ITproのための「ももクロ論」補論④

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桐原永叔

 

 

これまで、ももいろクローバーZとAKB48について、ITサービスのキーワードを使って比較してきた。第4回は、すこし遠回りをしつつ、この両グループが示した消費スタイルの顕在化を、現在のITサービスの成功例に相対させてみていく。アイドルファンたちが、なぜ大衆的な消費からズレていくのか? 彼らはアイドルに何を求めているのか? その根本にあるものについて掘り下げて論じてみる。

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第4話 ユーザーは生産性によって何を求めるのか? アイドルファンが示した消費のカタチ

ITサービスにおいては、今やプロシューマーによる「隠れた経済活動」や「影の文化経済」なくしては成り立たないと言っても過言ではないだろう。こうした消費者側の経済活動をいかに取り込んでいくかは、まさにITサービスの未来可能性の生命線といっていいだろう。

一方で、ITサービスの発達、とりわけSNSの出現によって、個々の消費者はプロシューマーとしてネット上で連帯している。企業は連帯した消費者の、いわば“消費者組合”を相手にビジネスをしているといった現状といえる。これは企業側にとって大きなチャンスにも障壁にもなり得るものだろう。

事業に消費者を参加させる「エンゲージメント」

ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』(紀伊國屋書店)によれば、テレビの時代には、消費者は個室のなかに隔離されて連帯がなかった。それが現在では、ITサービスのなかでいつの間にか消費者、ユーザー、視聴者が連帯し大きな存在として発言力を持つに至った。まるで前世紀において資本が労働組合と対峙したように、今世紀の企業は連帯した消費者と対峙することを余儀なくされているようだ。

前世紀、近代化が進む社会のなかで、生産活動から疎外されていった労働者は組合をつくることで資本家と対峙した。疎外された労働者とは、自分がなにを生産しているかさえ不明で、生産の意味を奪われ機械として労働することを強いられた労働者だ。マルクスは、こうして疎外された労働階級(プロレタリアート)に連帯を訴え、世界的な共産運動の礎となった。そして今世紀、ポスト近代とも成熟社会ともいわれる時代のなかで、消費活動から疎外されていた消費者がインターネットを介して連携しつつあるのは、歴史の繰り返しのようにみえる。

消費活動から疎外されていた消費者とはつまり、企業の論理に従属するかたちで消費させられる消費者、たとえば商品の計画的陳腐化に駆動させられる消費者といってもいいだろう。ひとたび、疎外されていること認知した消費者たちは、サイバーカスケードといわれるように、ネット上に一気に集結し企業に対する示威行動も厭わない。この点も、労働運動の過激さに比すべき部分がある。より情報戦めいているのは、インターネットの時代ゆえであろう。

このような企業対連帯した消費者といった構図のなかで、企業は消費者と対峙するのではなく、企業の側に消費者を取り込み、事業に消費者を参加させるという、「エンゲージメント」といった手法を用い消費者との関係を更新することに腐心している。

しかし、消費者は根本のところでどこか企業の経済活動を解体するように活動するという側面がある。その意味では、インターネットによって消費者側の連帯が進めば、企業の論理はますます通用しなくなるだろう。映画「ソーシャル・ネットワーク」で描かれた、若きザッカーバーグが初期のフェイスブックのインターフェイスに広告を入れようという意見に「ダサいからダメだ」と答える姿が思い出される。消費者(ユーザー)の生産性を無視して、企業の論理で経済化を進めることは消費者の疎外でしかない。

陸続と登場するITサービスで成功をしたものを考えてみても、同様のことがいえないだろうか。成功の多くは、ユーザー側に経済活動を解放したものではなかったか。企業の経済活動を「民主化」したと言い換えてもいい。前世紀、映画やラジオ、写真といった新メディアが登場したとき、ベンヤミンは、これまで一部の富裕層が独占してきた芸術を複製技術が民主化したと述べた。

その意味で、インターネットによって、ブログは新聞・雑誌を、YouTubeは放送を、SNSは広告を、それぞれ民主化したともいえる。思い出してほしいのは、ブログであれ、フェイスブックであれ、日本に上陸した際には、日本では成功しないといった意見が大半であった。ユーザーに経済的利益がないからという分析も目立った。しかし、ユーザーが求めていたのは、経済的な利益よりも解放や民主化だったのだ。マスメディアがもつシステムを解放・解体してくれる手法だからこそ惹かれたのだ。

逆に、あれだけ話題になり注目を浴びながら、これといって成功したサービスを生み出していないビッグデータなどは、ユーザー側からすれば、解放より束縛のイメージしかできない。そこでいくらユーザーの経済的利益を謳っても耳を貸してもらえないだろう。社会的に大きな問題を孕むためにほとんど不可能だろうが、ビッグデータをユーザーにも解放し、自分たちの生産活動に利用できるといったサービスが登場しない限り成功はおぼつかないという印象だ。たとえば、ビッグデータで管理した個人の会計データを、確定申告に利用できるような、税理士や会計システムの生産活動を解放するといったような……。

AKB、ももクロに話を戻そう。それまでテレビや雑誌など、マスメディアを中心に活動してきたアイドルたちが、2000年代前半からの冬の時代を経て地下化し、インターネットの隆盛もあって既存メディアに依存しなかったことが、市場拡大後はマスメディアが独占的に持っていた権益を解体(民主化)するきっかけとなった。マスメディアが主導しなかったことが、かえってファンの生産性を向上させていった。「自分たちの手でなにが変えられるか?」という、疎外からの回復に没入させたのだ。

ユーザーレビューは企業論理に対抗する

アマゾンのレビューシステムについて考えてみたい。何を今更といわれそうな議論だが、ベンヤミンがいったように民主化は、まず批評(レビュー)という生産活動に表れるという点で見直してみたいのだ。レビューは、商品やサービスの隠された意味を再生産する行為である。なにより、レビューは消費活動に一回性や希少性を付与してくれるために、経済や社会から疎外されている自分を認識する(既得権益が見させる夢から覚醒させてくれる)契機になるものだ。

アマゾンで図書をはじめ、さまざまな商品を購入しようとするとき、レビューの付いていない商品をカートに入れることに二の足を踏んだ経験のあるユーザーは多いのではないだろうか。アマゾンにとってレビューという情報はもはや商品販売のために不可欠な要素であり、もちろん批判的なレビューの可能性もおおいにあるわけだが、それをも含め、消費者にとって商品をより民主的にみせ、ネットショッピングの最大の欠落要素である「手に取って見られないこと」を補ってあまりあるものだ。

アマゾンのレビューシステムは貢献度の高いレビュアーを「ベストレビュアーランキング」と銘打ったランキングによって顕彰している。他の利用者によって押されるそのレビューが「参考になった」または「参考にならなかった」という投票数やレビューの投稿数を考慮して総合的に決定される仕組みである。またベストレビュアーランキングで上位にランクインしたレビュアーや、長年にわたりレビューを投稿しているレビュアーが紹介される「レビュアーの殿堂」まで用意されている。

誰でも公平にレビューを書くことができるレビューシステムは、ユーザーの自己表現になるだけでなく、売り手側の企業論理を解体しうるものだ。まさにフィスクのいうファン(この場合はアマゾンユーザー)による「言明的生産性」であり、ベンヤミンのいう民主化だといえまいか。

これは、ユーザーの「隠れた経済活動」や「影の文化経済」を可視化して、ユーザーを企業へと動員(アサインといってもいい)し、エンゲージメントの域にまで結びつきを強化している好例といえる。

この連載の冒頭で、AKBとアマゾンの親和を述べたが、ここにもAKBとの親和がみられる。なぜなら、AKBは、巨大化した芸能界が独占していた権益を、ファンたちがみずからの生産性を担保に民主化したといえるからだ。宇野常寛氏をはじめ若手評論家が、こぞってAKBを分析するのは、既得権益側に対するアンチテーゼとして機能する部分もあるためだろう。

顧客エンゲージメントは神秘性を求める?

顧客エンゲージメントとはブランドへの強い愛着から発生する消費者の能動的な動き(ブランドへの商品・サービスの改善提案、批判や意見、ブログやツィッターなどを通して不特定多数の人々に発信された批判や意見)を取り込むことによってユーザーとのコミュニケーションを日々更新し、つながりを強化する取り組みといえる。

しかし、現段階では成功しているように思える、このコミュニケーションの可視化と「隠れた経済活動」・「影の文化経済」の駆動とは、実は矛盾した動きなのではないか。理論化、合理化される企業や市場の論理から逃れて「隠れた」、「影の」存在として息づき、躍動するのが大衆文化の本質ではないか。可視化される領域から、さらに隠れ、影に入りこもうとするのが消費者の常態ならば、こうしたイタチごっこに、企業がこれまでの論理で追いつくことが可能だろうか。

その意味で、企業と消費者とのエンゲージメントとはなんとも脆弱な気がしてならない。冗談めくが、エンゲージメントを「婚約」と訳すなら、これほど波乱を予感させるものはないだろう。恋愛期間では気づかなかったもの(その多くは短所だ)が、生活の距離が近づくことで不条理なまでに嫌悪を抱かせてしまうことを思い出させる。西欧社会とは契約の意味づけが違うとはよくいわれるが、すくなくとも日本的な婚約関係には前途の多難を想起させるものがある。

考えるべきなのは、可視化ではなく、消費者が隠れる場所を残すことなのかもしれない。気疲れした結婚相手が逃げ込める実家をもつように。あるいは、相手に秘したすこしのガマンが結婚関係を長持ちさせるように……。言い換えれば、不可視の領域をいかに確保しておくかということだ。

わたしには「エンゲージメントの合理化」「合理化されたエンゲージメント」といった言い方が、ほとんど語義矛盾のように思えてしまう。個々の役割を分担し、それぞれの貢献度を数値化し、その貢献度に応じて利益を求めるといった家族が幸せに見えないように、企業がユーザーに与えるものが利益としてしか換算できないならば、エンゲージメントは成功しないのではないか。家族の例でいえば、父親は官僚のようになっていき、家族関係は硬直していくにちがいない。

エンゲージメントを円滑にするには、「愛」やら「心」といった、ITに携わる人間が忌避するような神秘的、あるいは宗教的なものを求めざるをえなくなる。AKBやももクロを語るときに、宗教などの神秘主義に進んでしまうのも同じところに理由がある。でなければ、前田敦子はキリストを超えたとはいえないはずだ。この2グループの人気は、ビジネス的にどんなに説明しつくしても、どこか宗教的にならざるをえないのだ。あるいは「神話作用」といったタームでブランド戦略を語るようにできるのかもしれないが……。

マックス・ウェーバーのいうように、近代の資本主義とはまぎれもなく脱魔術化(合理化)によって成り立っている。とはいっても、人間は結局のところ合理化されたものだけを拠りどころに生きていくことは不可能であり、どんな時代においても神秘的なもの、魔術的なものを求める傾向があることは否定できない。

いうまでもなくIT技術の進歩によってそれまで人の手で担ってきた、たとえば職人的な経験値や暗黙知がデータ化、システム化され、工場生産が可能となり、イノベーションがなされてきたことで人間社会は恩恵を享受している。しかし、把握しうる限りのすべてのものを理論化、システム化しようとしても、そこには必ずこぼれ落ちるものがあるはずである。