“ポスト・トゥルース”時代のナラティブとハルシネーション
第1回 予期しうるソーカル事件と不満スタディーズ
ハルシネーションは“現実”批判たりうるのか?
アメリカの数学者ジェームズ・リンゼイ、イギリスの作家・評論家ヘレン・プラックローズ、アメリカの哲学研究者ピーター・ボゴジアンの3名は、2017年から2018年にかけて、クィア・人種・ジェンダー・ボディシェイミング・セクシュアリティなど、かれらが“不満スタディーズ”と呼ぶ分野の不条理とパロディに満ちた“おとり論文”20本を、それぞれの分野の査読つき学術誌に偽名で投稿した。
3名の企みはウォール・ストリート・ジャーナルの記者の疑いにより明るみに出ることとなったが、その時点で4本が出版済み、3本は受理されたが未出版、6本はリジェクト、7本は審査中という状況で、いくつかの学術誌の査読基準の甘さとアカデミアの閉鎖性を露呈することとなった。
この事件はソーカル事件の再来として“Sokal squared(ソーカル2乗)”と呼ばれ、ダイバーシティ推進の趨勢に反対する保守層の支持を受けた。
しかしプラックローズは自分たちの立場を“左翼リベラル懐疑論者”としており、この活動を通じてアイデンティティ・ポリティクスとポストモダニズムのもとで、リベラルで啓蒙主義的な考えかたが失われていることを各学問分野の“左派の学者”たちに知らしめ、対象とした学問分野が普遍性と客観性を重視しながら発展することを目指したのだと主張した。また極端な相対主義が、バックラッシュとしての自国中心主義やポスト・トゥルースを招来したという危惧もあったという。
その後ヘレン・プラックローズとジェームズ・リンゼイはこの事件の顛末と理論的背景を著書『「社会正義」はいつも正しい: 人種、ジェンダー、アイデンティティにまつわる捏造のすべて』にまとめた。邦訳刊行に先行して訳者・山形浩生による解説が公開されていたが、なんらかの抗議があったためか、すぐに版元より謝罪とともに撤回された。
さらに難易度を増しうる論文査読
2024年8月13日に、SAKANA AIはLLMを含む複数の基盤モデルを組み合わせて研究開発プロセスを自動化する“AI Scientist”をリリースした。
このシステムでは、アイデア出しから先行研究の検索、実験計画とその実行から図表やサマリーの作成、論文の執筆から査読までを全自動で行うことで、研究のコストを下げ、スピードを短縮する。もちろんこのシステムは研究効率の向上が目的であり、SAKANA AIも、科学者の役割が減少することはなく、より上位の階層に立つことになるだろうという見解を示している。
あくまでも可能性にすぎないが、上述のソーカル事件やソーカル2乗事件のような企てがAIを援用してなされた場合には、既存の査読プロセスでそれを見破るのは、質量ともに難しくなるだろう。