テクノ・リバタリアンから神秘哲学へ
わたしがやっている「Web IT批評」のインタビューを書籍化、刊行して、すでに2カ月が経った。いまだに喜びと不安が同居するような気持ちで成り行き(売れ行き? 反応?)を見ている。
目次
ELIZAの亡霊
たくさんの人からの支援と協力があって刊行した『生成AI時代の教養 技術と未来への21の問い』(桐原永叔・IT批評編集部編著/風濤社)は制作請負やら編集のみを担当した書籍を除いてずいぶんと久しぶりの本となった。インタビューしたり文章を書いたりは「Web IT批評」を通じて行なっていたのだが、1冊の書籍を制作するとなると気持ちのうえでも力が入る部分があった。そのために、果たしてちゃんと読者に届くだろうか、読んでもらえるだろうかという不安はひとしおで、Amazonの順位やら取次店のデータやらが気になって仕方がなく、お恥ずかしいことに、そういう状態は今もつづいている。
同時に、古くから懇意にさせていただいていたベテランの書店営業の方々のご支援で、蔦屋代官山店で、トークイベントなどという身に余る催しを開いていただくことができた。このイベントでは、書籍刊行後の燃え尽き気分もあって、なるべく力を抜いて親しみやすい話題となるように心がけた。
AIといえば、すぐに仕事を奪われる式の、人間の尊厳を損なわれる式の脅威論に偏る。一方で、ビジネス界隈に目を向ければ、ビジネスへのAI導入が遅れれば、いよいよ日本産業は没落するぞというような危機感、あるいはAI導入でビジネスはこんなに変わる、競争のルールが変わって君にも彼にもチャンスがあるといった立志論が目につくように思う。
だから、トークイベントに登壇いただいた中央大学の岡嶋裕史先生と相談して、AIがもたらすディトピアでもユートピアでもない未来を語らった。ちょうどよい湯加減のAI論といった感じだ。なんとなれば、ChatGPTの公開以降、ついに誰にとってもいつでも使えるAIが登場し、いよいよそのユーザー層が爆発的に拡大したと実感しているからだ。これはどういうことかといえば、肩肘はらないユーザーの自分勝手な欲望おもむくままのAI使用が日常になるということでもある。
岡嶋先生も言っていたが、ビデオデッキはアダルトビデオによって普及が大きく促進されたし、インターネットがより一般化する過程でのエロ画像、動画へのリビドーを無視することはできないだろう。同じ視点でいえば、生成AIに美少女イラストを描かせ、それを動かしたい、その美少女とコミュニケーションしたいというリビドーもやはり推進力となるだろう。
これまで意識の高い者たちのツールだったAIはそうやって本当の意味で民主化していくのだろうと思う。
「Eliza」と名付けた対話型AIと気候変動の問題を語り合ううちに絶望感を募らせたベルギー人の男性が自殺した例もAIが卑近な存在になったことを示している。Elizaという名の皮肉に気づくのはAIの歴史に通じた人だろう。それは1966年にジョセフ・ワイゼンバウムが発明した人類初のチャットボットと同名なのだ。ChatGPTに比べれば圧倒的に原始的な自然言語処理モデルしか有さなかったとはいえ、人と会話できる機械など想像できない時代において大きな感銘を与えた。期待の大きさゆえか、機能の限界があらわになるにつれ多くの研究者を失望させた、かつてのELIZAの亡霊が遂に人間を死に導いたというのは象徴的な出来事だろう。