超えて』(中公文庫)におけるクラインの壺の比喩について批判を展開した。浅田は、クラインの壺を用いて資本の循環や内外の区別の曖昧さを説明したのだが、山形氏は浅田のクラインの壺の解釈が数学的に不正確であり、比喩としても適切でないと指摘した。この批判に対して、浅田や他の論者からも反論があり、議論が展開された。

 

「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用
アラン・ソーカル, ジャン・ブリクモン著, 田崎 晴明,大野 克嗣, 堀 茂樹訳
岩波現代文庫
ISBN978-4006002619

構造と力-記号論を超えて
浅田 彰 著
中公文庫
ISBN978-4122074484

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