揺れるネット社会の規範─求められるIT教育は?

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大人にもわからないITの常識、危険性

 

ただ、正論は先に述べた通りなのだが、実はなかなかこれがうまくいかない。これまでの社会の常識はほとんどの大人が普通に身につけ、社会共通で認識されていたが、ITにおける常識や危険性、利便性は実は大人も社会もよくわかっていないからだ。これが冒頭で触れたカンニング事件が示唆する感性の隔絶である。

旧世代は一般社会のルールをネットに適用しようという方向性で、IT世界の規範を作ろうとしてきた。その際には、巷間で言われ尽くした「ネットの匿名性」や「グローバル」などというフレーズで、ネットの特殊性を解決しようとしてきた。

しかし、デジタルネイティブ世代では、それを特殊性と捉えず、あるがままに普遍的なものとして把握している。

一般社会の規範に対する理解では旧世代に劣っても、IT世界を感覚的に理解し受け入れる感性は凌駕していると言って間違いない。

その狭間に生まれた事件の一つが、日本中を騒然とさせた尖閣問題における動画漏洩事件だろう。漏洩を行った海上保安官は、まず最初に動画の持ち込みを従来のマスコミに対して行った。

これは旧来の価値観に基づく問題提起の手法だ。しかし、それがうまくいかなかったとき、ごく自然と動画サイトにアップすることに取りかかった。これが新しい世代のアプローチである。

保安官自身はデジタルネイティブ世代ではないが、社会人としてのキャリアをITの進歩とともに積み重ねてきた世代だ。二つの世代をつなぐ象徴的な過渡期世代であり、そのことが両者の隔絶を鮮明に見せる。

今どき文書に限らず、動画や図面など組織活動のデータはほとんど、デジタル管理の下にある。そして多くの場合、機密書類にアクセスできる端末は厳しい制限下にあり、光ディスクやUSBメモリなど外部メディアは利用できない。外資や大手企業ほどこうした規制は厳しく、多くの場合はデータだけでなく従業員が使用するPCをも厳格な管理下に置いている。

 

尖閣動画漏洩事件の示唆

 

一方で官庁など公的機関では意外とこうした規制が緩い。先に触れた警視庁の機密資料漏洩事件でも、規則自体はあったものの運用は甚だアナログだったと言われており、データ管理の「実」は不要で「名」だけが必要だったと指弾されても仕方ない状況だった。

振り返ってこのケースを見れば、漏洩された動画データはアクセス制限のない領域に保存されており、容易に動画データをコピーできたことが、そもそもの出発点だ。このこと自体は、おそらく動画自体がそれほどの制限をかけられるデータでないと判断されていたためと思われるが、本稿で是非を問うものではない。しかし、カンニング事件と同様で、データコピーが困難な環境にあれば、保安官は果たしてこのような事件を起こしたであろうか。不当・不正行為に対する抑止効果の面で規律の「実」は大きい。ここが本事件の肝要な箇所と言える。

また、海保庁監督層の「情報」への認識の甘さも明らかになった。一度デジタルデータとして流出してしまえば、もはや誰にも拡散を止めることができない。これが現代のネット社会におけるデータ保持の危険性だ。このことを組織が理解していれば、安易なデータ管理を行っていただろうか。政局をはじめ国内だけでなく、外交にもわたる大事件の生データであっただけに、幾重ものセキュリティをかけていたのではないか。

結果として、この事件は書類送検といううやむやな形で終わりを迎えた。公務員の守秘義務が課せられるとしても、コピーが容易な「軽い情報」の漏洩に手を染めた保安官を責められない、「よくやった」との国民感情に配慮せざるをえないとの判断もあったのだろ

うが、監督する側の問題意識の欠如までがうやむやになってしまったのは、いかんとも肯んじがたい。

 

判例法主義では裁ききれないネット犯罪

 

行政府においては旧世代のデジタル技術に対する理解の隔絶を、尖閣動画漏洩事件が顕著に示したが、同様の感は司法の場でも判決を通して痛感させられることが多い。なかでも、とくにIT関係者に衝撃を与えたのは、04年のファイル共有ソフトWinny の開発者を有罪とした一審判決だっただろう。

このソフトのユーザーが違法コピーなど著作権法に反したとき、罪に問われるのは当然だが、この事件ではソフト開発者もまた幇助共犯として逮捕、起訴された。当時、不法行為に利用される予見性についてかなり言及されたが、技術をはじめとするツールは、よいものにも悪いものにも使われる。刃物は非常に便利な道具だが、命をも落とす危険な道具でもある。だからといって、刃物を否定する者は皆無だろう。

危ない使い方をする者が罪に問われるだけである。ファイル共有ソフトは悪意ある用途が専らではないか、という捜査当局の言い分は検挙する側としてやむをえないが、その言い分を丸飲みしたような一審には多くの疑問が投げかけられた。

控訴の後、09年10月の高裁判決では有罪とした一審判決が破棄され、現在は最高裁に上告されその判断を待っている状況であるが、そもそもITに関する事件は判例のないことが多い。そのため判例法主義の裏返しで、司法の判断はどうしても裁判官個人の理解、見解に左右される。新しい技術や時代背景を重視する裁判官もいれば、保守的とは言わずとも、社会全体の理解を重視して新技術に対し慎重な姿勢を取る裁判官もいる。だからこそ判決が二転三転するのだが、裁判官を社会の良識を代表する裁定者として見た場合、これは社会道徳と新技術の葛藤と見て取ることができる。

 

社会道徳と新技術の葛藤

 

その視点に立ったとき、この1月に大きな司法判断があった。最高裁が判断を下した「遠隔操作によるテレビ視聴(録画)」の是非である。

同月18日、ロケフリを用いて海外でテレビ番組を試聴できる仕組みを提供していた「まねきTV」について、また20日にはテレビ番組を録画しネット経由で海外でも視聴できる仕組みを提供していた「日本デジタル家電」についての判決が下され、それぞれ一審、二審ともに被告側が勝訴していたが、最高裁で判断が覆された。

一審、二審では、これらは基本的にユーザー自身がテレビ番組を見る環境を提供しているに過ぎず、TV局の公衆送信権を侵害しないという判断だった。とくに二審は、知的財産を重視する流れで05年に設立された専門の知財高裁の判断だけに、現在の技術に照らし合わせた妥当な判断だったように思う。

それが最高裁では、おそらく高次の社会的規範の観点から公衆送信権の保護を重視し、より厳密な定義がなされた。そして、両者の仕組みが誰でも申し込めば利用できることから公衆送信権を侵害すると判断した。

判決の詳細な分析や評価は専門家に譲るとして、ネットを使った遠隔操作はもはや日常的な技術、サービスとなっている。しかし、最終的な司法判断は最新の技術を利用したサービスに、より厳格な規定を求めた。この意味は非常に大きい。一般社会の規範が必ずしも最新の技術に対応したものではないことを顕著に示す事例と言える。

 

シフトする価値観に即したモラルを

 

これまで挙げてきた事例は、しばしば体制・既得権益者と新規参入という対立の構図で表されるが、本質的な問題は新しい概念や技術、ビジネスモデルが一般的になるには時間が必要であり、それまでの間、社会規範の適用が難しい世界が生まれるところにある。

それゆえネット社会においては、現実にある世界に対して法や規範が後追いする形になってしまう。スパムメールや広告メールは、まさしくそうした流れを追って規制化された。

もちろん、こうした後追いの規制が悪いわけではない。たとえば青少年保護に関する規制については、いくつかの問題点が指摘されながらも有害サイトへのアクセスを制限するフィルタリングに、総務省を監督官庁に警察庁や地方自治体、事業会社、業界団体が組織だって取り組んでいる。制限すべきかどうかの判断、リスト作りにも第三者機関による認定や検証を設けるなど、一定のコンプライアンスにも配慮しており、社会が自主的に規範の空白を埋めるための枠組みは構築されつつあると言えるだろう。

その一方で警察庁は2月17日に、各都道府県警を通して行ったフィルタリングに関する覆面調査の結果を取りまとめたが、販売店のおよそ4割ではフィルタリングの利用を促す説明などが不十分だったとの報告がなされている。

社会の総体としては問題意識を持って枠組みを作ったとしても、組織の末端では必ずしも共有されておらず、意識の乖離がいまだ埋まらずということを、図らずも証明してしまった。

このように考えると今回、編集部より「ITと教育」という題をもらったが、教育とは世間一般が考える若年層に対するものと限定的に捉えるだけでは不十分なことに気付く。社会全体に教育を施しコモンセンスを築くことや、旧世代のインテリ層に教育を施し旧来の価値観との摺り合わせを行うこともまた、ITに求められている教育ではないだろうか。

とくに、旧来の価値観との摺り合わせは、ITが社会を変革するというフレーズの下、社会自体が意識的に放擲してきたものと見えなくもない。ITの普及により自ずと社会が変わるとの考えは、ITを先進的とする優越感に由来する甘えであったように思う。

これは、家族観の下にたとえると、もう少しわかりやすい。摺り合わせの欠如は、90年代にITに積極的に取り組んだ世代の、親の世代に対する反発と甘えであり、ITが普遍となった現代社会のルールが円滑に機能していないのは、デジタルネイティブな子どもの世代に対する戸惑いと遠慮である。

ただ、これらの解決は結局のところ、老親と子どもへの根気強い教育しかないのは、家庭にたとえれば自明のことだろう。

その意味では昨今、本稿で取り上げたような事象が頻発している責は、われわれITに馴染んだ世代に求められるものであり、そのことを一層、自覚していかなければならないのではないだろうか。そうした同一世代における相互的な教育もまた、求められている。

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