パサージュからネットへ〜資本主義の構造転換と消費社会の変容 第3回

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清家竜介

 

 

あたかも第2次世界大戦前夜を想起されるかのような、時代のうねりが見え隠れする2014年――。

果たして、高度に発達した資本主義社会が世界を歪ませているのか?

そして、この情報通信技術の発達は、古い社会を排除しようとしているのだろうか?

それともまったく新しい社会を準備している途上なのだろうか?

その途上ゆえに、さまざま軋みが世界各地の生じているのか?

ヴァルター・ベンヤミンのメディア論から、消費社会の変容を論じる。

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ポスト・フォーディズムの進展とIT革命による消費社会の機能不全

 

ポスト・フォーディズムは、多品種少量生産によって利潤を得ようとするだけではなく、安い労働力を求め生産過程を国内外へとアウトソーシング化することからも利潤を得ようとする。

ポスト・フォーディズムは、商品の生産過程と労働編成を三分割する傾向にある。一つは、「構想作業」とそれを担う中核労働者であり、次に「熟練を要する製造業」とそれを担う熟練労働者、最後に「単純労働による組み立て作業」とそれを担う単純労働者である。その中でも、三番目の単純労働は、急速にアウトソーシング化される。単純労働は、熟練を必要としないため安価な労働力を求めて発展途上国へと向かうのだ。

さらに商品開発などの構想作業を担う、正規雇用の中核労働者の数を削減するとともに、それをサポートする労働者を有期雇用や派遣労働へと切り替えていく。この正規雇用の削減によって、多くの企業は、健康保険や年金などの労働者への利益供与の義務を回避し、人件費を抑制する。

このような傾向によって、先進諸国の国内では「リストラ」という名の労働組織のダウンサイジングが行われていく。国内の産業を空洞化させていく先進諸国は、国内の労働者達の賃金を大幅に減らすことで、大量の低所得者層と失業者を抱えこんでしまうことになる。

このような傾向を新たな技術革新であるIT革命が強化する。IT革命によるコミュニケーションの合理化は、国内外の情報伝達と情報管理を容易にすることで、中間管理職層の役割を低減させ、通信費や労働力の大幅なコストカットを可能にした。

皮肉なことであるがポスト・フォーディズムのテクノロジーとそれを強化するIT革命は、多品種少量生産によって消費社会を彩った商品群を買い取っていた中心的な消費者であった中間層を没落させる。

ポスト・フォーディズムと連動した新自由主義というイデオロギーは、共同責任という観念を弱体化させて、人々の自己責任を強調する。赤字財政の肥大化の影響も当然あるが、新自由主義の言説は、多くの先進諸国における税の再配分機能を低下させていった。

その結果、中間層の厚みは、少数の高額所得者層と大多数の低所得者層という二つの極に融解していくことになる。これによって広告業によって牽引された記号消費をもっぱらとした消費社会が機能不全を起こすことになる。というのも消費者の購買力の変化にともない、消費の在り方も二極化していくからだ。大衆消費社会を彩ったバブル期の記号消費の勢いは陰を潜め、高額所得者向けの商品と低所得者向けの商品へと市場が分断されていく。例えば我が国で自動車の販売が不調なのは、単純に多くの消費者の購買力が低下したからだ。

その結果、消費社会を駆動させるスノビズムは、所得階層の分断により有効に機能しえなくなる。中間層の厚みがあってこそ、流行の先行者や卓越者を模倣しようとするスノッブな欲望が十全に機能する。しかしながら中間層の衰退は、消費社会を彩ったスノッブな欲望の機能を低下させる。

このようにポスト・フォーディズムを強化するIT革命は、中間層を切り崩すことで社会的分断を生じさせ、消費社会の機能不全をもたらす。けれどもIT革命は、消費社会とは別の社会的可能性を押し開く。それは、〈共(コモン)〉の次元の拡大にほかならない。

<共(コモン)>と遊戯空間の拡大

 

アントニオ・ネグリによれば、〈共(コモン)〉とは、稀少性にもとづき私的所有される物財の商品とは異なった、万人にアクセス可能な資源の領域である。例えば、自然は、本来〈共(コモン)〉である。ジョン・ロック以降、私的所有の論理に覆われてしまってはいるが、土地、大気、水などの自然は、本来人間の労働によって作り出されたものではない。近代社会は、自然を人間の所有物であるとしてきたが、それらは本来私的所有に馴染むものではない。前近代的所有においては、自然の大部分は、人々の共有地や入会地として共同使用されてきたが、商品経済の浸透によって、それらも私有財と見なされるようになった。

ネグリが指摘するもう一つの〈共(コモン)〉は、言語、知識、アイデアなどの非物質的財である。我々は、実際にそれらの非物質的な富を共有することによって、他者とのコミュニケーションを遂行し、集団的な生活を豊かにしてきた。

これまで知識などの伝達は、書物などの物財を通して行われてきたため近代経済の稀少性の論理に囚われてきた。けれどもIT技術の革命によってデジタルコードに還元され、物質の重みから解放された様々な非物質的財は、複製可能性を無尽蔵に高めている。オンライン上にデジタル化された情報(活字、音楽、映像など)は、近代経済の稀少性ではなく、デジタル技術による複製がもたらす過剰性の論理に浸されている。

無尽蔵な複製可能性に浸された電子的〈共有地(コモンズ)〉は、物財の稀少性に基づいた価格メカニズムではなく、複製可能性を制限することで稀少性を演出しなければ、貨幣へと転じる商品の論理の内に回収できない。

IT革命によってもたらされた非物質的な電子的〈共有地(コモンズ)〉という資源の領域は、これまでの稀少性の論理に囚われた商品経済の論理を脅かしている。IT技術のコストダウンによって、この〈共(コモン)〉の次元は、急速に拡大している。この複製技術のユートピアである電子的〈共有地(コモンズ)〉は、ベンヤミンのいうところの「第二の技術」の現代的な現れに他なるまい。

インターネットによって媒介されデジタル化された電子的〈共有地(コモンズ)〉は、生産と消費の結びつきを必要性ではなく、限りなく遊戯に近づけていく。例えば、ネットに没入するオタク、ニート、引きこもり達は、貴重な時間を浪費してまで、非物質的な労働を行い〈共(コモン)〉の次元へと無償の贈与を行っている。彼らを新たな過剰性の社会の住人であると考えられないだろうか。

電子的〈共有地(コモンズ)〉へ注ぎこまれる無償の非物質的労働は、ベンヤミンが論じた「遊戯」そのものではないだろうか。そのような遊戯の成果である知的情報は、デジタルコードに還元された原理的に無尽蔵の複製可能性を持つとともに、ネットワークの中で蓄積されアーカイブ化される。電子的〈共有地(コモンズ)〉では過剰性の経済が生じているのだ。

近年のIT技術の革命は、ベンヤミンが論じた遊戯空間の拡大だけでなく、ネットユーザーの自己認識をも強化している。デジタル技術が浸透する以前、新聞、映画、TV放送などのメディアは、巨大資本によって占有される傾向にあった。低コスト化していくIT技術によって、資本に囲われた専業の記者だけでなく、誰もがジャーナリストとなり自らが出版・報道などの活動が行える段階にある。例えば、中東のアラブの春のきっかけとなった、チュニジアのモハメド・ブアジジの死の抗議は、いとこのアリ・ブアジジの携帯電話の動画撮影機能によって撮影され、Facebook に投稿された。

IT革命は、情報戦における貧者の武器を提供している。電子メディアにおけるIT革命とその基礎にあるデジタル化という複製技術は、もはや巨大な資本を有する特権者が占有し享受しうるものではない。

このようにインターネットに媒介された電子的〈共有地(コモンズ)〉は、それまでの物財に基づいた圧倒的な富の非対称性を水平化していく力を持つ。私的所有に馴染んできた我々の集団的知覚は、急速に変貌する時代の潮流に洗われているのだ。

この変革の時代で気をつけねばならぬことは、ベンヤミンの指摘した「技術の叛乱」であろう。ベンヤミンによれば「生産力の自然な利用が所有の秩序によって邪魔されると、増大する一方の技術的補助手段や、テンポや、動力源は、不自然な利用に駆り立てられてゆく」。その結果、「技術は、その要求に対して社会が自然な資源をあてがわなかったために、叛乱を起こし、いわゆる人的資源を取り立てる」のだ。ベンヤミンの時代には、「技術の叛乱」は、大恐慌とそれに続く世界大戦を引き起こした。

現代のメディア革命によってもたらされた電子的〈共有地(コモンズ)〉を、特権者に壟断されるのではなく、圧倒的多数の人々が享受するためには、「第二の技術が開拓した新しい生産力に、人類の心性がまずすっかり適応することが先決問題」となろう。

IT技術の革新は、フォーディズムとポスト・フォーディズムの基盤である流れ式の単純作業の領域でオートメーション化とロボット化を高度かつ安価なものへと劇的に転換させている。IT技術によって強化された生産ラインは、単純生産を行う未熟練な労働者の力さえも急速に必要としなくなっている。物質生産の技術も、人間の労働力を極力必要としない「第二の技術」と化しつつあるのだ。我々は、資本主義がもたらしたフォーディズムとポスト・フォーディズムに由来する生産性の過剰をもてあましている。

実のところ我々は、物質的財における生産性の過剰とデジタル化した複製技術による非物質的富の過剰にまだ十分に馴染んでいない。遊戯空間と結びついた「第二の技術」を社会的に使いこなせていないのだ。

だが我々の知覚が新たなテクノロジーに馴れはじめている兆候は存在する。書籍のタイトルにもなっているが「フリー」「シェア」「パブリック」などの観念が、実際に大きな社会的求心力を持ち始めている。それは窮乏化時代における集団の知恵から来るだけでなく、我々の集団的知覚が、インターネットに媒介されることでユートピア的な電子的〈共有地(コモンズ)〉に接続したことと深く結びついている。

ネグリが主張するように、IT革命によって変貌する社会は、ジョン・ロック以降に支配的になった近代的な「私的所有」の観念に牽引されてきた経済社会を大きく変貌させるであろう。けれどもその変貌を肯定的なものに転じるチャンスを捉えるためにも、ベンヤミンが言うように、まず私達は、ニューメディアによってもたらされる新たな集団的知覚を「触覚的受容=慣れ」によって鍛え上げていかねばならない。