モノとコト、電子化とDX(デジタル・トランスフォーメーション)

REVIEW
テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

目次

1 人工知能の定義は人間そのものの再定義を迫る

 

 

1 人工知能の定義は人間そのものの再定義を迫る

 

私はかつて自身で創刊した『IT批評』の劈頭で「電子化、システム化が、あらゆるものの再定義を迫っているのではないか?」と書いた。
どういうことか。電子書籍を例にしてみよう。電子書籍は従来の書籍の定義に合っているだろうか? 大辞泉では「書籍【しょせき】文章・絵画などを筆写または印刷した紙の束をしっかり綴じ合わせ、表紙をつけて保存しやすいように作ったもの。巻き物に仕立てることもある。」となる。この定義では電子書籍は書籍とは言えないことになる。しかし、電子書籍は通常、紙の書籍をデジタルデータに変換したものを指す(漫画など特殊な電子化もでてきてはいるが)。アナログをデジタルが模倣することを単に電子化とすべきなのだろうか。
電子書籍と書籍の関係は、AIと人の知能と関係とほとんど同じだ。第3次AIブームでさかんにいわれるAIの探究が人という生命の探究そのものであるという論点を思い出せばいい。人工知能の定義は、人の知性ひいては人間そのものの再定義を否応なく迫ってくるのだ。

 

IT批評 創刊号(発売日2010年06月28日) 眞人堂 特集 システム×ストーリー

 

 

2 完璧な人間の模倣は人間ではないのか?

映画「ブレードランナー」の原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』には鋭い示唆がある。作中に登場するレプリカントと呼ばれるサイボーグは人間と見分けがつかない。レプリカントは記憶を書き換えられると自身がレプリカントであることを忘却する。するとどうなるか? 主人公のデッカードは自分がレプリカントなのか人間なのかがわからなくなる。このアイデンティティ・クライシス(このあたりは映画では割愛されている)が上質なサスペンスを構成する。
人間と、人間そっくりのアンドロイドの違いを主人公に考えさせることで、作者のフィリップ・K・ディックが暗示したのは人間という生命の本質とは何かという難問だ。完璧な人間の模倣は人間ではないのか? そういう問いだ。
私たちはテクノロジーが介在するものを、人工物と呼ぶ。人工物が完璧に自然物に同じなら、そこにテクノロジーは隠蔽されてしまう。
果たして、それはテクノロジーが目指すべきものだろうか?

 

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? 早川書房 フィリップ・K・ディック(著)/浅倉久志(訳) ISBN9784150102296

 

 

3 モーツァルトとAIの作曲作法の違い

今年、ノーベル物理学賞を受賞したロジャー・ペンローズは『皇帝の新しい心─コンピュータ・心・物理法則』のなかで、人間の脳と人工知能(AI)との違いについて興味ぶかい指摘をしている。
モーツァルトを例にとった作曲という行為にふたつの知能の圧倒的な差異があるというのだ。モーツァルトはそれなりに時間的な長さのある曲の全体を一瞬の閃きで得ていたという。これがAIには無理だとペンローズはいう。物理的な時間を超えて一瞬で1時間の曲を閃くことができないからだと。
AIは人間の時間を経験することができないと言い換えてもいいだろう。人間が経験する時間は人間のみに与えられているものだろうか?
注意しておきたいのは、このペンローズの考察はAIが作曲をはじめるはるか以前のものであることだ。今では、多くの自動作曲AIプログラムが公開されている。

 

皇帝の新しい心 みすず書房 ロジャー・ペンローズ(著)/林一(訳) ISBN978-4-622-04096-5

 

 

4 AIにも“閃き”や“直観”があるとすれば…

天才棋士・羽生善治はNHKスペシャル『天使か悪魔か─』の取材で、アルファ碁を開発したデミス・ハサビスと話すなかで次のように考えたそうだ。
「人間の思考の強みを、人工知能が取り入れだしているように思えてならないのです。〈中略〉将棋では(手筋の)『読み』の前段階として、まず考えなくてもいい手を絞る作業が必要になります。そこで必要となるのが『直観』です。」
AIのように数万手、数億手の選択肢を思考できない私たちは“直観”に頼って手を絞る。ここにAIと人の差があるとの認識だった羽生は、ポリシーネットワークという手法によって選択肢を絞る“直観”でさえAIは手にしたのではないかと考える。
この“直観”を“閃き”と置き換えても意味はほぼ変わらないだろう。
天才棋士のいう“直観”と大作曲家の“閃き”こそ、これまで人間のみに与えられた経験であるとずっと信じられてきたものだ。しかし、もはやそんな時代も終わろうとしているのではないのか。
AIにも“閃き”や“直観”があるとすれば、経験も行為も、それは人間だけのものではない。

 

人工知能の核心 NHK出版 羽生善治・NHKスペシャル取材班(著) ISBN978-4-14-088511-6

 

 

5 経験や行為(コト)のデジタル化こそDXの核心部分だ

結論を先取りして言うと、私は物体(モノ)の電子化に対し、経験や行為(コト)のデジタル化こそDXの核心部分だと考えている。
もう一度、音楽を例に挙げておこう。これまで音楽の電子化とは、楽曲の記録媒体のアナログからデジタルへの変換を指した。もちろん、それはそれだけでも凄まじく破壊的なイノベーションであった。市場のプレーヤーを総入れ替えしてしまうインパクトがあった。
ただ、DXはそれ以上のインパクトをもっている。音楽でいえば、作曲という行為のデジタル化(AIによる自動作曲)がDXの核心なのだ。それは市場のみならず、文化を通じて社会を変えうるだろう。

 

6 アートこそがユーザー体験を考えるうえで重要な参照点になる

 

アメリカのIT業界ではひと頃のSTEM人材に変わってSTEAM人材が求められるようになっているという。Science(科学)、Technology(テクノロジー)、Engineering(工学)、Mathematics(数学)の頭文字をとってSTEMといわれた優秀エンジニアの教養に新たにArt(アート)が加わったのだ。
ITサービスでユーザー体験(UX)を考えるうえで、重要な参照点になるからだ。
アート、つまり芸術が私たちに迫るのは、答えのない非効率な思考である。こうした思考は主に感動体験によって要求される。私たちは感動を計算的にも効率的にも消化できない。
ただ感動を目的とした行為や経験をわずかでもアルゴリズム化するために芸術の教養が必要なのだ。
MIT(マサチューセッツ工科大学)では音楽教育の需要が高まっており、作曲などの専門性の高い講義も人気だという。芸術とはいえ音楽は数学に似ている。古代ギリシャでは同じ科目だった。MITの学生にはかえって馴染みは良いだろう。
テクノロジーの次の目標(それはデジタル化の目標ともいえる)のひとつに、人間の行為や経験がある。
行為と経験のデジタル化こそ、テクノロジーが立つ岐路のもう一方の入り口だと私は考えている。
そここそがDXが目指しているところだ。

MIT マサチューセッツ工科大学音楽の授業 あさ出版 菅野恵理子(著) ISBN9784866672281