量子コンピューターを理解するための量子力学入門
第5回 量子情報技術の重要概念「量子もつれ」とは何か
─この世界は、量子もつれが生みだした幻かもしれない

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テキスト 松下 安武
科学ライター・編集者

量子コンピューターをはじめとする量子情報技術において、これまでの回で詳しく解説してきた「重ね合わせ状態」と並ぶ重要な概念がある。それが「量子もつれ」である。量子もつれは、量子絡み合い、量子エンタングルメント、EPR相関などとも呼ばれている。量子もつれは、2つ以上のミクロな粒子の間に生じる、ある種の結びつきのことで、かのアインシュタインが「あり得ない」と考えた、非常に奇妙な現象である。さらに近年では、量子もつれがこの世界の成り立ちにも深く関わっている可能性が、理論物理学者の間で真剣に議論されるようになっている。私たちが住んでいるこの3次元空間は、量子もつれが生み出した幻かもしれないというのだ。

 

執筆者プロフィール

科学ライター・編集者。大学では応用物理学を専攻。20年以上にわたり、科学全般について取材してきた。特に興味のある分野は物理学、宇宙、生命の起源、意識など。

 

 

目次

「量子もつれ」とは何か

 ━量子もつれは、左右1セットの手袋の関係に似ている
 ━「保存則」を利用して量子もつれをつくる
 ━量子もつれは“自然界の速度制限”に違反する?

量子情報技術と量子もつれ

 ━量子コンピューターは、量子もつれを積極的に利用している
 ━未知の量子ビットはコピーができない
 ━量子的な情報を遠くに転送する「量子テレポーテーション」

ホログラフィック原理と量子もつれ

 ━空間は量子もつれが生みだした幻?
 ━この世界の根源はモノではなく、量子ビット?

量子力学の世界はまだまだ奥深い

 

 

 

 

「量子もつれ」とは何か

 

量子もつれは、左右1セットの手袋の関係に似ている

 

今回の主役である量子もつれとは、簡単に言うと、「複数の粒子(量子コンピューターでは量子ビット)が、離れていても互いに影響を及ぼし合える状態」のことである。特に大事なのは「離れていても」というところだ。

 

似たような現象は日常生活の中にもある。冬のある日、あなたは手袋をポケットに入れて外出したとしよう。寒くなってきたので、ポケットから手袋を取り出そうとすると、何と片方だけしかない。もう片方は家に忘れてきてしまったのだ。このとき、ポケットにあった手袋が右手用だったとしたら、家に忘れてきたのは左手用だということになる。逆にポケットにあったのが左手用だったとしたら、家に忘れてきたのは右手用だ。手袋には「左右1つずつで1セット」という関係性があるため、一方が左右のどちらなのかが分かれば、遠く離れたもう片方がどちらなのかも、瞬時に分かるわけだ。一方が右なら他方は必ず左、一方が左なら他方は必ず右という“縛り”が存在するのである。

 

この例では、どちらがポケットの中にあり、どちらを家に置き忘れたかは、あなたが自宅を出たときにすでに決まっていたはずだ。しかしミクロな世界では話が大きく変わってくる。ミクロな世界では、たとえて言うなら、ポケットの中は「右手用の手袋だけが入っている状態」と「左手用の手袋だけが入っている状態」が重なり合った状態になることができる。そして観測によってポケットの中が「右手用の手袋だけが入っている状態」に確定すると(状態の収縮)、遠く離れた家のタンスの中も瞬時に「左手用の手袋だけが入っている状態」に確定するのだ。このたとえ話の「右手用の手袋だけが入っている状態」を量子ビットの0、「左手用の手袋だけが入っている状態」を量子ビットの1の状態だと考えれば、量子コンピューターでの量子もつれ状態になる。

 

この話の核心は、一方の量子ビットを観測して状態の収縮を起こすと、その瞬間に、離れていた他方の量子ビットにも状態の収縮が起きる、という点である。他方の量子ビットには何も手を加えていないにもかかわらず、状態の収縮が起きるのだ。マクロな世界の常識からすれば、何とも奇妙な現象だと言えるだろう。

 

 

「保存則」を利用して量子もつれをつくる

 

左右の手袋のような関係性(縛り)は、物理学における「保存則」を利用することで作り出すことができる。

 

よく滑る床の上で、あなたは車輪付きの椅子に座っているとしよう(床と車輪の間の摩擦は無視できるとする)。さて、足は床から浮かせた状態にして、手に持っていた重いバッグを前方に放り出すと何が起きるだろうか? 普段はあまり意識していないかもしれないが、何かに力を加えるときには、必ずあなた自身も、同じ大きさで逆方向の「反作用」という力を受ける。その結果、バッグを前方に放り出した瞬間、椅子はその反作用で後方に動き出すことになるのだ。

 

この現象は「運動量保存則」を使って説明することも可能だ。運動量とは、運動の勢いのことで、「重さ×速度」で表すことができる(厳密に言うと、重さではなく質量)。同じ速さでもより重い物体の方が、そして同じ重さでもより速い物体の方が、運動の勢い(運動量)は大きくなるわけだ。運動量保存則とは、「外部から力を受けない限り、運動量の合計は変化しない(保存される)」ということを意味する。

 

上の椅子の例でいうと、最初は静止しているので運動量の合計は0だ。前方に放り出されたバッグの運動量をPとすると、運動量保存則によって、あなたが座った椅子はこの値にマイナスの符号を付けた−Pの運動量をもつことになる。両者の運動量の合計は、最初の運動量の合計である0に一致する必要があるからだ(式であらわすと「P+(−P)=0」)。椅子がマイナスの運動量をもつ、とはすなわち、バッグと逆向きに椅子が動き出すことを意味する。なお、椅子の速さは、Pを椅子の重さ(あなたの重さを含む)で割った値になる。

 

運動量保存則はミクロな世界でも成り立つ。2つの電子Aと電子Bの運動量の合計が最初は0で、その後、2つの電子が運動量保存則を満たした状態で同じ場所から飛び出したとしよう。電子Aの運動量をPとすると、電子Bの運動量は−Pだ。これは電子Aがどんな運動量Pの値をもつときでも成り立つ。

 

電子Aの運動量は、様々な値の重ね合わせ状態になることができる。2つの電子Aと電子Bが遠く離れた段階で、一方の電子Aの運動量を観測して、その値が5だったとしよう(電子の運動量の単位はここでは重要ではないので省略する)。つまり電子Aは多数の運動量の重ね合わせ状態から、運動量5の状態に収縮したわけだ。するとその瞬間、重ね合わせ状態だった他方の電子Bの運動量も−5の状態に収縮する。電子Aの運動量が2に収縮した場合は、電子Bの運動量は−2の状態に収縮する。このような2つの電子の関係性が量子もつれである。保存則などの“縛り”によって、遠く離れた2つの電子が瞬時に影響を及ぼし合うような状態になっているのである。

 

量子コンピューターの量子ビットは、0と1の2つの状態しか取れないようになっているので、話はもっと単純だ。例えば、量子ビットAが0なら量子ビットBは1、量子ビットAが1なら量子ビットBは0というように「互いに逆の値をとる」といった縛りのある状態、もしくは量子ビットAが0なら量子ビットBも0、量子ビットAが1なら量子ビットBも1というように「必ず同じ値をとる」といった縛りのある状態が、量子コンピューターにおける量子もつれである。

 

 

量子もつれは“自然界の速度制限”に違反する?

 

量子もつれになった2つの量子ビットでは、一方の量子ビットで状態の収縮が起きると、他方の量子ビットがどんなに遠く離れていても、瞬時に状態の収縮が起きる。例えば、一方を地上、他方を約250万光年(光で到達するのに250万年かかる距離)離れたアンドロメダ銀河に持って行ったとしても、時間差なしで瞬時に状態の収縮が起きるのである。アンドロメダ銀河までの距離というのは極端な思考実験だが、実験でも、地上と人工衛星の間などで量子もつれが実際に作り出されている。

 

さて、量子もつれの奇妙なところは「一方の影響が瞬時に他方に伝わる」という点である。これは一見すると、「光速より速いものはない」という、アルバート・アインシュタイン(1879〜1955)の相対性理論による予言と矛盾しているように思える。光速とは、真空中での光の速度(秒速約30万キロメートル)のことである。量子もつれでは、光を超える速度で一方から他方へ影響が伝わっていることになるので、相対性理論の予言に反しているように見えるのだ。

 

実は、量子もつれの存在を最初に予言した一人はアインシュタインである。1935年、アインシュタインとその共同研究者であるボリス・ポドルスキー(1896〜1966)、そしてネイサン・ローゼン(1909〜1995)は、量子力学が正しいとすると、量子もつれのような奇妙な現象が起きることになり、それは相対性理論が予言する速度の上限とも矛盾する、だから量子力学は不完全である、と主張したのだ。この量子もつれの奇妙なパラドックスは、アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンの頭文字をとって「EPRパラドックス」と呼ばれ、量子もつれは「EPR相関」とも呼ばれる。

 

相対性理論によると、物体の移動速度や情報の伝達速度が光速を超えることはないとされる1。相対性理論の知識が必要になってくるので詳しい説明は省くが、もし光速を超えた情報の伝達が可能だとすると、過去に情報を送ることも原理的には可能になってしまう。極端な話、交通事故にあった翌日に、昨日の自分に「事故に遭うから家から出ないで!」とメッセージを送って、過去を変えることも可能になってしまうのだ。これは因果律(あらゆる現象には、時間的に先んじた原因があるとする考え方)の崩壊を意味する。

 

*1:正確に言うと、物体を加速させていくことで光速を超えることはできないが、はじめから光速を超える速度で動く粒子があったとしたら、それは相対性理論とは直接は矛盾しない。このような仮想的な超光速粒子は「タキオン」と呼ばれる。しかし多くの物理学者は、タキオンは実際には存在しないと考えているようだ。

 

残念ながら量子もつれを使って、意味のある情報を光速を超えて伝えることはできないことが現在ではわかっている。そのため、量子もつれが相対性理論と矛盾しているとまでは言えないようだ。量子もつれを使って過去へ情報を送ることも当然できない。

 

アインシュタインらは、遠く離れた2つの物体間には何の結びつきもないはずだ、と考えた。それを前提にして量子力学は不完全だと主張したのだ。しかし1982年にアラン・アスペ(1947〜)の実験によって、遠く離れた2つの物体間の奇妙な結びつき(非局所相関)、すなわち量子もつれが実際に存在することが実証された。現在では、量子もつれの存在は疑いのないものだと考えられている。

 

 

量子情報技術と量子もつれ

 

量子コンピューターは、量子もつれを積極的に利用している

 

量子コンピューターで行われるあらゆる計算は、いくつかの基本的な操作(量子演算)を組み合わせることによって実現している。その中のCNOTゲート(制御NOTゲート)とHゲート(アダマールゲート)という操作を組み合わせると、2つの量子ビットの間に量子もつれが生じる。量子もつれの関係にある量子ビットどうしは、一方に操作をほどこすと、他方にもその影響が及ぶことになる。量子コンピューターでは、多数の量子ビットを量子もつれ状態にし、それを積極的に利用することで、高速計算を実現しているのだ。

 

連載の第1回でも述べたように、量子コンピューターでの計算途中には、ノイズによって量子ビットにエラーが発生することがある。そのため、計算の途中でエラーが起きたらそれを検出して修正する必要があり、そのような仕組みは「量子誤り訂正」と呼ばれる。量子もつれは、この量子誤り訂正にも利用されている。

 

未知の量子ビットはコピーができない

 

さて、従来のコンピューターでは、例えば、010001110のようなビット列の情報をコピーして、多数の010001110を簡単に作り出すことができる。しかし、実は量子コンピューターでは、どのような重ね合わせ状態になっているか分かっていない未知の量子ビットの情報をコピーして、同じ状態の量子ビット(0と1の重ね合わせ具合などが完全に同じ量子ビット)を2つ作ることは原理的にできないことが知られており、「量子複製不可能定理(ノー・クローニング定理)」と呼ばれている。量子ビットのコピーが原理的にできないということは、量子情報技術の安全性にも関係している。悪意のある第三者が、量子ビットの情報をコピーして盗むことは原理的にできないからだ。

未知の量子ビットが原理的にコピーできないことは、量子コンピューターの実現の難しさとも関係している。前回も述べたように、量子コンピューターでは、量子ビットの重ね合わせ状態を維持したまま、さまざまな計算を実行していく必要がある。しかし量子ビットは周囲の環境の影響を受けて、時間が経つと重ね合わせ状態が壊れてしまう。そのため、意味のある計算を行うには、周囲の環境からの影響を極力排除して、重ね合わせ状態をなるべく長い時間、維持しなくてはならない。これが量子コンピューターの実現を阻む、大きな壁となっているのだ。

 

もし量子ビットのコピーが可能なら、多数のコピーを作っておいて、ある量子ビットで重ね合わせ状態が壊れたら、コピーの方で計算の続きを実行すればいい。しかし量子ビットのコピーが原理的にできないので、そんな都合の良いやり方はできないのである。

 

量子的な情報を遠くに転送する「量子テレポーテーション」

 

未知の量子ビットの情報をコピーすることはできないが、量子もつれを利用することで、ある量子ビットの情報を壊して、離れた場所の別の量子ビットにその情報を転送することはできる。これは「量子テレポーテーション」と呼ばれる技術であり、将来の量子情報技術の要となるものの一つだと考えられている。

 

量子テレポーテーションの仕組みはやや複雑なので、ここではその手順の概略だけ説明しておこう。

アリスとボブが離れた場所にいて、アリスがもつ粒子A(電子、光子、原子など)と、ボブがもつ粒子Bは量子もつれになっているとしよう(図1)。アリスは、情報を転送させたい粒子αと粒子Aをセットにして、特殊な測定(ベル測定と呼ばれるもの)を行う。そして電波などを使った通常の通信技術(この伝達速度は当然、光速以下)で、その測定結果をボブに伝える。ボブは、アリスの測定結果の情報をもとに、粒子Bにある操作(量子ゲート操作)を加える。すると、粒子Bは粒子αの元の状態と全く同じ状態になる。つまり、粒子αの状態についての情報が、ボブのもとに転送されたことになるわけだ。これが量子テレポーテーションである。粒子αの状態はベル測定によって変化しているので、コピー(同時に同じ状態の粒子が2つある状況)にはなっていないことに注意してほしい。

 

 

図1 量子テレポーテーション

 

 

なお、量子テレポーテーションはあくまで量子的な情報(量子ビットの状態など)を離れた場所に転送する技術のことであり、SFに登場する、物体自体を遠くに転送するテレポーテーションとは異なる2

 

*2:量子テレポーテーションと、SFに登場するテレポーテーションが異なると言えるかどうかは実は微妙な問題である。例えば、2つの野球のボールを考えよう。全く同じに見えても細かな傷の違いなどで区別はできるはずだ。しかし電子のような素粒子は、原理的に区別ができないことが知られている。実は「電子は区別可能」と考えた場合と、「電子は区別不能」と考えた場合で、統計や確率の扱い方が違ってくる。そして様々な実験結果は「電子は区別不能」と考えた場合と合致するのである。そのため、もしある物体を構成する全ての素粒子の量子的な状態を遠い場所に転送できたら、転送先に再現された物体は原理的にもとの物体と区別不能である。つまり、SFでよく見るテレポーテーションと事実上同じになるとも言えるのだ。しかし実際の量子テレポーテーションで想定されているのは少数の量子ビットなどの情報の転送であって、マクロな物体全体の量子的な状態を転送できるわけではない。

 

 

ホログラフィック原理と量子もつれ

 

空間は量子もつれが生みだした幻?

 

量子もつれは、量子コンピューターをはじめとする量子情報技術の要であるだけでなく、実はこの世界の成り立ちにも深く関わっているかもしれない……、そんな可能性が近年、物理学者たちによって理論的に研究されている。

私たちが住む世界は、縦・横・高さの3つの次元をもつ3次元空間である(時間を加えて「4次元時空」とも呼ぶ)とされてきた。しかし、近年の理論物理学の進展によって、3次元の世界は幻かもしれない、という可能性が真剣に議論されるようになってきているのだ。このような仮説は「ホログラフィック原理」と呼ばれている。この仮説によると、私たちの住む3次元空間と“等価”な2次元平面があり、そこには量子もつれの形で情報が埋め込まれているのだという(図2)。そしてその2次元平面からホログラフィーのように浮かび上がったのが、私たちが知覚している3次元空間の世界だというのだ。3次元空間と2次元平面のどちらが“真の世界”なのかは分からない。そもそも等価なのだから、どちらが“真の世界”なのかは見方による、とも言えるのかもしれない。

 

 

図2 ホログラフィック原理

 

 

 

 

ホログラフィック原理の世界観は、3Dゲームに似ている。ゲームのキャラクターはテレビ画面に映し出された仮想的な3次元空間の中を自由自在に動き回ることができる。しかし当然ながらゲームの中の世界は現実のものではない。ゲームの世界は、2次元的に配置された基盤内を行き来する電流などによって生み出された幻だ。

 

現実の世界も、3Dゲームのように別世界のコンピューター上で行われているシミュレーションである、とする「シミュレーション仮説」が哲学の世界で議論されているが、ホログラフィック原理はそれと似た考え方だ。しかしホログラフィック原理は、物理学の理論的な研究から生まれきたものであり、しっかりとした理論的な背景がある仮説だと言える。

 

現代物理学には2つの土台となる理論がある。原子や素粒子、光などの振る舞いを説明する理論である「量子論」と、時間と空間と重力の理論である「一般相対性理論」だ。理論物理学者たちは、この世界の土台となっている理論が2つあるという現状に納得していない。究極の理論はたった1つのはずだと考え、量子論と一般相対性理論を融合させた「量子重力理論」を構築しようと、数十年にわたって研究を続けているのだ。量子重力理論の有力候補の1つが有名な「超ひも理論(超弦理論)」である。超ひも理論は、この世界を形作っている最小単位である素粒子の正体を、振動するひも(弦)だと考える理論である。ホログラフィック原理は、この超ひも理論の研究などから生まれてきた考え方だ。

 

ホログラフィック原理にもとづいた仮説によると、2次元世界で量子もつれが生じると、3次元世界にはそれに対応した小さな空間の“泡”が生じるのだという。そして2次元世界の無数の量子もつれが、広大な3次元空間を紡ぎだしているのだと考えられるそうだ。非常にイメージしにくい話だが、理論物理学の最先端では、このように空間すらも当たり前の存在だとみなさず、その成り立ちから解き明かそうとしているのである。

 

実はホログラフィック原理が成り立つことが理論的に確かめられているのは、私たちが住む世界とは異なる物理法則が成り立っている仮想的な世界だけだ。物理学者たちは非常に自由な発想をもっており、私たちの住む3次元空間とは異なる高次元空間が仮に存在したら、いったいどんな物理法則が成立するのか、といったことを理論的に研究している。そういった研究の流れの中で、ホログラフィック原理が発見されたのである。つまり現状では、ホログラフィック原理は、私たちの世界とは異なる高次元の世界などで成り立つことが分かっているにすぎない。私たちの住む現実世界で本当にホログラフィック原理が成り立っているのかどうかは、まだよく分かっていないのだ。

 

 

この世界の根源はモノではなく、量子ビット?

 

現在、理論物理学の世界では、この考え方をさらに発展させた「It from Qubit.(この世界のあらゆるモノは量子情報《量子ビット》から生じる)」という考え方が注目を集めている。これは、量子コンピューターの概念の生みの親、デイヴィッド・ドイッチュ(1953〜)の師としても知られる著名な物理学者ジョン・ホイーラー(1911〜2008)が提唱した「It from bit.(この世界のあらゆるモノは情報《ビット》から生じる)」という考え方をさらに発展させたものだと言える。

この連載でも見てきたように、量子力学はモノの実在性に対する私たちの常識をことごとく覆してきた。しかし、ここで発想を逆転させ、モノは何らかの情報から生み出されているのだと考えるとどうだろうか。デジタル情報(ビット)から作り出されたゲームの世界なら、重ね合わせ状態や量子もつれなどの不思議な現象が登場しても、さほど違和感なく受け入れられるのではないだろうか。量子力学の不思議さは、この世界のより基本的な要素がモノではなく、何らかの情報であることを意味しているのかもしれない。

 

従来型のコンピューターのビットにしろ、量子コンピューターの量子ビットにしろ、情報は何らかの物理的な実体(モノ)によって表現されている。通常のビットなら、電流のあり・なしや、磁気のN極・S極、量子ビットなら、光の振動方向の縦・横や、原子のエネルギー状態の高・低などである。「It from bit.」や「It from Qubit.」の考え方は、これとは逆に「情報からモノが生まれる」という考え方だが、モノなしの情報などあり得るのだろうか? もしあり得るとしたら、それはいったい何を意味しているのだろうか。これらの答えは現時点では不明である。しかしこの考え方が正しければ、人類の世界観を根本から覆すことになることだろう。

 

 

量子力学の世界はまだまだ奥深い

 

本連載「量子コンピューターを理解するための量子力学入門」では、量子コンピューターをキーワードにして、量子力学の不思議な世界を紹介してきた。ここで改めて量子コンピューターの概略を紹介した第1回「量子コンピューターを巡る誤解––量子コンピューターはなぜ『計算が速い』と言えるのか?」をもう一度読み返していただければ、さらに量子コンピューターについての理解が深まるはずだ。

 

量子の世界は極めて奥が深く、この連載で紹介した内容は量子力学のごくごく一部にすぎない。これをきっかけに量子力学や物理学に興味をもっていただけたなら幸いである。(了)

 

 

 

第1回     量子コンピューターを巡る誤解──量子コンピューターはなぜ「計算が速い」と言えるのか?

第2回 量子力学とは何か?──量子コンピューターは「ミクロな世界を忠実にシミュレーションしうる計算機」

第3回 量子力学で書き換えられた「実在」の概念──「1つの電子は複数の場所に同時に存在できる」そう考えざるを得ない驚きの実験

第4回 量子コンピューターはパラレルワールドを使って計算している?–– 半死半生の猫と、量子力学の様々な解釈