空想科学対談2025年のIT批評④ 『ゲーミフィケーション』が言われなくなる世界で

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井上明人

 

登場人物

池上 梓(53) 1972年生まれ、専門は情報社会学。慶早大学客員教授。著書に『リアリティの権利とテクノロジー』(2020)、『〈わたしの世界〉はいかにあるべきか』(2021)。コメンテーターとしてTVなどでも活躍する。

 

牛邊芳紀(28) 1997年生まれ、ウェブクリエイター/RTTデザイナー。多数のゲーミフィケーション/RTTの設計に関わる第一人者。2013年麻布高校在学中に『最もエキセントリックな高校生』としてメディアで紹介されたのをきっかけに各方面で活躍をはじめる。

■民族差別をする人間も『自分のリアリティは自分で決める』べきなのか?

 

池上「もう一つ、クラウドワーキングだとか、自律学習型などを支援するさまざまなRTTが普及したことによって、よく提起される問題として、『それで、本当に人々は幸せになったのだろうか』ということがよく言われる。

最も、よく引き合いに出されるのはいわゆる『やりがい搾取』問題。働いている本人は楽しいらしいのだけれども、どう見ても明らかにオーバーワーク。残業代不払い。実質時給が、500円にも満たなくなってしまうような働かせ方をアルバイトの人たちにやらせてしまうサービス業が跡を絶たないわけだ。そういうものをどう考えればいいのか、ということです」

牛邊「この問題の難しさは自分のコミットしたいリアリティの状態を『いつ、決めるのか』ということですね。

RTT事業者が、利用者に『同意』をとる形で展開できるサービスもあれば、『同意』をとらないことによって、はじめてリアリティを変えることができるという部分もある。タネ明かしされるとハマれない、というわけですよ」

――それは、昔、よく言われていたステルス・マーケティング。いわゆる『ステマ』の問題とも関わりそうですね。

牛邊「ああ、はい。そうですね。味噌もクソも全部いっしょにして『ステマと同じじゃねーか』とか言ってくる人はいますね。確かに、地続きではあるから、こそややこしい」

池上「そこを区別する完全な方法はないけど、2025年から、10個のRTTガイドラインのうちの半分を満たすサービスでは、RTTロゴマークの表示が義務付けられ、8個以上を満たす場合には、サービス利用最初の時点から、3日以内に明確にユーザーへのアグリーメントをさせることが京都府条例では、義務付けられることになった。広告やマーケティングなどの事業者からは、評判の悪い条例だけど、いずれにせよ、なんらかの対応は必要になってくるね」

牛邊「現場の人間が一番気をつけるのは、ステマよりも、退出可能性の問題ですね。『ステマ』どうこうというのは、個人的にはそんな心配してません。炎上リスクは気にしますけど、あくまで炎上リスクだけ。

RTTが強制力をもたないかどうか。特にネガティヴな強制力。たとえば、『田中くんも、大変かもしれないけれど、みんなで頑張って目標を達成しようよ! やればできるよ!』みたいな声かけとかは、すごく危険なんです。相手のリアリティを変えたいという気持ちはわかるけど、単なる無理強いと変わらなくなってしまうことがすごく多い。一番幼稚なリアリティチューニングで、こういうものをなくすためにこそRTTやゲーミフィケーションの話は出てきてるんです。でも、社内システムとしてバッジだとか、競争的な要素のある制度を導入すると、すぐに、こういう『みんながんばれ! イケイケドンドン!』みたいなことを加速させたいだけのシステムだと勘違いされて、最悪の運用をされてしまうことが、よくあります。本人が無理って言っても、強引にゲームに参加させるようなことをして、結果フリーターの若者が過労や、鬱が原因で死亡するということが数年に1回は起こってしまっています。これは可能な限り防がなければなりません。無理強いじゃなくて、ステルスにやる気を起こさせることができてたら、立派なもんですよ。『やれば、できる!』という気持ちにさせるのは重要だけど、他人に言われてなるもんじゃない」

池上「退出可能性には確か、強い退出可能性と、弱い退出可能性というようなランク付けもあるよね?」

牛邊「さすが、よく御存知ですね。RTT協会のガイドラインでいろいろ細かく計算式があるんですね。

たとえば市場価値の低い貧乏人にとっての『職場』は退出可能性が低い。その職場をやめたら、即ホームレスですからね。ただ、ハーバード卒の金持ちにとっては『職場』の退出可能性は中程度です。その場で、給与をゲームとかのネタに使うっていうのは、原則NGなんですが、スーパーエリートしかいないような職場だと、やりようによってはOKだったりします。まあ、でもスーパーエリートしかいないと思っていた職場でやったら、そうじゃない人が混じっててダメになったりもするので原則NGです。

あと、まあ自由というのは複合的概念ですから、経済的自由以外にも、家族だとか、宗教だとか、婚姻関係とか、そういった話も混ぜ込みながら、退出可能性が強い状況か、弱い状況かを複合的に判断したうえで、RTTは設計しましょうということになってます。特に逃げられない場所で、強制力や圧力を感じるようなものはやめましょう、と。

あと給与を絡めると、説得性や納得性がものすごく強いものを作らないといけないから、正直、取り組みの難易度がすごくあがります」

池上「既にいろいろな対応がなされている、ということだ」

牛邊「そうです。しかし、先ほどの『いつ決めるのか』という本質的な問題はやはり残ってしまうんです。

たとえば、依存症はどう考えればいいのか、という議論がありますね。たとえば、私が15歳の時に自分の意志でオンラインゲームにハマりまくってた時期がありました。サーバー最強ギルドのリーダーとかをやっていい気になっていたのですが、ただ、まあ、学校行くと眠いので、成績はだだ下がりするわ、彼女には振られるわ、親にはキレられるわ、で、まあ散々でした。まあ、私のなかにはある種の満足感もありましたけれども、DSM -Vの基準だと、依存状態だということになりました。

まあ、昔の私みたいに完全に依存的なハマり方をしてしまって生活に大きな支障が出るというようなケースが沢山ありますね。特にソーシャルメディアを使ったサービスでは、MMORPGの頃から、依存が問題になっていましたし、統計的にも『中毒』者、および『病的な中毒者』の診断項目を満たすようなユーザーが数%〜数十%ぐらいの割合で出てしまうサービスは少なくない。」

池上「その問題は大きい。『自分の意志で選んだから問題ないんだ』という反論があっても、『自分の意志』自体のありようが、RTTやゲームに参加することによって変質してしまうということだからね。『自分の意志』で責任を負うという倫理体系でものを考えようと思うと、限界が来てしまうタイプの状況なんだから」

牛邊「おや、意外ですね。池上さんは、そこであくまで『自分が状況をコントロールすること』を主張されていらっしゃると思っていたのですが――。」

池上「そこはちょっと、誤解があるんだけど『自分で状況をコントロールしようと務めること』は支持して、それは『自分の意志』で責任を負うということではないと考えている。

私の提案しているのは、共同コントロール論と言われる立場。たとえば、私は、信頼している親友や妻など、この人たちは最後まで自分の味方でいてくれるだろうという3人の人間に、私がよく使っているパスワードの断片を預けている。それで、もしも私が依存的な状況になって生活に破綻をきたすようなことがあったりした場合、妻と親友が合議のうえで、私の各種のアカウントを一時差止めができるようになっている。

私も『自分の意志』というものは、やはり信じていないんだよ。私という個人のリアリティは、良くも悪くもけっこうコロッと操作されてしまいやすい。自分の意志、自分の責任を引き受けるのだ、意志には自由があるのだ、というような責任論の原則は、基本的には尊重されるべきものだという立場です。しかし、それを拡張して応用しなければ現代的な状況には立ち向かえないというの立場なわけだね。」

牛邊「うーん、やはり池上さんはかなり恵まれた立場の方だと思いますね。『最後まで、この人たちは、自分の味方でいてくれるだろう』という人間が3人もいるだなんて、羨ましい状況ですよ」

池上「それはそうかもしれない。私も、これだけで全てが解決されるとは思っていない。ただし、このような手法でもって解決できる人も少なくないとは思うわけです。

ただ、やはり自分で状況をコントロールする、ということは社会的価値の基礎に据えたいと思う。情報弱者がより自由にものを考える機会を奪われるという格差が議論になっているけど、現代的な自由を担保しようと思ったら、やはり『自分ひとり』ではもう立ち向かえないと思うんだよ。もっと、スマートなやり方もあるのかもしれないけど、個人というものがますます弱くなっていくなかで、対抗法が考えられなければならない」

牛邊「問題意識自体は、同意しますが、現場的な解決法としては、別の仕方を考えますね。ごく具体的に言うと、一つのリアリティにハマってしまった人には、別のリアリティをぶつける、ということです。

たとえば、節電のゲームにハマりすぎて健康に悪影響が出るような人が発生したとしましょう。こういう場合には、ゲームのポイントが加算されるための条件として、本人の健康レベルにプラスになるようなアクションをしてもらわないとゲームが進行しないようにします。まあ、例えば夏の節電で言えば、家のなかの温度を27度前後におさめてもらうことなんかが必須になりますね。30度以上で、ゲームプレイをしていても、ポイントはマイナスになってしまう。

そういう形で、単一のリアリティだけに依存してしまうような状況を生みそうな場合は、複数のリアリティを同時的に考えざるを得ないようなものにしてしまう。それがオーソドックスな解決の仕方ですね。

消費者自身によるコントロールができる場合もあるけれども、環境設計の側でコントロールできる範囲はやはり大きい。それこそがRTTなわけで」

池上「それはよく理解している。RTTの目指すべきものは、単にハマらせることではなく、社会的に望ましい状態にハマらせる、ということが基本綱領だよね。

ただ、『適正さ』が定義されていないケースも世の中には多い。ダイエットであれば、単に痩せることではなく、BMIの適正範囲内で痩せるということが推奨されている。ダイエットの『適正さ』自体が医学的にもある程度の決着が着いているから、どうハマらせればいいのか、がわかるわけだ。

しかし、たとえば『仕事のしすぎ』『勉強のしすぎ』といったものは、どのように『適正さ』を考えればいいのか。適正さを簡単に定義できないものが多い限り、環境設計側でできることには非常に大きな限界がある」

牛邊「それはそうですが、それをどうにかしていくしかないでしょう。事業者としては、可能な限りうまい状態へもっていくことを考えるしかないです」

池上「牛邊くんの努力自体はすばらしいと思います。しかし、『良い状況』の定義をすることは、常に部分的にしか不可能なわけだから、多様な状況に対応していこうとするならば、やはりケースバイケースで、利用者自身がコントロールする一般的手法を構築する必要があると思うけどね」

牛邊「池上さんのおっしゃることは、繰り返しになりますが、問題意識はわかりますし、ご批判もわかりますが、代案そのものがエリート主義的にすぎるんです。

RTTが特に求められているのは、実は低学歴・低収入の層だったりするわけで、児童虐待のあるような、ご家庭の子どもさんの勉強や生活なんかにも使っていただいている。池上さんの発想だと、虐待をするような親に対してパスワードを預けなけりゃいけない。それは無理でしょうと申し上げてるんです」

池上「虐待の疑いがあるような場合は、学校の先生や、その地域の児童相談所のスタッフなどが緊急措置として動けるようにするという手段があるんじゃないかな」

牛邊「それは、地域によっては有効かもしれませんけれども、本当にひどい地域だとどうでしょうね。日本国内はまだしも、南アフリカに展開しているサービスなどでは、中間的な社会コミュニティに期待できないケースが本当に多い。

実を言うと、私が2019年から一番、労力をかけてやってるプロジェクトは企業のブランディングとかじゃなくて、差別問題と民族問題です。黒人差別をする白人のリアリティをどうチューニングするか。戦争後の軍人のリアリティをどうチューニングするか。自己決定は重要だけど、未だに素朴な黒人差別してるような地域で『自己決定』原則だけじゃ無理ですよ。先進国での、外国人差別問題とかだと、比較的効果があがりやすいRTTも教育レベルが低い地域でやっても、かなり効果が出にくいし、素朴な民族紛争地域にやってる地域のみなさんの『自己コントロール』って何なんですかね、と」

池上「それは、そうだろうけど、それは社会の側を、うまく機能する状態へと変えていくしかないんじゃない? RTT側で全て解決しようという問題ではない」

牛邊「なるほど。池上先生の立場としてはそれで結構なんでしょう。一般論としては賛同します。ただ、事業者の立場としては、それは何の問題解決でもないご意見ですね。残念ながら。スピヴァクの『サバルタンは語ることができるのか』みたいな批判にも、答えられない」

――サバルタンというのは、要するに他人が代弁して語ることが難しいタイプの話というのがある、ということですね。

池上「確かに、自殺志願者の『自己のリアリティの権利』をどう考えるか、みたいな話は難しい問題をはらんでいる。しかし、それは社会的な価値の議論としてまずあるべきだと思うんだよね。

事業者としての責任の臨界点が、社会的にどこまであるのか、ということを定義すればいい。社会の責任は社会の責任で持ちましょう。個人の責任は、個人の責任で持ちましょう。私が本で今まで書いてきたのは、RTTに関わる個人の責任と、社会の責任がそれぞれあって、それをきちんとみんなが責任範囲を認識しましょう、と。そうじゃないと、議論がすすみませんよ、ということなんだよ」

牛邊「なるほど。わかりました。池上先生の本がもっと売れればいいわけですね。そうすれば、私もRTT事業者は社会的責任を放棄した守銭奴だとか、プロパガンダ事業者だとかなんだとか、言われないで済む」

池上「いや、売れなくてもいいが、政策決定や、世論に反映されるようになれば、牛邊くんの議論に実践的に応答できるのではないかと思う」

牛邊「では、そうなるまでは、同意できませんね。

ちなみに、私はもう、外国人差別をやってる連中に『プロパガンダ事業者』と言われるのは、しょうがないというか、実際、それでいいと思ってます。私は、明確に、ネット右翼の連中の自己リアリティのコントロール権なんかは保護しようと思ってないです。

私の敵……というか、ネット右翼のなかにも、RTTデザインのセンスのいい奴もいるんです。だから、現代は、リアルの戦争に変わって、RTTによる闘争をする社会にシフトしたんだ、というのが私の認識ですよ。鋭い議論をする奴なんかより、面白いゲームつくる奴のほうが、手強いアジテーターなんですよ」

池上「確かに、その側面はある。『この考え方はどうだろう』ということが、旧来は『論争』で決まっていたわけですが、いまや身体に訴えかけて『この感覚で考えるのはどうだろうか』というタイプの説得こそが、イデオロギー闘争の主領域にはなってるね。しかし、闘争のリアリティだけで全てを捉えてしまうべきだろうか。イデオロギーにかかわらないゲームへの依存などは、切り分けていいはずじゃないだろうか」

牛邊「確かに、闘争のリアリティが全てだ、とは言いませんよ。『闘争しかない』というのはちょっと言い方が悪かったです。すみません。ただ、かつては、反省的な知性の領域が担っていた領域が、身体的な知性の戦いとなれば、必然的に、身体的な戦いと、反省的な知性による戦いの境界は曖昧な形にならざるをえないわけですよ。だからこそ、闘争のリアリティが合理的な範囲と、そうでないものの切り分けを、クリアに提示してほしいですね。繰り返しになりますが、池上先生の問題意識は理解してます。ただ、解決策に同意できないというか、弱すぎます」

池上「その批判はわかった。もっと、具体的なアクションと連結させていくための方法を、ぜひ今後、牛邊くんにも、相談させてください」

 

■リアリティの変化は、世界をどこまで幸せにするか

 

池上「今までの話をまとめてみようか。ゲーミフィケーションがRTTという言葉に取って代わられた理由は何か。

一つは、ゲーミフィケーションという言葉が極端に捉えられたことです。『ゲーム』という言葉自体が強いバイアスをもっていた、ということだね。

もう一つは、多様なユーザーデータがとれるようになり、非常に幅のひろいユーザーのリアリティに対応できるようになったこと。技術の連結範囲がかわったということだろうね」

牛邊「そうですね。さらに言うと、もう一つはゲーミフィケーションの頃から言われていたことですが、各種の『現実』と『仮想』を重ね合わせる仕組みの進化という話もあります。ARの技術が、普及レベルにまできたことも大きいです。未だに、完璧にうまく活かしたアプリケーションが出てきていませんが、その萌芽のようなものは出てきています」

池上「さらに、今後、期待される技術分野などはある?」

牛邊「一つは、物語の自動生成だとか、笑いの自動生成だとか、そこらへんに人間の認知処理に関わる情報技術ですね。人間が、ある状況を『物語的だ』と感じる状況というのは、実はけっこう決まっているので、そこに対して情報技術でアプローチする方法が、今までゲームでやられてきたことなんかよりも、実はもっと幅が広く考えられる。

ちなみに、池上さんから、『社会として、RTTに期待されること』ってどういう部分なんですか」

池上「最後の差別問題の話は、すばらしい取り組みだと思った。リアリティをうまく変える技術で、戦争とか、差別とか、労働観とか、世界の不幸な問題の50%ぐらいは解決可能だ、と私は本気で考えてるわけ。正確には、問題の構成が変わるだけという側面もあるだろうけど、それでも世界はトータルで20%ぐらい幸せになると思う」

牛邊「お、評価してもらえたようでよかったです。まあ、問題の構成が変われば、世界のいろいろなもののバランスも変わるわけですからね。そのバランスのハンドリングは難しいですけどね。

私のやりたいことのバランスも極端だと思う人も多いと思いますしね」

池上「……だろうね」

――牛邊先生、池上先生、本日は有意義な議論をありがとうございました。

牛邊「あ、はい。じゃあ、通夜行ってきます。喪主なんで」

※この記事は『IT批評 VOL.3 乱反射するインターネットと消費社会』(2013/3/20)に掲載された記事をもとに構成しています。