「名もなき者」たちのマシーン
第4回 創造性が階級を超えるとき ─ パンクと現代カルチャーの反逆精神

江戸庶民が変名で権力を嘲ったように、パンクは名前すら捨て、既存の枠を壊す象徴となった。現在、ボーカロイドやネット発の文化がグローバル市場で台頭する姿は、かつてのパンクと同様に、マイノリティが創造性で階級を超える証明である。
目次
階級を脱出するためのオルタナティブなレース
現代日本は厳密な意味での階級社会でない。他国と地を接しない島国のなかに同じ言語を使う、ほぼ同じ民族が住んでいる。かえってそのことで個性の差別化──優越化ではない──の手段としてクリエイティビティが求められたりする。空気を読みながら同調していく表層的な社会活動とは別に創造性をもって別名で参加するコミュニティが求められてしまう。
欧米では現在においても明確に階級社会である。資本家・経営者からなる上層階級があり、専門職やサラリーマン層からなる中流階級があり、労働者の階級がある。能力主義社会においては、この階級差は個人の能力によって越えていけるものとしてある。しかし、その実、階級差は、社会学者のピエール・ブルデューのいう経済資本、文化資本、社会関係資本の差によって親から子へと再生産されている。上層階級にとって能力主義の競争はスタート地点から優利にできているのだ。
英ニューカッスル近郊の労働者階級の出身であるミュージシャンのスティングはかつて「この街を出るにはミュージシャンになるか、サッカー選手になるしかなかった」と述べている。スタート地点から不利なレースでは、なんらかオルタナティブの手段を用いるかオルタナティブなレースに参加しなければ階級から脱出できない。身体的な能力や創造的な能力は端的なものだ。身体的な能力は持って生まれた才能に大きく左右されるが、一方の創造的な能力は社会が有する価値観が多様であるほど個性によって後天的に変化させうるものだ。
このスティングの言葉を思い出すとき、わたしが現在のJ-POPのグローバル市場への進出と同じことが、1960年代ブリティッシュ・インヴェイジョンと言われた、ビートルズを象徴とする英ロックバンドの米音楽市場への侵略において起きていたのだと考える。
ミック・ジャガーのように中産階級出身者もいるのだが、ワーキングクラスヒーロー(労働者階級の英雄)と歌ったジョン・レノンをみるまでもなく、多くが労働者階級の出身だった。
彼らはその少し前に電化されたギターを武器に、まさに電化によって発生するフィードバックノイズを新しい音として鳴らして世界に現れたのだ。
大西洋の対岸でも同様だ。人種としても社会から疎外されていた黒人たちは楽器さえも手にせず作曲の技術も身につけず、ターンテーブルを並べることで新しいビートを生み、言葉の奔流をのせるという新しい文化を発明し、社会に居場所をつくっていった。
そして日本では、ボーカロイドとニコ動を武器にマイノリティがいまやグローバル市場にポジションを確保するまでに至っている。大衆音楽の歴史として正統ともいえる展開なのだ。
いや、大衆音楽の正当な歴史のうえで本稿のテーマとしても見落としてはならないムーブメントがある。パンクだ。