ソーシャルメディアとケータイ〜インターネット本来の可能性が具現化する
ソーシャルメディアとケータイへの戸惑い
ソーシャルメディアを個人のメディアとするならば、こうした情報メディアは、実は有史以来はじめて登場したのかもしれない。過去を振り返ってみて、ここまで大規模に普及した個人による情報発信を前提とする情報メディアが、かつて歴史上存在していたことを、筆者は寡聞にして知らない。
ソーシャルメディアでの交流を楽しむだけでなく、仕事上のネットワーク拡大にも活用している筆者としては、こうした新しいメディアの登場とその普及は、基本的に歓迎したい。しかし一方で戸惑いを感じる人がいることも、私たちは忘れてはならない。そしてそれゆえに、すでにソーシャルメディアを使いこなす人々の熱狂をよそに、日本社会における情報メディアとしての位置づけは、いまだマイノリティの域を出ていない。こうした現実を踏まえてこそ、ソーシャルメディアとケータイによる新しい情報のパラダイムを、より正しく社会に導入することができるだろう。
まずもって、ソーシャルメディアを受け入れている人たちでさえも、個人が能動的・主体的に情報を発信するということの本当の意味を、理解できていないはずだ。なにしろ私たちは、個人の発信した情報が〈社会全体に届く可能性〉がここまで極大化した世界を、まだ誰も知らないのだから。
たとえば、それはプライバシーという権利に関する議論で表面化している。従来のプライバシー権は、政府や企業が個人(市民)に関する情報を収集・集約することを前提に、そうした「巨大な存在」から個人の権利を守るために作り出された権利だった。この場合、情報は個人が能動的に発信するものではなく、政府や企業が収集していくものとして位置づけられており、この収集に制限を課す根拠として、プライバシー権が存在する。
しかしソーシャルメディアは、こうした考え方とは正反対にある。なにしろそこで取り扱われるのは、政府や企業が収集した情報ではなく、個人が自らの意志で自発的に発信した情報だ。しかもケータイ経由なのだとしたら、いつでもどこでもプライバシー情報がダダ漏れ、という状態である。こうした状況を、従来のプライバシー法制はほとんど想定していない。
一方でソーシャルメディアを舞台にした略取・誘拐や性犯罪の発生等は、すでに日本のみならず海外でも頻発している。そこには、個人が自発的に発信した情報でさえも、それが社会全体に広まると、当の本人はおろか事業者でさえも管理しきれない、さらにはもはや誰にも管理不能である、というソーシャルメディアの矛盾や限界が見え隠れしている。
特にこうした犯罪行為は、残念ながらケータイの利用で増加する傾向にある。警察庁によれば、特に未成年の犯罪被害について、非出会い系サイト(いわゆる大手SNS)をケータイ経由で利用することで巻き込まれるケースが圧倒的に多いとしている。また関連して、子どもたちのイジメの舞台に、ソーシャルメディアとケータイが使われていることは、すでに広く知られている。
ソーシャルメディアとケータイの組み合わせは、従来のプライバシーの概念を大きく変える一方、より深刻なプライバシーの侵害が発生しうる状況をも作り出してしまった。
こうした背景から、ソーシャルメディアとプライバシーに関する検討が、ここ2〜3年、欧米を中心に活発に行われている。たとえば欧州委員会は、プライバシー権の新しい概念として「忘れられる権利(right to be forgotten)」を提唱しはじめており、この概念に基づく法改正の動きを進めようとしている。また米国でもソーシャルメディアを強く意識したプライバシー保護に関する法制化の動きが進んでいる。
法律を作れば問題が解決するわけではない。しかし検討の過程で、ソーシャルメディアの課題解決を誰がどう担うべきか、という議論は進むだろう。そしてソーシャルメディアが個人のメディアであるならば、そこでは情報を発信する側の責任も問われることになる。ケータイがソーシャルメディアの負の側面も増幅している以上、両者を踏まえた〈個人の役割と責任の適正化〉の議論は、もはや不可避である。
ケータイでソーシャルメディアを手なずける
ソーシャルメディアは、社会に何かを働きかけたい個人にとっては、かつてないほどの強力な武器となる。そしてその能力は、ケータイによってさらに増幅される。これまで「ちっぽけな存在」として位置づけられていた個人が、社会と対等に向かい合う主役として活躍できる。
しかし私たちは今日現在、ソーシャルメディアを使いこなせているとは言えない。そもそもソーシャルメディアが社会に与える影響力を理解できてもいなければ、ケータイとの組み合わせによって増幅されるダメージは、近年積み重なる一方でもある。
特に、完全性の高い匿名(どこまで辿っても特定できない・しにくい)状態でのソーシャルメディア利用は、一種の暴力装置となりうる。当事者意識が希薄になりやすいという意味においては、スレッドという文脈を共有した上で自覚的にコミュニケーションが行われる「2ちゃんねる」よりも、もしかすると悪質かもしれない。
現状を放置すれば、ソーシャルメディアは「強力だが使いこなせない武器」として、誰も手を出さない代物になりかねない。すでに一部では「ソーシャル疲れ」という言葉も出てきているように、曲がり角に来ているのは間違いない。
それでも筆者は、ソーシャルメディアの可能性を、信じたい。そしてそれをより良い方向に伸ばすために、ケータイにできることがある、と考えている。
まず、ゆるやかな実名性の導入が必要だろう。とはいえ、いついかなる時も実名で、というわけでなく通常は匿名でも構わないのだが、誰か(おそらくはソーシャルメディアの事業者が望ましい)がそのIDの実体を把握している状況
が必要だ。フーコーが指摘したパノプティコン(全展望監視システム)ではないが、〈誰かに見られている〉という状況が、暴力性を抑制する一助にはなろう。
またソーシャルメディアそのものも、〈複数だが少数〉という状態に絞り込まれた方が、ユーザーの負担は結果的に減るはずだ。一般的な利用者なら、サービスの利用状況を把握・管理できるのは、せいぜい4〜5種類のサービスが限界だろう。それ以上は管理が行き届かず、結果としてプライバシー情報の漏洩リスクを高めるし、そもそもIDやパスワードを覚えていることさえ、ままならないはずである。
すなわち、利用者自身の責任において、利用者が主体的に管理できる状況、いわば〈ペルソナの管理〉を実現することが、ソーシャルメディアと社会の協調を図る上で重要となるはずだ。そしてその結節点かつコントローラーとして、ケータイはうってつけの存在だと筆者は考えている。通信事業者との契約の中で身分証明は明確だし、もとより現代人にとっては「財布以上に身体に近いもの」である。また複数サービス利用の管理はケータイの得意領域であり、スマートフォンはその能力をさらに向上させているもちろん、ケータイ側にも様々な課題がある。そもそもケータイ自体、ソーシャルメディアを想定したサービス設計・制度設計が、十分行われているとは言い難い。そうした状況の打破には、通信事業者、サービス事業者、最終利用者、というそれぞれの役割が改めて定義される必要があるが、そうした議論は国内外のいずれにおいても、いまだ途上にある。とはいえ、ソーシャルメディアを手なずけられるのは、ケータイをおいて他にないのも、おそらく間違いなかろう。
ソーシャルメディアには大きな可能性がある。しかし使い方を間違えれば、凶器にもなりかねない。そして私たちは、〈ソーシャルメディアのある社会〉について、まだ何も知らないに等しい。すでに顕在化している課題を克服し、その先にこそ、本当の意味での〈個人のメディア〉の時代を迎えるためにも、ケータイが大きな役割を果たすべき時が到来している。