空想科学対談2025年のIT批評② 『ゲーミフィケーション』が言われなくなる世界で

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井上明人

 

登場人物

池上 梓(53) 1972年生まれ、専門は情報社会学。慶早大学客員教授。著書に『リアリティの権利とテクノロジー』(2020)、『〈わたしの世界〉はいかにあるべきか』(2021)。コメンテーターとしてTVなどでも活躍する。

牛邊芳紀(28) 1997年生まれ、ウェブクリエイター/RTTデザイナー。多数のゲーミフィケーション/RTTの設計に関わる第一人者。2013年麻布高校在学中に『最もエキセントリックな高校生』としてメディアで紹介されたのをきっかけに各方面で活躍をはじめる。

 

■本から『内容』が完全に消える?〜『読む』ことの変容

 

池上「趣味の社会的分布を調べるような基礎データというのも21世紀前半において大きく変化してきたものの一つだね。このインパクトは見落とされることが多いんだけど、ユーザーの消費動向に関する大量のデータ解析がamazon.comあたりを嚆矢にして広まって行った。この活用先として、単にマーケティングに使いましょうということは当初からやられてきたわけ。それでその後、こうしたマーケティング・データに過ぎなかったものが、サービス自体のデザインと融合していく、という歴史があったんだよね」

牛邊「そうですね。たとえば、先ほど、ちょっと語気をあらげてしまった時に、何にこだわったのかということを改めて申し上げますが、もちろん、我々のこの対談は、ソーシャルリーディングによって、読者にチューニングされるであろうことを前提としているわけですよ。読者は、どういうタイプの資料であろうと、自分に似た読者クラスターの人々がどのポイントに着目しながら読んだかということをアイ・トラッキング・データの集積をもとに自動的にわかるようになっているわけです。

確かに、この方式によって、読者は自分のリアリティに近い人の興味関心だけを前提にしてモノを読むということが非常に容易になりました。時間のない時に読むべきポイントの優先順位が明瞭にわかる。だからこそ、情報を『編集する』という編集者の役割が非常に後退して、情報はただ単に大量にあればよくて、『編集者』は、ただの事務作業に限りなく近くなった出版社、編集プロダクションも多いです。

この雑誌の編集さんが、それにあたるかどうかは知りませんが」

――申し訳ありません……。

牛邊「それは、編集者の自覚の問題なので、勝手にしてくれればいいです。RTTのデザイナーという点から言わせてもらうと、ソーシャル・リーディングに甘えている人は、ソーシャル・リーディングによって成立する『自動編集』のリアリティがどういった偏りをもっているか、ということにおそらく興味がないんですね。『自動編集』は、非常にいろいろなクセがあるわけです。ごく単純なところから言うと、馬鹿にもわかるようなところが、最初に読まれる。で、そこに注目が集まるわけですよ」

池上「それははてなブックマークなどの、オンラインブックマークが隆盛してきた頃からある問題だよね」

牛邊「そうです。それが全面化したのが、この20年です。たとえば、20世紀の文章術として一番初心者に対してよく言われたのが、『短文で句切れ』ということでした」

池上「それは私も、その教育を受けた世代です。『君の文章はわかりにくい。短文で句切れ』と。短文信仰とも言われますが、私の世代の書き手はみな短文主義かな。30字〜50文字でセンテンスは区切るようにしてしまうし」

牛邊「なんで、そう言われたのかというと、短文は、ごく単純な文章構造だから、何も考えずに書いても、馬鹿にもわかりやすい言い切りになりやすかったわけです。『AはBなんだ』という言い切りの情報のわかりやすさがある。あと、パワーポイントみたいなもんがあって、センテンス間の関係がいい加減でもいいからラクなんです。他にも色々と短文のもつ構造的な強みはありますが、要するにそういうことです。

一方で、長文をうまく書くのは技巧がいる部分もありますが、情報の階層付けや、述語間の関係付けなどをするには長文のほうが有利です。

なので、文の構成ということをきちんと考えれば、短文と長文の使い所をきちんと調整しながらやっていく、ということが文章テクニックとしてはまっとうなわけです」

池上「おおむね、言いたいことはわかる」

牛邊「で、私はアイトラッキングでのソーシャル・リーディングが出てきたときに、長文の価値が再評価されるか、と思っていたのですが、必ずしもそうとはならなかった。これは、完全にユーザークラスターによる差が出てしまいました。学術書なんかだと、長文がそこそこに地位を再獲得できましたが、テンションの高い自己啓発書みたいなものだと、もう完全に短文の部分がごりごりフィーチャーされてきたわけです。もう相田みつをテキストの大量生産状態ですよね。ソーシャル・リーディングでの重要箇所を読むだけだと、アフォリズム集を読むことと、体験的には酷似してきている。

そういう相田みつを系の読者層を相手に文を書くと何が起こるかというと、書き手が思った以上に短文の部分ばかりがフィーチャーされる。しっかりと長文に主張を込めても、いつの間にか短文だけが抜き出されたアフォリズム集に変換されてしまう。だから、重要な主張を長文ですると危ういわけです。読み飛ばされて、なかったことにされるから、重要な主張は戦略的順序で、短文の

なかに配置して行かないといけなくなる」

池上「それは意外かも。牛邊くんの本は、長文がけっこう多いという印象があるけど……」

牛邊「それは池上さんの、読書経験にあわせて自動で調整してるんです。私の本のうちの5%ぐらいの重要な主張部分は4パターンほどバリエーションを用意しています。読み手によってテキストの内容が自動で切り替わります。

たとえば、池上さんが60文字ぐらいのセンテンスに注目しやすい人であれば、私の本はやや長文が多めに見えているはずです。

昔は、本の前書きや第一章での視線移動のクセをもとにして、その後の文章を組み替えていましたが、最近はkindleAPI で、読者の性質データと直接連動できるようになったので、前書きからして池上さんが読んでいるものと、啓発本好きの読者が読んでいるものとは違うものになってます」

池上「私の本では、あまりやらないけど、確かに編集者から提案されたことはあった。でも、私は牛邊くんの本をある意味では、未だに『読破していない』ともいえるわけだよね」

牛邊「読破していないけれども、体験はなさってる。『本』のイメージそのものが、この10年間にRTTで大きく変わりましたからね。私の本は、売行きを気にしているビジネス書なので、開発予算も少し多めにかかっています」

池上「そういう手法があることは知っていましたが、私は一応学術の人間なので、『引用』ができないと困る。引用すべき文に同一性が担保されていたほうがいい」

牛邊「人文科学に近い分野で仕事をされているとそうでしょうね。それはよくわかります。ただ、『作品の同一性』という概念自体が21世紀末から崩れているのは間違いないですよ」

池上「そうだね。特に、それはウェブの人間が担ったわけで。ゼロ年代にGoogle などがABテストをどんどんやりはじめて、2010年ぐらいから、我々はほとんど『同じGoogle』をみていない可能性がある。常に数パターンのウェブデザインが存在していて、常にデータ上の比較がなされている。ユーザーの動きが意図した形でよりきちんと動いたパターンのほうにどんどんとページが変化している、進化する生物のようなものになってきた」

牛邊「予算のあるサービスであればあるほど、そういうことが今は当然になっていますね。例えば、昨年のベストセラーである『ネオ・キュレーショレーション』なんかだと、読者が実際に読む文字数は10万字程度ですが、実際に用意されている文字数は500万字ぐらいあるわけです。主張はほとんど同じだけれども、読み手に応じて、文の形式は違うし、章の順番も変わっています。

単語の選択も当然違います。途中で、読者が選択をするシーンもあって、ある意味では、昔からコンピュータ・ゲームではよくあった『ノベルゲーム』の形式と近い状態になっている。

ただし、ノベルゲームだと選択によって内容そのものが変化しますが、一般書の場合はあくまでセンテンスの長さや章構造が変化するところまでしか許されていません。主張内容自体が変化してしまうものについては、書籍としてISBN コードを発行すべきではないという規定がつくようになりました。ゲームブックはノベルゲーム扱いでJANコードはつくけど、2023年以後のものは、電子書籍版にはISBNコードがつかなくなりました。」

池上「『本』と『ゲーム』の境界を、制度的に定めておかないとダメな時代になっている、というのは面白い事態だと思う。主張内容自体に変化があるものは、『本』ではない、という規定があるけど、その内容判断はさすがに自動判定は難しい。自然言語処理は、この数十年でもっとも大きな発展をした分野の一つではあっても、『自動要約』は、米国流のテクニカルライティングをしている本でないと、有効性が低いからね。だから、結局、内容の同一性は著者の主張によって担保しているだけなんだね」

牛邊「『内容』っていう概念自体が、私がモノを作るときにはほとんどないですよ。『どういう内容のものを作りましょうか』ではなくて、『最終的にユーザーに何を体験させたいか』しかない。だから、さっき、最終的にこの対談の出口をどうするか、ということを聞いたわけです。内容といわれる部分は、出口に至るための道を何パターンにも設計しておくことで、我々の仕事は庭師とか、ゲーム開発者に限りなく近い。庭のどこを歩いても、キレイに見えるようにしておく、という発想はあるけれども、庭のパーツ自体は常に手入れ可能で、入れ替え前提のモノなんです」

■『葬式』に集まる必要なんてない

 

池上「そろそろ、牛邊くんのお父様の通夜の時間を気にしたほうがいいんじゃない」

牛邊「いえ、だからですね。大丈夫だと先ほどから申し上げているのもですね。父の葬式、これも、要するにRTTでもって、もう、たぶん、池上さんにご心配していただているような昔の葬式とはちょっと別のものになってるんです。

2020年ぐらいからはじまったやり方なんですが、うちの父が生前に自分で遺言に残してまして、けっこう独自のやり方で葬式をやりたい、と。親戚のなかにももちろん驚いている人もいるんですが……」

池上「どういう形式なの」

牛邊「具体的に言うとですね、葬式の機能とは何か、ということを考えていただきたいのですが、『死者を供養する』という言い方がされるわけですが、実際にはこれには『死者』本人のためのイベントというよりは、『今まだ生きている死者の友人・知人・親戚が満足するためのイベント』なんですね。

で、あの、なんていうですかね、昔の日本の葬式って素人がわざとらしくクサい追悼文とかよく読み上げるじゃないですか。あれ、一部の人にとっては、馬鹿にしてんのかっていう、逆効果でしかない。葬儀屋さんも、妙にクサい所作になれてる人間がたたらと多かった。あれが耐えられない。特にうちの父は、非常にそれが辛かったらしい」

池上「なるほど。確かにそういう方はいるだろうね」

牛邊「で、うちの父の葬儀はどういうことになっているかというと、通夜とか本葬は、最低限の希望者だけ出席してもらって非常に小規模にとり行います。一応、USTREAM と、ニコニコ生中継では中継します。

で、葬儀のコアとなるのは、各個人の父の思い出についての語ってもらう部分のビデオ撮影なんですね。葬儀希望参加者には、決まった日時に葬儀社に来てもらって、1時間〜2時間ほど、故人の思い出を語ってもらう。その部分をビデオ撮影するんですね。

思い出を語ってもらう過程そのものが、死者に対するさまざまな思いを発散させる禊になるわけです。どうしても来られない人は、Skype 経由で話してもらいます」

池上「なるほど、昔の京都あたりでは、実際にそれに近い葬儀はやっていたようだね。1日、2日集まって通夜、本葬とやるのではなくて、数週間かけて故人の思い出を親族の人と語っていくことで、故人への思いを昇華していく」

牛邊「そうですね。確かに、ベースはそこからとってきました。

ただ、変わっているのはそこから先で、いろいろな人に語ってもらった思い出を、ドキュメンタリー作家に編集して15分ぐらいのビデオにしてもらうんですね。そして、それを故人の希望次第でYoutube にアップする。

で、うちの父は、実はこのドキュメンタリー作家を、アマチュアから5人、プロから3人ぐらい、生前から目星をつけた人を別途に雇っていて、合計で別々の編集がなされたビデオが8本『お前ら、Youtube で、10万再生を狙え!』と。『死後、半年でもっとも再生数が多かった奴には、報酬を倍やろう!』と言っているんですね。

まあ、言ってみれば、自分の死を使ったRTTですが……」

池上「宗教的にはどういうことになってるの? 一般的な仏教のお寺さんのほうで、それは対応可能なの?」

牛邊「そこはですね、葬儀社のほうで、葬儀をカスタマイズできるように宗教を立ちあげてるところがあるんです。葬式のためにわざわざ宗教を作ってしまってるんです。一部の無宗教の人間にとっては、宗教の機能なんて葬式とか、あと数えるぐらいしかないわけで、葬儀にまつわる部分だけなんとかなればいい。うちの父はそういう人間だったので」

池上「ちなみに、ご親族からの反発はなかった?」

牛邊「まぁ、それは親族からしたら、『死』というまさしく一回しかないものを使って、ゲームみたいなことを仕掛けるわけですから、詳しく聞いたら、よく思わない人もいますよね。でも、まあドキュメンタリー作家へのゲーム設計の部分を抜きにしたら、単に故人の思い出に関するビデオがパブリックにさせるというだけですから。まあ、あとウチの父はもともとそういうエキセントリックなタイプだというのは、親族もみんな知ってますんで。父は昔から、『俺が死んだら、葬式なんてどうでもいいから、業績をわかりやすくまとめておいてくれるほうが嬉しい』ということで。そこは実は私も個人的に同意です。あ、ここは、編集のとき、カットでお願いします」

池上「なるほど。故人の思い出に関するクオリティの高い一般資料がきちんとパブリック・ドメインで公開されるというのは、遺族にとっても悪いことではないかもしれないね」

牛邊「そうは言っても、事前準備にはかなり気を使いました。父には、父本人が望んでそういうことをやるんだ、ということを予め親族には確実に伝わるように、生前からちゃんと手を打っておいてくれ、と父にはしつこく言ってありました。たぶん、それは非常に重要です。『不謹慎』と思われたら、このイベントは成立しなくなります。

あと、重要なのは、ここでたとえば親族に対して『ゲーミフィケーション』とか言ったら大変ですよね。『USTREAMと、Youtube とSkype を使って葬式やります』とか言ったらぜんぶ台無しです。『ゲーミフィケーション』と言わないことによって、はじめて成立するゲーミフィケーションって実は、すごく多い。だから、ゲーミフィケーションみたいな考え方は、一般概念としては、わかっておいたほうがいいけれども、現場では、声高に言わないほうがよかったりする。だからこそ、言葉としてはあえて使われてないということも多い。それが『ゲーミフィケーション』という言葉の消えていった理由の一つですね。

個人的感覚だけで言えば、使ってるツールは斬新でも何でもない葬式なんですけどね」

※この記事は『IT批評 VOL.3 乱反射するインターネットと消費社会』(2013/3/20)に掲載された記事をもとに構成しています。