アントカインドが示す物語の未来
第3回 『ANTKIND(アントカインド)』の物語世界
2025年8月27日に日本語版が刊行された、チャーリー・カウフマンの長編小説『アントカインド』は、ページをめくるごとに不可思議な「迷路」をさまよわされる感覚になります。視聴に3ヶ月かかるストップモーション映画、消失、記憶からの復元、複数の分身や時間のずれ・・・。読者は膨大な情報の断片に翻弄されつつ、そこからモチーフを見出していく旅に引き込まれていきます。作品に散りばめられたモチーフを整理しつつ、それらが私たちの生きる現代社会とどのように響き合っているのかを探ってみたいと思います。
目次
記憶・復元・自己との境界
『アントカインド』の核心に、「視聴に3ヶ月を要するストップモーション映画」といういきなり意味不明な設定が現れます。物語主人公であるB.ローゼンバーグがこの映画に出会い、唯一無二の体験をする一方で、この作品が火災によって失われるという展開は、記憶と体験の「喪失」を象徴しているように思います。これは「消失する芸術」が登場しない限り追体験できない孤独の提示であり、時間や記憶、創作の儚さを強く感じさせます。
ガーディアン誌では、記憶と物語の自己参照性を指摘し、「記憶の不確かさと自己言及性が加速度的に増殖していく」と表現しています。これは作品内で繰り返される「思い出の改変」や「記憶による保管の過剰性」に鋭く言及した評価でした。他にも、視覚的錯覚で知られるエッシャーの作品になぞらえ、本作の構造が「シンメトリーと反復、パラドックスに満ち、出口のない迷宮」のようだという評価もありました。読者に強い「夢のような体験」を残す余韻は、論理的な理解を超えて、心の奥に入り込んでくるような感覚にさせられます。
モチーフとしては、ジョークや風刺が連続挿入され、政治家や著名人のパロディへの批判、自己言及のメタ表現も多用されています。ファンサイトでも語られていましたが、まさに「あまりにも“カウフマンらしさ”を詰め込みすぎた“毒と笑いのコラージュ”」という強烈な印象です。
断片的情報・自己像・記憶社会の鏡
この作品のモチーフは、SNSや動画プラットフォームで受け取る断片的な情報体験と不思議に重なるように感じる方もいるのではないでしょうか。時間的な前後関係が曖昧なまま、断片が流れ続ける現代だからこそ、視聴に3ヶ月かかるという映像体験を焼失するというという設定は、喪失される体験への焦燥感のメタファーにも見えてくるのです。主人公は、自らのプログレ的な立場(人種・フェミニズム志向)を強調するものの、内実は自己卑下・偽善・自己欺瞞に満ちたキャラクターです。このギャップは、SNS時代における「自己演出」と「内在する不安」の象徴として読み取ることもできるように思います。
そして、物語の中には、分身や時間の重なり、未来世界まで含む要素が登場し、同じような複製や変形が連鎖していきます。これはデジタル時代の「コピー/ペースト」「バージョン違い」といった世界を小説的にパラレル化しているようにも見えます。カウフマン自身が2016年HuffPostで「不可能な映画」として小説を書く意図を表明していたことを鑑みると、メディア形式そのものの限界と、その中で表現を模索する姿勢が本作には刻まれていると感じます。私たちがデバイスや、メディアの縛りを意識せずにコンテンツに接触できる今、この問いはより深みを帯びるように思います。
モチーフの洪水に触れながら読み進める『アントカインド』は、消える体験と記憶、揺れる自己と情報の断片、自己への不信と世代間の対峙が同時に映し出されてきます。それらは現在進行形の「読み手自身の時間と意識」と重なりあい、作品を読みながら自分の記憶や存在との距離を見つめ返すことになります。次回は「時間」や「記録」の扱いが、SNSやAIが溢れる社会でどのような問いを開くかを考えていきたいと思います。
チャーリー・カウフマン (著)
木原 善彦 (翻訳)
河出書房新社
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