パサージュからネットへ〜資本主義の構造転換と消費社会の変容 第2回

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清家竜介

 

 

あたかも第2次世界大戦前夜を想起されるかのような、時代のうねりが見え隠れする2014年――。

果たして、高度に発達した資本主義社会が世界を歪ませているのか?

そして、この情報通信技術の発達は、古い社会を排除しようとしているのだろうか?

それともまったく新しい社会を準備している途上なのだろうか?

その途上ゆえに、さまざま軋みが世界各地の生じているのか?

ヴァルター・ベンヤミンのメディア論から、消費社会の変容を論じる。

第1回はこちら

知覚の学としてのメディア論と複製技術

 

ベンヤミンは、パリの亡命生活の中で、未完の著書『パサージュ論』を準備する傍に「複製技術時代の芸術作品」という重要なメディア論の古典を執筆している。ベンヤミンは、その中で以下のように述べている。

「人間の集団の存在様式が総体的に変化するにつれて、人間の知覚の在り方も変わる。人間の知覚が組織されている在り方│知覚を生じさせるメディア│は、自然の条件に制約されているのではなく、歴史の諸条件にも制約されている」

この論述を先の資本主義の構造転換の問題と結びつけて考えることができるだろう。つまり商品を媒介する貨幣というメディアは、資本主義の構造転換をもたらし、人々の知覚を変容せしめ、理性を腐らせてしまうわけだ。

ベンヤミンは、このような資本主義的生産様式と、所有関係を変更することなく戦争という蕩尽(価値実現と消費)によって資本主義の危機を乗り越えようとするファシズムの猛威に抗するべく、複製技術による集団の知覚の変容の問題を探求していく。

ベンヤミンは、複製技術を、資本主義を推し進める強力な武器であると同時に、資本主義を解体するポテンシャルを持つ両義的なものとして捉えている。

先に述べたように、美的衣装をまとった芸術作品は、神々や貴族階級に仕えるものであった。その時代の芸術作品は、複製されたものでなく、オリジナルであった。巨大なカテドラルとそれを飾るダヴィンチの壁画やミケランジェロの彫刻、レンブラントやベラスケスなどの偉大な芸術家によって王侯貴族の居城や大ブルジョワの大邸宅に架けられた肖像画を思い浮かべればよいだろう。

それらの芸術作品は、まさにオリジナルであり、それを観賞するためには、オリジナルの作品のもとに直接訪れて、礼拝しなければならない。「オリジナルが、今ここに在る」という事実から、芸術作品の真正性の概念が生じ、そこに「アウラ(オーラ)」が現れる。オリジナルとは、伝承や歴史に位置づけられた強力なアウラに包まれていることを特徴とする。

神々に仕える僧侶や王侯貴族は、伝統的なコンテクストによって位置づけられた芸術作品のアウラによって、自らの権威を高めていたのである。

しかしながら、複製技術は、そのようなアウラをまとった芸術作品の権威を揺るがしていく。例えば、グーテンベルクの発明した活版印刷術で印刷された活字の書物であるルターによるドイツ語訳の聖書は、それまでの高価な羊皮紙の上に聖なるラテン語でかかれた写筆の聖書と異なる、大量に複製された安価な商品であった。羊一頭から四枚しか取れない高価な羊皮紙に技巧を凝らして装飾され一字一字ごと写筆された聖書は、まさに最高級の芸術作品であった。紙と活字という新たなメディアは、それまでの書物を覆っていたアウラを奪ってしまった。活版印刷術は、出版資本主義を成立させると同時に、それまでの特権的なアウラに包まれていた聖なる写筆文化を解体していったのである。

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