想像と思考を拒絶する人工知能 その1
人間は知能を人工化することができるのか?
1970年生まれ。シナリオライター、出版社勤務等を経て、現在、眞人堂株式会社代表。これまで多数の書籍の編集を手掛けてきた。著作に『ももクロ論〜水着と棘のコントラディクション』(実業之日本社/清家竜介と共著)がある。

人工知能をめぐる議論は各分野に波及するものである。それは、人間とはなにか、知能とはなにかをめぐる問題設定にほかならないからだ。人工知能が人間をかけて離れていく可能性を探る。
人間は定義できるか?
1982年の映画「ブレードランナー」。その原作タイトル『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は謎めいた問いかけである。
原作を読んだ者なら作者のフィリップ・K・ディックがタイトルにこめたものを想像するのは難しいことではないかもしれないが、その想像が導く思索は深遠なものになるだろう。なぜなら、それは「人間を人間たらしめている本質とは何か?」というアポリアだからだ。
バウンティハンターである主人公デッカードは、レプリカントと呼ばれる人造人間を追跡するうちに、人間と人造人間の境界がどんどん不明になっていく。自身ですら人造人間であるか人間であるかを知らないレプリカントとの対照のなかで、人間の定義さえ曖昧になっていく。
いや、そもそも人間を定義することなど可能なのだろうか。
技術的な進化が進めば進むほど、身体的な差異は失われ、人間の感情や思考と人工知能のあいだの違いは自明性から遠のき、「ブレードランナー」で描かれたように直観的にはレプリカントと人間を見分けることができなくなる。
しかし、人間とレプリカントとは違う。人間はレプリカントではない。とはいえ否定神学的に人間を定義しようとすれば、ほとんどそれが神秘主義を同じ道を歩むのは長い歴史が証明している。神の存在を探し求めることとなんら違わないのだ。不可知論を前提に生命を語ろうとするのだから、合理的な思考や想像を拒絶するのは当然である。
人造人間、人工知能を思考することで、わたしたちは同時に生命の謎を探っている。人間の実存を問わずにおられなくなっている。人工知能やロボットは、人間に「人間という存在」の定義を迫らずにはおられないのだ。