破壊せよ、とだれも言わなかった

REVIEWおすすめ
テキスト 都築 正明
IT批評編集部

2024年5月、Apple社がリリースした新型iPad Proの紹介動画が“炎上”した。Apple社はすぐに釈明文を出して謝罪し、動画を撤回した。このコラムでは破壊への批判とネオ・ラッダイト運動に向けられる視線を取り上げ、テクノロジーをめぐるさまざまな視点について考察する。

 

 

目次

新型iPadの広告の炎上からみえてきたもの

破壊衝動を表現するのは幼稚な身振りなのか

再・再魔術化する人工知能

ラッダイトになってもいいですか?

 

 

 

 

 

新型iPadの広告の炎上からみえてきたもの

 

2024年5月7日、Appleが新型M4チップを搭載したiPad Proをはじめとした新商品発表とあわせてYouTube上に「Crush!」と題した動画を公開した。油圧プレス器が、トランペットやピアノなどの楽器やゲーム機、カメラやペンキ缶など押しつぶしていき、最後にはiPad Proだけが残るというもので、発表後にはこの動画に否定的なコメントが投稿された。

最初にみられたのは、楽器経験者などが率直に「楽器を壊すなんてけしからん」というもの、次に増えたのは自分がどれだけ既存のクリエイティブ・メディアを愛しているかを顕示するもの、さらにこれらの意見を総括して、モノを壊す行為は、付喪神(つくもがみ=長い年月を経た道具や自然などに宿る精霊)の信仰や職人的な“ものづくり”を大切にする日本人のメンタリティに合わないというものだった。

まずいえるのは、この忌避感情は日本だけで表出されたものではないことだ。X(旧:Twitter)では、イギリスの俳優ヒュー・グラントが「人間の叡智の破壊。提供:シリコンバレー(The destruction of the human experience. Courtesy of Silicon Valley.)」とポストし、アメリカの映画監督・撮影監督リード・モラーノは「Hey @tim_cook 」とアップル社CEOティム・クックに呼びかける形で「空気を読みなよ、兄ちゃん。このクズ広告、マジでイッちゃってるから(READ THE ROOM, BRO.  CUZ THIS SHIT IS ACTUALLY PSYCHOTIC)」とポストしている。

そもそもAppleは、きわめて横紙破りな経営姿勢を続けてきた会社だ。1984年に初のMacintoshコンピュータの発表にあたって放映された挑発的なCFは、いまでも名作として語り草になっている。映画『ブレードランナー』で著名なリドリー・スコットが手掛け、全米最大のスポーツイベントであるNFLスーパーボウル放映の際に流れた60秒のCFの内容は次のようなものだ。グレーの作業衣を着た丸刈りの男たちが地下通路を行進していく/彼らの行く先にはホールがあり、そこではスクリーンが映し出されている/スクリーンには、情報統制1周年を祝う男の姿が映されている/陸上選手のような出で立ちの女性がフルフェイスのヘルメットを被った警備員に追われてホールに駆け込んでくる/女性はスクリーンに向かいハンマーを投げ、スクリーンは破裂して聴衆が唖然とする――そこにテロップが流れる「1月24日、アップル社はMacintosh を市場に投入する。そこでみなさんは来る1984年が小説『1984』のようにならないであろうことを目にするだろう(On January 24th, Apple Computer will introduce Macintosh.And you’ll see why 1984 won’t be like “1984”.)」。

ここで言及される小説は、もちろんジョージ・オーウェルの『一九八四年』(高橋和久訳/ハヤカワepi文庫)で、CFで描かれているのは市民をテレスクリーンで監視し思想統制を行う全体主義社会だ。一方、具体的な商品についてはこの時点で伏せられていたものの、このCFにはAppleのMacintosh PCが当時のデファクト・スタンダードだったPC/AT互換機IBM PCの専横に風穴を開けるということが含意されており、発表にあたってはAppleの取締役会で否定的な意見が多く出されたという。

このCFの公開を推進したのは当時のCEOスティーブ・ジョブズその人だった。いまでは革新的なイノベーターとして神格化されることの多いジョブズだが、ヒッピー文化にかぶれ、当時のカウンター・カルチャーの影響を強く受けた人である。デザインチームが見せた試作機を、目の前で壊すこともあったという。晩年は病床で「デザインが気に入らない」と呼吸器を床に叩きつけたともいわれている。エレベーターで乗り合わせた従業員をレイオフする、ナンバープレートをつけない自家用車で出社して身障者用駐車スペースに駐車するなど、コンプライアンス度外視の破壊ならぬ“破戒”的なエピソードも多く残されている。

今回の「Crush!」の動画への批判に応答して、Appleはマーケティングコミュニケーション担当副社長トール・ミューレン名義でアメリカ広告メディアAd Ageに次のような謝罪声明を送っている。

「クリエイティビティはAppleのDNAであり、私たちは世界中の創造を開花させる商品をデザインすることを重視しています。私たちが目指しているのは、ユーザーがiPadを通じたさまざまな方法でアイデアを実現し、自己表現を行うことに貢献することです。この動画では目的を逸しました。申し訳ございません(Creativity is in our DNA at Apple, and it’s incredibly important to us to design products that empower creatives all over the world. Our goal is to always celebrate the myriad of ways users express themselves and bring their ideas to life through iPad. We missed the mark with this video, and we’re sorry.)」。

とはいえ、もしこのCFを逆回転させてiPadから豊穣な音楽や名画、家族の団欒が生まれるストーリーだったら、これまで幾度もみてきたような凡百のガジェット紹介に留まったことは想像に難くない。

 

 

破壊衝動を表現するのは幼稚な身振りなのか

 

楽器を手にしたことのある人にとって、楽器が壊されることはたしかに恐怖である。自室の壁に立てかけてあるギターを友人がふざけて手に取ろうものなら、乱暴な大振りストロークをするのではないか、またネックを掴んで床に叩きつけるふりをするのではないかと冷や汗をかく――そんな思いをしたことのある人も多いのではないか。また、自分のピアノやシンセサイザーで力任せの雑なグリッサンドをする友人に不快感を覚えた経験をした人も多いはずだ。旧くはピート・タウンゼントのギター破壊からはじまった、ロックミュージシャンがステージで楽器を破壊するパフォーマンスはある種定番化している。ドラムセットにギターのネックを突き差したカート・コバーンのような例外はあるものの、こうした場合に、ほかのメンバーの楽器を壊すことはほぼない。メロディラインに則らずシャウトすることで感情を表現するように、自分の身体の延長である楽器を壊してみせることでカタルシスを表現することがその理由だろう。また再現が不可能な行為を共有することで、観客の興奮をあおる効果もあるように思われる。楽器を破壊したうえで観客を置き去りにしてライブを放棄するミュージシャンがいたとしたら、それこそ怒りと反感を受けることだろう。

こうしたパフォーマンスは必ずしもロックのお家芸ではない。ヴァイオリニストのギドン・クレーメルは「私は楽器の奴隷になる愚を犯したことはない」と言い、1641年製のニコラ・アマティから、ときに壊れたオルガンのような音を出してみせる。知的な演奏家と評されることを厭う彼は、演奏中にささくれた馬毛を弓から引き抜きつつ演奏を続けることもある。また楽器ではないが、作曲家ピエール・ブーレーズはかつて旧弊に囚われがちなクラシック音楽界に苛立ち「オペラ座に火をつけろ」とアジテートしたこともある。具体的な破壊行為こそ伴わないものの、これらもリミットを超えようとする意思表示だと考えるのが妥当だろう。また、ブラームスのピアノ協奏曲第1番の演奏にあたり、レナード・バーンスタインがグレン・グールドと解釈に折り合いがつかず、演奏前に異例のスピーチを行い“Who is the boss?”と疑問を投げかけたことは有名だ。余談だが、楽譜から大きくはずれたテンポで演奏していたのは前日までで、スピーチのあとは比較的穏当な演奏だったことから、この発言はバーンスタインの牽制だったとみるむきもある。ソロ作品では装飾記号の無視や和音の分割、下方アルペジオの導入など譜面を逸脱した演奏を行うことから技巧を重視する観客からは非難され、グールドは一切のライブ・コンサートを行わなくなり、録音による発表に。

スポーツ界では、用具を大切にするよう指導されることも多いが、それでもモノを破壊する行為は散見される。テニスではノバク・ジョコビッチやニック・キリオスがラケットを破壊することで有名だ。また大坂なおみ選手や錦織圭選手も、ときにラケットをコートに叩きつける。ポイントやゲームを失ったり、スポンサーから違約金を請求されたりするにもかかわらずだ。またミスショットのあとにクラブを地面に叩きつけるプロゴルファーも多い。かつて世界ランク1位だったロリー・マキロイは、アイアンを池に投げ捨てたことまである。幼稚な行為として批判されることもあるが、感情のブレを外部帰属化して集中力を持続させるアンガーマネジメントの手段ともいわれる。

 

 

再・再魔術化する人工知能

 

近年、AIに批判的もしくは抑制的な人々が“ネオ・ラッダイト”と称される。しばしばラッダイト運動は、産業革命後のオートメーション化により職を奪わることを危惧したイギリスの労働者が、自分たちの職を守るために機械を壊してまわった活動だと理解される。先に触れた“ネオ・ラッダイト”という言葉も、時代遅れの人たちの短絡的で反知性的なふるまいという蔑称として使われる。しかし実際のラッダイトは、社会運動としての意味あいが強い。最初に自動織機を破壊しラッダイトの語源となったネッド・ラッドも、おそらく虚構の人物だったらしい。資本家による効率化や利益追求による労働者の失職や地位低下、労働災害や労働環境の悪化などにたいする労働者の異議申し立てであり、労働者の利益を主張する労働組合がないことから生まれた構造的な不備がその背景にあった。この運動にたいしイギリス議会は機械破壊法を制定し、機械を損壊した者を死刑に処すことを決めた。また密告を奨励し、複数の指導者が見せしめとして絞首刑にされた。

では、AIへの懐疑心を表明し“ネオ・ラッダイト”と称される人々についてはどうだろう。レイ・カーツワイルが2005年に『ポスト・ヒューマン誕生』(井上健監訳、小野木明恵・野中香方子・福田 実共訳/NHK出版)でシンギュラリティ仮説を発表し、2015年にオックスフォード大学がAIにより代替される仕事リストを発表して以来、たしかに労働者を脅かす言説は後を絶たない。その文脈に則れば、AIテクノロジーの流れに竿を差す言説は、きわめて反動的に捉えられるかもしれない。

2023年10月に、アメリカ屈指のVCであるAndreessen Horowitz(略称:a16z)のブログに投稿された“Techno Opetimist Manifesto(テクノ楽観主義社宣言)”は、急進的な技術進歩主義の姿勢を示す宣言である。a16zはFacebook、Slack、Airbnb、GitHubなどのスタートアップ投資実績を持ち、仮想通貨やライフサイエンスにも出資する管理資産100億ドル以上を誇るアメリカ屈指のVCであり、共同設立者のマーク・アンドリーセンはMosaicやNetscape Navigatorなどのウェブブラウザの開発者であり、FacebookやHPの役員を務めた人物である。

この宣言は、テクノロジーへの脅威を“嘘”と名指すところからはじまる。テクノロジーを批判する人々は、火を盗んだプロメテウスの神話から、フランケンシュタイン、オッペンハイマー、ターミネーターの名を借りて、人々を恐怖に陥れているのだという。それに対置される“真実”とは、もちろんテクノロジーのこととされる。また自由市場を礼賛し、人工知能を現代の錬金術として持ち上げ、AI抑制論はAIにより救えた命を奪う殺人とまでいう。また未来派宣言を言い換えて「美は闘争の中にのみ存在する。攻撃的な性格を持たない傑作は存在しない。テクノロジーとは、未知を暴力的に攻撃し、人間の前に屈服させるものでなければならない」とまでいう。経済学者や哲学者、芸術家の名を引用して、テクノロジーを利用して人のステージを引き上げることを称揚するあたりは、トランス・ヒューマニストの面目躍如といったところだ。

 

ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき
レイ・カーツワイル著] 井上健監訳 小野木明恵・野中香方子・福田実共訳
NHK出版
ISBN978-4-14-081167-2

 

 

 

 

ラッダイトになってもいいですか?

 

ここでは、この宣言の文句を論うことはせず、反テクノロジー論者のレトリックとして用いられるフランケンシュタインに注目したい。フランケンシュタインというと、縫い目だらけの顔をした大男を思い浮かべがちだが、原著ではこの怪物に名前はなく、フランケンシュタインはこの人造人間をつくった科学者の名前である。ツギハギは、フランケンシュタインが墓から盗んだ死体を縫い合わせて身体を形成した故である。科学者フランケンシュタインは、その容貌と人をつくり出した後悔に恐れを抱き、怪物を置き去りにして逃亡し、怪物は自身の醜さゆえに忌み嫌われて迫害され、孤独を深めていく。生命をつくり出そうとする欲望と、自らがつくり出した被造物に迫害されるのではないかというジレンマは、のちにアイザック・アシモフにより「フランケンシュタイン・コンプレックス」と名付けられた。同書は日本でも『フランケンシュタイン』(小林章夫訳/光文社古典新訳文庫)として刊行されているが、メアリー・シェリーによる原題は『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス(Frankenstein: or The Modern Prometheus)』である 。

メアリー・シェリーは、富の平等な分配を主張した政治学者ウィリアム・ゴドウィンというアナキストを父に、男女同権を訴えたフェミニストの先駆者メアリ・ウルストンクラフトを母に持つ女性である。また夫はパーシー・ビッシュ・シェリーという詩人であり、神々に独占された火を人々にもたらしてゼウスの怒りを買ったプロメテウスが、自らの正当性を疑わずして魂を解放される『縛を解かれたプロメテウス』(石川重俊訳/岩波文庫)の詩劇をものしている。

フランケンシュタインの着想は、19歳のときにロマン派詩人でもあるバイロン卿のディオダティ荘で1816年で得られたものとされている。バイロン卿にはエイダ・ラブレスという娘がおり、彼女は解析機関のためのプログラムのコードを書いた、世界最初のプログラマーとして知られている。また彼女は解析機関を計算だけでなく芸術に使用するアイデアも残しており、これは約100年後にアラン・チューリングの論文『計算する機械と知性』に「ラブレス夫人の反論」として引用され、最初期の人工知能の構想として知られることとなった。ラッダイト運動の弾圧にあたり、バイロン卿は上院議会においてこれに抗議する演説を行い、労働者を擁護した。またメアリー・シェリーも労働者にシンパシーを寄せる文章を公開している。

附言すると、オッペンハイマーは原爆投下後には核軍縮論者に転じて原子力委員会のアドバイザーとして旺盛なロビー活動を行った人物でもあり、ターミネーターは自我を持った未来のAIスカイネットが自己保存のために現代に遣わせたサイボーグである。

小説家トマス・ピンチョンは1984年にNY Timesに“ラッダイトになってもいいですか?(Is It O.K. To Be A Luddite?)”を寄稿した。このエッセイのなかでピンチョンは、『フランケンシュタイン』が「真剣さに欠ける逃避的な作品」と位置づけられたと語るメアリー・シェリーの言葉を紹介したのちに、現代のラッダイト精神について考える。市民がワークステーションを破壊するイメージが浮かばなかったピンチョンは、ラッダイトを機械への憎悪でなく合理主義への懐疑として捉え、ラッダイトとは社会矛盾を見極め、そこにカウンターをしかける者のことではないのかと問いかける。コンピュータ登場以降のラッダイトの対象を具体物でなく巨大資本に向かうものとして再定義したのちに、人工知能や分子生物学、ロボット工学の研究開発の収束点に訪れる不可視な事態においてはラッダイト的な想像力が実をむすぶだろうと予見するピンチョンは、バイロン卿の即興詩を引用してこのエッセイを締めくくる。「戦いに死すか、自由に生きるか――ラッドをのぞくすべての王をやっつけろ!(So we, boys, we will die fighting, or live free, And down with all kings but King Ludd!)」。ピンチョンの主著『重力の虹』(佐藤良明訳/新潮社)は、ロケットに偏執し狂奔する人々のストーリーだ。ロケットをまだ見ぬ汎用AIに置き換えて読んでみると、未知のテクノロジーを夢想して右往左往する、きわめて今日的な悲喜劇がみえてはこないだろうか。

ちなみに、ビジネスパーソンは破壊という言葉を非常によく好む。ヨーゼフ・シュンペーターが『資本主義・社会主義・民主主義』(中山伊知郎・東畑精訳/東洋経済新報社)に記した“創造的破壊”という言葉を掲げてイノベーターを自認する起業家は枚挙にいとまがない。一般均衡理論を批判して経済構造の漸進的流動性を説いたこの理論は、同時に新規産業を支える資本家と公共的なセーフティネットの構築を不可欠としている。膨大な資金でシリコンバレーを支配するテクノ・リバタリアンたちはおそらくその列に並ぶことをよしとしないだろう。なにせシュンペーターは資本主義の発展は巨大企業を生み、資本主義社会の基礎を破壊するとして、最終的に社会主義に移行することを主張してマルクス主義を擁護さえするのだから。なにを創造し、なにを破壊するのか――破壊とラッダイトについて考えると、そうした疑問も浮かび上がってくる。〈了〉

 

フランケンシュタイン
シェリー 著 小林章夫 訳
光文社古典新訳文庫
ISBN:978-4-334-75216-3

重力の虹
トマス・ピンチョン/著 、佐藤良明/訳
新潮社
ISBN978-4-10-537212-5

新装版 資本主義・社会主義・民主主義
シュムペーター著 中山伊知郎, 東畑精一 訳
東洋経済新報社
ISBN978-4492370797