アナログの知がデジタルの限界を超克する
――ジャーナリスト・服部桂氏に聞く(2)
桐原永叔(IT批評編集長)
現代において、すべてはデジタルに表現されているようにみえる。また既存のITシステムが足かせになる「2025年の崖」を前に、DX(Digital Transformation)の推進は、官民問わず喫緊の課題とされている。しかしジョージ・ダイソン『アナロジア AIの次に来るもの』監訳者の服部氏は、デジタルは近代文明の延長線上にあるものと喝破し、アナログの知性に目を向けるべきだと提言する。デジタル文明という近代の超克に目を向けるインタビュー、第2回。
取材:2023年10月26日 トリプルアイズ本社会議室にて
服部 桂(はっとり かつら) 1951年生まれ。早稲田大学理工学部で修士取得後、1978年に朝日新聞社に入社。1984年にAT&T通信ベンチャーに出向。1987年から1989年まで、MITメディアラボ客員研究員。科学部記者や雑誌編集者を経て2016年に定年退職。関西大学客員教授。早稲田大学、女子美術大学、大阪市立大学などで非常勤講師を務める。著書に『人工生命の世界』(オーム社)、『マクルーハンはメッセージ メディアとテクノロジーの未来はどこへ向かうのか?』(イースト・プレス)、『VR原論 人とテクノロジーの新しいリアル』(翔泳社)他。訳書、監訳書に『デジタル・マクルーハン―情報の千年紀へ』、『ヴィクトリア朝時代のインターネット』、『チューリング』(以上、NTT出版)、『テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?』(みすず書房)、『〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則』(NHK出版)、『アナロジア AIの次に来るもの』(早川書房)、最新の訳書に『ホールアースの革命家 スチュアート・ブランドの数奇な人生』(草思社)。 |
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記号としての言語の限界がみえはじめた
桐原永叔(以下、桐原) ブッダやソクラテスは書物というものを信用していない。あたかもChatGPTがハルシネーション(幻覚)を起こすように、文字は人を惑わすものと考えられていたようですよね。
服部 桂氏(以下、服部) まさに人を動かことのできる言語を自動化した到達点がChatGPTです。虚実が入り混じった巨大な言語の確率的な地図があってそこを探索するイメージです。右に行ったり左に行ったりという選択を確率で決定するロジックがニューラル・ネットワークで繋がっているわけです。
桐原 言語学以前には宗教的なものとして修辞学があって、神に捧げるために言葉をいかに飾ったり美しくしたりするかを追究していました。この装飾的な部分が切り捨てられて言語学になり科学革命に寄与していくようになったと考えられないでしょうか。
服部 おっしゃるとおり、言語を抽象化していく過程で科学に傾斜していったのだと思います。宗教改革で神の捉え方が変わったことも大きいと思います。ローマ・カトリック教会ではただ神を信じるだけでよいのですが、プロテスタントでは聖書を読んで論理を重ねて人が自ら神を証明する立場を取っています。
桐原 予定説ですね。修辞学から言語学に転換したことが、アナログからデジタルに移行するプロセスだとは考えられないでしょうか。ChatGPTがデジタルな言語学の到達点だとすると、修辞学的なアナログ性を再考することにも意義があるように思えます。
服部 記号論理学というのは言葉の辞書的な意味を重視しますから、私的な感情が入る余地はありません。夏目漱石が、“I love you.”を「あなたを愛しています」と逐語的に訳した門下生に「そこは“月が綺麗ですね”とでも訳しておけ」と言った話は有名ですよね。こうした情緒に沿った表現は記号論理学にはなしえません。古代ギリシャのリベラルアーツは3学4科の自由7科で形成されています。初歩となる3学は文法学・論理学・修辞学で言語にかかわるもの、それより高度な4科は算術・幾何学・天文学・音楽で事物にかかわるものです。算術というのは数をかぞえることですから1次元の学問で、幾何学というのは平面的な2次元の学問です。天文学は空間的なことを考えますから3次元、音楽はそこに時間軸や調和を加えた4次元の学問だと解釈することができます。コンピュータは4科のうち最初の算術を扱っているにすぎません。
都築 正明(以下、――)現在のコンピュータは、抽象化された言語を用いて高次の処理をしているわけですね。
服部 たとえば図形の大きさを把握するときに、精緻化した言語で高速に処理したとしても、直截的に2次元の処理はできません。私たちが見てすぐにどちらが大きいかを把握できる2つの図形についても、コンピュータの場合はいちいちxとyに分けて計算をしなければなりませんから。2次元的なものを計算するために、結局のところシラミ潰しにすべて計算しているわけで、そこが1次元の論理を駆使しているコンピュータの限界です。2次元や3次元を数字でシミュレーションすることはできますが、私たちの生活するうえで99パーセントの場面においては、1次元的なロジックや計算を用いるのではなく2次元以上のアナログな知能を用いているわけです。
――フロイトは無意識にアプローチするために言語の裂け目を探る精神分析を用いました。やはり言語によって識閾下にあるものを探ることは難しいのですね。
服部 意識の部分は言葉に覆いつくされていますから、無意識やイドを扱うには言語や視覚だけでは不十分です。すべてを記述しようとするなかで基本的に忘れられたものがあるということを認識しなければなりません。自分が知らない物があるということを前提にすべてのことを考えないと、視野狭窄な独善に陥ってしまいます。
生成AIは近代文明の延長にある予定調和?
――生成AIについても、あくまでも1次元の統計処理であって、質的なものではなく量的なものだということですね。
服部 生成AIというのは、1次元の知を高度に突き詰めていった到達点ですが、原理的に解くことのできない問題についてはアプローチできません。さきほど例にあげた漱石の隠喩のような創造性はありませんし、問題を発見するための自らアルゴリズムを書くことはできません。理論的限界を超えた新しい発見についての想像力を働かせることはできないわけです。重要なのはChatGPTにはできない原理的なことはなにかを問うことだと思います。それは生活空間の残り99パーセントのなかから見つかるかもしれないですし、宇宙全体からみれば私たちのたかが数千年の知恵で見つかるものではないかもしれません。少なくとも数値的に計算しなくてもわかることは、たくさんあるわけです。
――自律型AIが誕生したら人間を支配するのではないかという脅威論も聞かれますが、現在のところAIが自分でプログラムを書き換えるようなことはできません。
服部 遺伝的アルゴリズムのようにコードをランダムに組み合わせて偶然の力で新しいプログラムを作る試みもありますが、現在のところ創造的なプログラムは人間にしか書けません。まだアルゴリズムでは書ききれないことや言葉にならないことも、たくさん残されていることを忘れてはなりません。コンピュータやChatGPTを使うことがいけないわけではなくて、限界があることを理解して使うことが重要なんです。たとえば藤井聡太さんはAIを使って将棋を研究しています。名人は定跡の枠内で考えるのですが、藤井八冠はすべての手を網羅しているAIによって可能性空間を広げて考えている。同じように、人間がふだん意識していないことを発見するためには、偉大な学者が考えたのだから間違いないだろう、というだけでは不十分です。未知のものがあるとしたら、私たちが考えたこともなかったり、考えたくもないところにあるはずです。たとえば冷戦下の1960年代にハーマン・カーンが『考えられないことを考える―現代文明と核戦争の可能性』(桃井真 松本要訳、ぺりかん社)という本を出版しました。これは米ソが核戦略に失敗して人類が滅びるかもしれなら、それに備えるべきという内容でした。当時の人は、そういうことは起こり得ないし、起こるべきではないないと考えていましたから。2011年の福島県の原発事故と同じパターンですね。
――恒常性のバイアスのなかにいたわけですね。
服部 AIそのものには人間が操作しない限りバイアスがありませんから、人間の生存に関わる発想や思考の限界について、可能性を広げて例示することができます。そのように自分たちの欠如を補完する使い方ができるわけです。それをケヴィン・ケリーは“Artificial Alien”と称して、今後コンピュータ技術によって文明の発達があるとすると、宇宙人のように人間とはまったく異なる知性体に出会うことだと言っています。人間の文明の発達というのは、日本の工業社会がそうだったように、内部で成熟していくと伝統主義になってきて、既存のスキームに基づいて経験の積み重ねで進んでいくという内向きなものになります。そして原理そのものへの問いが失われていくと、いざこれまでの枠組みが崩れたときに右往左往してしまい、とにかく根性で頑張れと言ってみたり消費を喚起しようと言ってみたりする。もともとの前提の是非を問うところまでは至らないわけです。いまは産業革命以降の工業社会のパラダイムが成熟して、コンピュータ技術も発達したけれど、その前提に綻びが生じている状態です。最近はそもそも資本主義が正しかったのかを問う議論も盛んになされていますが、いまは原点を考えるべきところに来ています。
――「人新世」という時代区分もなされるようになりました。
服部 大きく考えると、中世まではただ神を信じて頑張ればいいとされてきました。近代になると、科学的思考が体系化されて、ただ信じるだけではなく自分たちで証明することを考えて、それによって結構うまく物事が説明できるようになりました。しかしそこにも限界がみえはじめて、最近はポスト近代をどうしようという論議が活発になっています。
合理性の本義に立ち返るためのアナログ
――『アナロジア AIの次に来るもの』の冒頭には、ベーリング・チリコフ探検隊がアメリカ先住民と出会う場面が記されています。そこではまず、武器を示して捨てる動作によって争う意図がないことを示し、贈り物を交換することで友好の意を表します。モーテン・H・クリスチャンセンとニック・チェイターという2人の認知学者は、クック船長が南米の現地人との間で似たような方法で――先住民が振る舞われたブランデーを吐き出すところまで同じです――意図を伝え合うエピソードから言語の起源が即興的なジェスチャーゲームのような身体的なものにあると論じています。
服部 あとがきにも書いたのですが、“rational”の語源は五感のバランス(ratio)を保っている状態のことで、それらが「合理性」を持っているということです。マクルーハンのいうように、グーテンベルクの活版印刷以降、メディアが聴覚から視覚へと移行すると文字のリニアな世界観が中心に据えられるようになりました。近代には全員が文字を読んで同じ命令に従うという論理優先の世界になって、中世までの五感の自由さが失われてしまいました。視覚のほかの感覚を抑圧することが理性的なふるまいであるとされて、アナログなものはノイズとして捨て去られていったわけです。もともと人間の生活には説明できない習慣や、他人には言えないような恥ずかしいこともたくさんあるのですが、文明社会においては「なかったこと」にされてしまいました。
――デジタルの限界がみえてきた現在、これまで切り捨ててきた偶然性や非論理性のなかから新しいものを発見するのが「アナロジア」の考えかたですよね。
服部 言語化されなかったものを言語で捉えることはできないかもしれません。近代において、デジタルな言語や論理に偏重したことで見過ごされてきたものを認識するには、アナログの視座が必要だということです。これからもデジタル技術は発達するでしょうし、それを否定するわけではありません。単にデジタルを捨ててアナログに回帰するのではなく、私たちがなにを忘れているのかを見直すための方法論をどうやって見つけ出すかが大切です。
桐原 マルセル・モースやブロニスワフ・マリノフスキーといった人類学、またカール・ポランニーなどの経済人類学の発想もアナロジアに近い考え方を感じます。経済を問い直すにあたっては、第三世界の中にある再配分や贈与、互酬性という習慣に立ち返ることが必要ではないかと感じます。
服部 レヴィ=ストロースが『野生の思考』で明らかにしたように、非文明的だとされているもののなかに、実は高度に合理的なものがあったり、より具体的なものに即した知性があったりするわけです。そこを担保するしくみを考えることも必要です。ジョージ・ダイソンは自然とコンピュータが歩み寄って、自然とテクノロジーとが共存する時代を工業化以前の時代、工業の時代、デジタルの時代につづく「第4の時代」と位置づけています。
――先ほどの4学のお話を敷衍すると、そこには定量化できない算術があるかもしれませんし、実際に地を歩き駆けるなかには理屈では説明しがたい幾何学があるかもしれません。また、まだ証明されたことのない宇宙概念が潜んでいるかもしれませんし、平均律や調性にしばられない音楽が溢れているかもしれません。
服部 これまで顧みられなかったことに、本質的なものがあるのかもしれませんから。マルクスが『資本論』で「地獄への道は善意で敷き詰められている」と記したように、現在多くの人が善だと思っていることが、実はまったく間違っていることさえあるかもしれません。アンデルセンの童話「はだかの王さま」に登場する子どものように「王様は裸だ」と指摘できる視点は、そこにあるのかもしれません。