自分都合に事実を解釈する賢い愚か者
マスメディアは何に負けたのか?
インテリジェンス・トラップとメリトクラシーの地獄 第3回
現在の日本では、あらゆるかたちで適正テストや能力試験があり、それらの基礎にあるのはIQへの疑うことのない信仰である。こうしたテストや試験で能力に保証を得た人びとに限って、恐ろしいほどの偏見に絡まり、ありえない誤謬に陥るのはなぜだろう。
目次
メリトクラシーとテクノクラシー
サンデルが描いた能力主義の社会を早くも1958年の時点で予言していた本がある。イギリスの社会運動家であり、社会学者であるマイケル・ヤングの『メリトクラシー(The Rise of the Meritocracy)』(窪田鎮夫、山元卯一郎訳/講談社エディトリアル)である。知能や努力によって評価され厳格な階層ができた2034年の社会を描くSF小説だ。
この時代の未来を描くイギリスのSF小説といえばオーウェルの『1984』(高橋和久訳/ハヤカワepi文庫)がすぐにでも想起されるし、計画管理されたディストピア社会という意味では共通点もあるのだが、『メリトクラシー』のほうは主人公はおろか登場人物がいない評論風の文体で能力主義社会の勃興から衰退までの歴史を辿る。
「土壌は身分をつくり、機械は階級をつくる」とは、そのなかの一節だが、農業社会が産業革命を経て工業社会となり、機械化による商業的成功は親から子へ財産として相続され、地位と権力は血縁から離れて能力ある者から能力ある者へと引き継がれていく。
そうなると、親は子どもに高等な教育を施し能力を誇示しやすい専門職への道を歩ませるようになる。自身の能力を次世代に再生産するためにIQ(知能指数)の高い結婚相手を求める。封建時代に家柄の良い者同士が結婚したように。
能力主義はテクノクラシー(専門技術者が政治経済を司る社会)と結びつき、人をIQと専門における実績で評価していく。当然のように、社会は専門家しかいない上層と、専門を持たないIQの低い下層に分断されていく。さらには幼児の時点ですでに将来の能力の限界値を測定されて、キャリア──いや人生そのもの──を限定されてしまう。将来の貧困や犯罪の確率を測定されて、社会の外部に排除されるのだ。たとえば、少年期に低評価されてしまった人たちは、晩成型であったとしても下層に取り残される。
この犯罪予測の部分はどこかアニメの『PSYCHO-PASS サイコパス』(虚淵玄原案/本広克行総監督)に登場する人間のあらゆる心理状態や性格傾向を数値化する「シビュラシステム」を思い出す仕立てである。
『メリトクラシー』は1958年に書かれたということもあって女性の能力や認識に非常に古臭い箇所が散見される点に目を瞑れば、サンデルの『実力も運のうち』の続編かと思うほど、現代性と現実味がある。この能力主義社会は能力と努力によって上層はみずからを正当化し、下層は努力が報われない社会に不満を抱いている。
『メリトクラシー』では終盤、婦人運動を契機として一般大衆を巻き込むデモが起きる。普通の小説ならここからクライマックスとして革命やら暴動がありそうなものだが、デモが要求するところは年功や経験による序列や、成人教育センターの整備──これは晩成型の能力を救う──、伝統への回帰なのだ。小説の2034年にはいささか郷愁を呼ぶような制度の復活なのだ。
2024年の現在から、サンデルの『実力も運のうち』と続けて読めば、ほとんど今回のふたつの選挙の現れた変化を汲みとって描かれた社会評論のようでさえある。