アントカインドが示す物語の未来
第1回 『ANTKIND(アントカインド)』から感じた物語の時間感覚
2025年8月27日。アメリカの映画監督であり脚本家として知られるチャーリー・カウフマン初の長編小説『アントカインド』の日本語版が、河出書房新社から刊行されました。原作は2020年7月、まさに世界が新型ウィルスによるパンデミックの真っ只中に刊行されました。カウフマン自身もインタビューで、孤独や不安、集中の難しさに触れています(Los Angeles Times, 2020)。映画館で2時間じっくりと物語に没入することが難しくなり日常生活そのものが断片化する中で生まれた小説。それが今、私たちの手元に届きました。
目次
断片化する時間と物語体験
コロナ禍は、私たちの時間の感覚を大きく揺さぶりました。外出や人との接触が制限され、生活リズムが変化し、情報の受け取り方も一変しました。多くの人が家の中で過ごす時間を持て余し、同時にSNSや動画サービスの利用が急増したことが複数の調査で指摘されています。総務省の「令和5年度情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査」でも、動画投稿・共有サービスの利用時間が平日・休日ともに平均100分を超える傾向が示され、特に10代・20代で顕著だと報告されています。
こうした中、TikTokやInstagram Reelsのようなプラットフォームが急速に拡大しました。これらのサービスは時系列ではなく、アルゴリズムによるレコメンド(推薦)で映像を提示することを公式に報告しています。私たちは、過去と現在のコンテンツが混在するタイムラインを意識することなくスクロールしています。
この体験は、映画館で上映される2時間の物語を最初から最後まで体験する従来の鑑賞スタイルとは対照的ではないでしょうか。コロナ禍で映画館が閉鎖される一方、短尺動画やストリーミングの断片的なコンテンツは家庭内に流れ込み、私たちの物語体験を大きく変えていきました。
もちろん、こうした変化が良い悪いという単純な話ではありません。ただ、時間の連続性を前提としていた物語体験が、断片的で即時性を重視する情報消費へと変わりつつあることに、気づき始めている方もいるのではないでしょうか。
カウフマンの小説という選択
チャーリー・カウフマンは、1999年公開の『マルコヴィッチの穴』や、『アダプテーション』(2002)、『エターナル・サンシャイン』(2004)といった作品で脚本を手掛けています。2005年に『エターナル・サンシャイン』でアカデミー脚本賞を受賞した後、2008年には『脳内ニューヨーク』で監督デビューを果たしました。
カウフマンの作品に共通しているのは、時間、記憶、アイデンティティといったテーマを複雑に絡み合わせながら、人間の存在そのものを揺さぶるような物語構造です。観客は物語をただ「見る」のではなく、その構造の中に巻き込まれていく。時間が直線的に進むのではなく、過去と現在、現実と虚構が折り重なり、体験そのものが多層化していく。そんな印象を受ける方も少なくないのではないでしょうか。
そんな彼が年に初めて小説に挑戦したのが、今回取り上げた『アントカインド』です。カウフマンはインタビューで、映画産業の構造変化によって中規模映画の制作機会が減少したこと、そしてコロナ禍による停滞の中で執筆が現実的な選択肢となったことを語っています。(The Guardian, 2020)。
映画は多くの資本や人員を必要とし、制作過程は複雑です。映画に比べると小説は、創作環境が制限される中において、自然な選択だったのではないでしょうか。加えて、『アントカインド』は断片化された情報環境へのアンサーとして読むこともできる気がしました。数百ページに及ぶ物語を「時間をかけて読む」ことは、情報が瞬時に消費される時代において、あえて立ち止まり、物語と向き合う行為でもあります。カウフマンが選択した小説という表現は、コロナ禍という時代状況とともに、物語と時間の新しい関係を示しているのかもしれません。
パンデミックが日常を断片化し、情報の流れが加速した時代に生まれた『アントカインド』。その日本語版が2025年に刊行されたことは、私たちが今直面している物語体験の変化を考えるきっかけになるように思います。短尺動画やアルゴリズムに慣れた私たちは、この小説を通じて時間をかけて物語を生きることの意味を問い直すことになるかもしれません。次回は、カウフマンがこれまで映画作品で描いてきた「時間」と「記憶」のモチーフを掘り下げてみたいと思います。
チャーリー・カウフマン (著)
木原 善彦 (翻訳)
河出書房新社
ジョン・キューザック, キャメロン・ディアス (出演)
スパイク・ジョーンズ (監督)
クリス・クーパー, スパイク・ジョーンズ, ニコラス・ケイジ, メリル・ストリープ (出演),
スパイク・ジョーンズ (監督)
ジム・キャリー, ケイト・ウィンスレット (出演)
ミシェル・ゴンドリー (監督)
ジェシー・プレモンス ,ジェシー・バックリー ,トニ・コレット ,デヴィッド・シューリス (出演)
チャーリー・カウフマン (監督)
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