ITproのための「ももクロ論」補論④

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ユーザーレビューは企業論理に対抗する

アマゾンのレビューシステムについて考えてみたい。何を今更といわれそうな議論だが、ベンヤミンがいったように民主化は、まず批評(レビュー)という生産活動に表れるという点で見直してみたいのだ。レビューは、商品やサービスの隠された意味を再生産する行為である。なにより、レビューは消費活動に一回性や希少性を付与してくれるために、経済や社会から疎外されている自分を認識する(既得権益が見させる夢から覚醒させてくれる)契機になるものだ。

アマゾンで図書をはじめ、さまざまな商品を購入しようとするとき、レビューの付いていない商品をカートに入れることに二の足を踏んだ経験のあるユーザーは多いのではないだろうか。アマゾンにとってレビューという情報はもはや商品販売のために不可欠な要素であり、もちろん批判的なレビューの可能性もおおいにあるわけだが、それをも含め、消費者にとって商品をより民主的にみせ、ネットショッピングの最大の欠落要素である「手に取って見られないこと」を補ってあまりあるものだ。

アマゾンのレビューシステムは貢献度の高いレビュアーを「ベストレビュアーランキング」と銘打ったランキングによって顕彰している。他の利用者によって押されるそのレビューが「参考になった」または「参考にならなかった」という投票数やレビューの投稿数を考慮して総合的に決定される仕組みである。またベストレビュアーランキングで上位にランクインしたレビュアーや、長年にわたりレビューを投稿しているレビュアーが紹介される「レビュアーの殿堂」まで用意されている。

誰でも公平にレビューを書くことができるレビューシステムは、ユーザーの自己表現になるだけでなく、売り手側の企業論理を解体しうるものだ。まさにフィスクのいうファン(この場合はアマゾンユーザー)による「言明的生産性」であり、ベンヤミンのいう民主化だといえまいか。

これは、ユーザーの「隠れた経済活動」や「影の文化経済」を可視化して、ユーザーを企業へと動員(アサインといってもいい)し、エンゲージメントの域にまで結びつきを強化している好例といえる。

この連載の冒頭で、AKBとアマゾンの親和を述べたが、ここにもAKBとの親和がみられる。なぜなら、AKBは、巨大化した芸能界が独占していた権益を、ファンたちがみずからの生産性を担保に民主化したといえるからだ。宇野常寛氏をはじめ若手評論家が、こぞってAKBを分析するのは、既得権益側に対するアンチテーゼとして機能する部分もあるためだろう。

顧客エンゲージメントは神秘性を求める?

顧客エンゲージメントとはブランドへの強い愛着から発生する消費者の能動的な動き(ブランドへの商品・サービスの改善提案、批判や意見、ブログやツィッターなどを通して不特定多数の人々に発信された批判や意見)を取り込むことによってユーザーとのコミュニケーションを日々更新し、つながりを強化する取り組みといえる。

しかし、現段階では成功しているように思える、このコミュニケーションの可視化と「隠れた経済活動」・「影の文化経済」の駆動とは、実は矛盾した動きなのではないか。理論化、合理化される企業や市場の論理から逃れて「隠れた」、「影の」存在として息づき、躍動するのが大衆文化の本質ではないか。可視化される領域から、さらに隠れ、影に入りこもうとするのが消費者の常態ならば、こうしたイタチごっこに、企業がこれまでの論理で追いつくことが可能だろうか。

その意味で、企業と消費者とのエンゲージメントとはなんとも脆弱な気がしてならない。冗談めくが、エンゲージメントを「婚約」と訳すなら、これほど波乱を予感させるものはないだろう。恋愛期間では気づかなかったもの(その多くは短所だ)が、生活の距離が近づくことで不条理なまでに嫌悪を抱かせてしまうことを思い出させる。西欧社会とは契約の意味づけが違うとはよくいわれるが、すくなくとも日本的な婚約関係には前途の多難を想起させるものがある。

考えるべきなのは、可視化ではなく、消費者が隠れる場所を残すことなのかもしれない。気疲れした結婚相手が逃げ込める実家をもつように。あるいは、相手に秘したすこしのガマンが結婚関係を長持ちさせるように……。言い換えれば、不可視の領域をいかに確保しておくかということだ。

わたしには「エンゲージメントの合理化」「合理化されたエンゲージメント」といった言い方が、ほとんど語義矛盾のように思えてしまう。個々の役割を分担し、それぞれの貢献度を数値化し、その貢献度に応じて利益を求めるといった家族が幸せに見えないように、企業がユーザーに与えるものが利益としてしか換算できないならば、エンゲージメントは成功しないのではないか。家族の例でいえば、父親は官僚のようになっていき、家族関係は硬直していくにちがいない。

エンゲージメントを円滑にするには、「愛」やら「心」といった、ITに携わる人間が忌避するような神秘的、あるいは宗教的なものを求めざるをえなくなる。AKBやももクロを語るときに、宗教などの神秘主義に進んでしまうのも同じところに理由がある。でなければ、前田敦子はキリストを超えたとはいえないはずだ。この2グループの人気は、ビジネス的にどんなに説明しつくしても、どこか宗教的にならざるをえないのだ。あるいは「神話作用」といったタームでブランド戦略を語るようにできるのかもしれないが……。

マックス・ウェーバーのいうように、近代の資本主義とはまぎれもなく脱魔術化(合理化)によって成り立っている。とはいっても、人間は結局のところ合理化されたものだけを拠りどころに生きていくことは不可能であり、どんな時代においても神秘的なもの、魔術的なものを求める傾向があることは否定できない。

いうまでもなくIT技術の進歩によってそれまで人の手で担ってきた、たとえば職人的な経験値や暗黙知がデータ化、システム化され、工場生産が可能となり、イノベーションがなされてきたことで人間社会は恩恵を享受している。しかし、把握しうる限りのすべてのものを理論化、システム化しようとしても、そこには必ずこぼれ落ちるものがあるはずである。

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