ITproのための「ももクロ論」補論③

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アイドルを「自分ごと化」したオヤジたち

ひとつ付け加えておくと、現在、広告やPRの世界でキータームになっている「自分ごと化」といったものも、ここでいう生産性と深い関係があるだろう。ただし、消費者が打算的に「自分ごと化」を行うニュアンスの強い広告やPRの考えとは違和がある。「言明的生産性」や「テキスト的生産性」などは、むしろ周囲に利益を供与・共有するためといったニュアンスが強いからだ。

こうした「自分ごと化」のような生産性は「ネットワーク外部性」によって向上する。(ファンコミュニティなどの)ネットワークに接続されて初めて、個の利益が表れてくるからだ。わたしは、消費者の生産活動は、資本に一方的に提供されるコンテンツに対する“民主化運動”といったほうが近いと考えている。消費者の生産性の本当の目的は、商品やサービスの目的や意味を企業から奪いとることなのではないだろうか?

ともあれ、トフラーのいう市場経済を介さない「隠れた経済活動」、フィスクのいう「影の文化経済」こそ、インターネットによって増幅され可視化が加速しているものだ。これまで隠蔽されていたファンの経済活動、文化的生産活動の動向を、いかにマネタイズするかを各業界が模索しはじめているなか、この2つの消費者の活動が現在もっとも明確に表れ成功しているコンテンツは、AKBやももクロを代表とするアイドルの市場(もっといえばオタク市場)に溢れている。

『ももクロ論』で詳細にふれたが、ももクロの楽曲やダンス、ステージ演出にはさまざまなジャンル、文化層のコンテキストが無作為(ハイブリッドではなく、ブリコラージュに)に流入している。わたしは、それがクラスターを越えてファンを拡大した理由と分析した。さまざまなクラスターに紐づいているコンテキストが、ファンの生産性を刺激したからだ。それまではレイドバックした趣味に耽溺していた、いい歳をしたオヤジどもが、10代のアイドルを「自分ごと化」した原因は、ここにこそあるのだろう。ロックファンはロックの文脈で彼女たちを語り、プロレスファンはその文脈で彼女たちを語るといったかたちで、『ももクロ論』の言葉でいえばポリフォニックな「言明的生産性」が増幅していったのだ。

重要なのは、ももクロの運営側に当初、そうした「自分ごと化」させる戦略めいたものが見えなかったことだ。クローズされた(あるいは無計画な)コンテンツのリリースが、かえってサスペンスを提供することになり、解読すべき対象としてアイドルを浮上させたわけだ。『ももクロ論』では否定的に述べたのだが、それがヒッチコックのいう「マクガフィン」として機能したことは否めないだろう。

解読を促すサスペンスに対し、ファンはゲームに参加するようにコンテンツに没入していった。わたしは、ももクロに遭遇して以降、フェイスブックに繰り返し、彼女たちの楽曲や演出について、ロックの文脈をふまえたコメントを投稿していた。それが、共著者である清家竜介氏をはじめ、数名の同世代のロックファンを「モノノフ」にする結果となった(ファンクラブに入ったり、先日の国立競技場のライブに“参戦”したりと、それまでの彼らのことを知る者には、悪い病気にかかったようにさえ見える。わたしも、そう見られているだろうが……)。

地下化したアイドルを知らず、それを巨大資本のものであると誤解してきたロートル・ロックファンは、インディー系パンクバンドのように解放と解体を体現するアイドルとして、ももクロを認識したともいえるだろう。資本ではなく、大衆のものであるアイドルとして再発見したのだ。

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