東京外国語大学大学院教授・中山智香子氏に聞く 第1回 

経済学のパラダイムシフトを見つめる知の軌跡

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聞き手 都築 正明
IT批評編集部

市場原理主義を舌鋒鋭く指弾する中山智香子氏。インタビュー第1回は、経済思想史を志した経緯について聞いた。高校時代の恩師との出会いを転機に政治経済学部に進学、大学ではポスト構造主義に傾倒し、経済学のパラダイム・シフトとなったゲーム理論が芽生えたオーストリア学派の探究へ――中山氏の知的遍歴をたどる序章。

取材:2024年9月4日 東京外国語大学中山智香子研究室にて

 

中山 智香子(なかやま ちかこ)

東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授。早稲田大学大学院経済学研究科理論経済学・経済史専攻博士後期課程単位取得退学。ウィーン大学大学院経済学研究科博士課程修了。博士(社会・経済学)。専門は思想史および経済学説、経済思想。近年は貨幣論と生態学経済の考察に注力。著書に『経済戦争の理論 大戦間期ウィーンとゲーム理論』(勁草書房)、『経済ジェノサイド フリードマンと世界経済の半世紀』(平凡社新書)、『経済学の堕落を撃つ 「自由」vs「正義」の経済思想史』(講談社現代新書)、『大人のためのお金学』(NHK出版)、『ブラック・ライヴズ・マターから学ぶ アメリカからグローバル世界へ』(共編、東京外国語大学出版会)など。

 

 

目次

高校で出会った恩師の影響で“文転”

大学でニュー・アカデミズムに傾倒する

ゲーム理論が芽生えたオーストリア学派に惹かれて

生成AIは論理を失った?

 

 

 

 

高校で出会った恩師の影響で“文転”

 

都築 正明(以下――) 先生は高校生までは理系志望で、経済学を専攻されてからも数理経済学やゲーム理論を中心に研究されていたそうですね。

 

中山智香子氏(以下中山) 父親が電機メーカーのエンジニアだったので、横浜で出生後わりとすぐに祖父母の東京の家に、その数年後に平塚へと移り住み、中学校の途中から北九州の門司に住んでいました。高校も地元の県立高校に進学したのですが、2年生の夏休みのころに父がサウジアラビアに単身赴任することになりました。そこで東京に戻ることになりました。当時はその時期に編入を受け入れてくれる学校がほとんどなくて、唯一受け入れてくれた成城学園に転校することになりました。

 

――当時はまだ理系進学を志望されていたのでしょうか。

 

中山 地方の県立高校では、しばしばそうなのでしょうが国公立理系重視でしたので、その影響を受け、なんとなく国立大学の自然科学系の学部を目指していました。地学の授業は大学でも教えていた先生によるものだったのでおもしろく、あとはまあ数学は好きでしたが、文化や社会、思想などに早熟な東京の高校生とは異なり、ノンポリな高校生でした。ところが成城学園高校に転入すると、詩人でかつて北海道の進学校・札幌南高等学校で教えていた国語の教師が担任となり、その教師やその周辺の友人の影響で文章を読んだり書いたり、また考えたりすることの面白さを知り、人文・社会的な学問のおもしろさも知るようになりました。そうした影響もあって、第1志望ではなかったものの、数学受験もできた早稲田大学の政治経済学部に入学しました。

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