空想科学対談2025年のIT批評① 『ゲーミフィケーション』が言われなくなる世界で
ゲーミフィケーションの終焉とリアリティ・チューニングの未来──2025年のIT批評が描く設計思想の進化

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著者 井上明人

強制力をもったゲーミフィケーションは最悪〜失敗の中心的問題

池上「話を戻して、ゲーミフィケーションの成功例だけど、2010年代半ばには、評判の悪い言葉になっていった。なぜか、というとゲーミフィケーションの成功例自体は、ある程度の頻度で出てくる一方で、残念ながら『誰でもゲーミフィケーションで一定の成果を上げられますよ』という部分にかなり限界があったから。

たとえば、その嚆矢になったのが、2013年はじめに行われたマクドナルドの『60秒キャンペーン』。マクドナルドで注文をした後、60秒以内に商品が出てこなかったら、バーガー類の無料券を贈呈するというサービスだった。しかし、これが、実際には現場では混乱を引き起こしたんですね。ドリンク類だけの注文などならまだしも、アップルパイだとか60秒で難しいメニューも実はかなり多かったし、熟練度の低い店舗だと難しかった。結局、お客さんをイライラさせ、現場のスタッフにストレスをかける結果につながってしまった」

牛邊「『ゲーミフィケーション』という言葉の反省は、一般のビジネスマンの『ゲーム』という言葉への想像力が乏しかったことに尽きると思います。一般の人は、『ゲーム』というと、どうしても競争の仕組みとか、クイズとか、そういうところに発想がとどまってしまう方が非常に多い。

私のところに相談に来る人も、まずクイズゲームとか作ってしまわれる方が未だに多い。クイズゲームや競争のゲームを嫌味なくきっちりと作るのは、実は素人にはハードルが高い。

一方で、ポイントカード的な手法はあまり絶大な効果があるわけではないですが比較的どういう状況下でも激しくネガティヴに機能することは少なめですね。そこの手法間の違いみたいなものが、『ゲーム』と言う言葉によって逆に見えなくなってしまった」

池上「なるほど。では、どういった具体的な対応が良かったと牛邊くんは思ってる?」

牛邊「要するに、競争をさせたりするんじゃなくて、いい雰囲気になれるリアリティを構築するステップを踏ませろ!というRTTの基礎中の基礎の話ですね。人が真剣にやってるのに、『これはゲームなんです』って言ったらやっぱり怒る人もいるわけですよ。私は真剣なゲームって沢山あると思うけど、そう考えない方も大勢いる。そういう問題はあるけど、発想自体は援用できる。

たとえば、60秒キャンペーンの一番よくなかったのは、マクドナルドのスタッフ側に、ゲームからの退出可能性が担保されていなかったこと。要するにやめたくてもやめられない。そのうえ、やたらとハードモード仕様のゲームになっていた。難しいゲームを強制でやらされたら、そりゃ反感を招くほうが多いに決まってる。

基本的に、『退出可能性を担保する』というのは、RTTのリスク設計において、RTTのリスクを少なくするためのオーソドックスなやり方です。もちろん、退出可能性のないケースも一部にはあります。たとえば、『車の運転手に制限速度を守って運転してくれていたら、クジがあたります』という試みがありましたが、あれはそもそものゲームの難易度を変えているわけではない。そのなかで、報酬を与えている。

ゲーム設定を新規に構築するのではなく、既に存在する状況にポジティヴなイメージを与えるだけ、という場合なら退出可能性が低い状況でも、不可能ではない」

池上「なるほど。似たような議論は、井上の本の中にも先取りして書かれてはいるね。確かに、それが世間的にじゅうぶん伝わっていなかった。当時の説で、『ゲーム』といった時に、エリート層が、イメージするものが、たとえば受験勉強だったり、出世レースだったりする人が多かったという説があります。そういった『難しいものにチャレンジできる』人々の特有のバイアスが妙な形で展開してしまったのではないか、という議論でしたね。

そういう『競争』とか『クイズ』じゃなくて、利用者のリアリティをきちんと気持よくしてやるための一連の手法群を『リアリティ・チューニング』と呼ぼうということで、2020年頃から、この話が出てきたんだよね」

牛邊「まぁ、『ゲーミフィケーション』という言葉が、聞き手に与える、リアリティのチューニング自体が、すごく失敗しやすかったわけですね。RTTという言葉自体も、一応、いまのところ生き残ってはいますが、言葉のニュアンスというのはナマモノなので、この言葉を2010年ごろに言っても、たぶん意味が通じにくい。2020年当時だったからこそ、というタイミングの問題は大きいです」

池上「その話は、デザインの歴史に近いものを感じるね。19世紀末のデザインといえば、アール・ヌーヴォーといわれる『いかにもデザインしました』という装飾性をもったものが一つの美術運動だった。その後に『アールデコ』が流行り、そして近代デザインがあり……と、しだいに見た目が派手なものではなくなってきた歴史があって。現代の一流デザイナーのなかには、『デザインの役割は、利用者にデザインをされていること自体を気づかれずに、利用者に意図どおりの行動をとってもらうことだ』という人が非常に多いわけ。利用者にどう行動してもらうかが重要であり『いかにもデザインしました』という見栄えこそが重要だという人は、ほとんどいない。RTTも、派手なものから、一見、地味なものになってきているように思うよね」

牛邊「その観察は一理あります。デザインの話で言うと、たとえばうちのバカ親父ですら『華美な装飾文字で、レストランのメニューが書いてあると読みにくい』ということは理解していた。デコレーションと、デザインは違う。あたりまえです。でも、デザインという概念を理解するために、デコレーションというステップは必要だったかもしれない。

概念が普及するためのプロセスということを考えると、現代におけるうるさくない、気づかれない『デザイン』のあり方と、19世紀のゴテゴテとした『デザイン』はもはや半分別のものだけれども、19世紀に『ああ、これがデザインってことね』という概念が理解されなければ、『デザイン』という概念そのものが社会的に成立しなかった可能性がある。

いま、デザインにおいて『誰にでも目に見えてわかるデザインっぽさ』というのは、デザイン手法のワンオブゼムですが、ゲーミフィケーションも『誰にでも目に見えてわかるRTT』という、RTTの一手法です。いまや、一手法でしかありませんが、歴史的意義としてはなくてはならなかった。未だに、無理解なクライアントだと『いかにも、それっぽいもの』が欲しいという人も多いのですけどね。リアリティのチューニングってのは、そういうこっちゃない。

みんなが、やりたいことのメインはプロセス制御なんです。そのツールも出てきた。でも、それをトータルに使うためのコアとなる全体プロセスの設計思想が必要で、たまたま最初に出てきたのがゲーミフィケーションだった。一番わかりやすかった。そういうことだと思いますよ」

この記事は『IT批評 VOL.3 乱反射するインターネットと消費社会』(2013/3/20)に掲載された記事をもとに構成しています。

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