パサージュからネットへ〜資本主義の構造転換と消費社会の変容 第3回

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<共(コモン)>と遊戯空間の拡大

 

アントニオ・ネグリによれば、〈共(コモン)〉とは、稀少性にもとづき私的所有される物財の商品とは異なった、万人にアクセス可能な資源の領域である。例えば、自然は、本来

〈共(コモン)〉である。ジョン・ロック以降、私的所有の論理に覆われてしまってはいるが、土地、大気、水などの自然は、本来人間の労働によって作り出されたものではない。近代社会は、自然を人間の所有物であるとしてきたが、それらは本来私的所有に馴染むものではない。前近代的所有においては、自然の大部分は、人々の共有地や入会地として共同使用されてきたが、商品経済の浸透によって、それらも私有財と見なされるようになった。

ネグリが指摘するもう一つの〈共(コモン)〉は、言語、知識、アイデアなどの非物質的財である。我々は、実際にそれらの非物質的な富を共有することによって、他者とのコミュニケーションを遂行し、集団的な生活を豊かにしてきた。

これまで知識などの伝達は、書物などの物財を通して行われてきたため近代経済の稀少性の論理に囚われてきた。けれどもIT技術の革命によってデジタルコードに還元され、物質の重みから解放された様々な非物質的財は、複製可能性を無尽蔵に高めている。オンライン上にデジタル化された情報(活字、音楽、映像など)は、近代経済の稀少性ではなく、デジタル技術による複製がもたらす過剰性の論理に浸されている。

無尽蔵な複製可能性に浸された電子的〈共有地(コモンズ)〉は、物財の稀少性に基づいた価格メカニズムではなく、複製可能性を制限することで稀少性を演出しなければ、貨幣へと転じる商品の論理の内に回収できない。

IT革命によってもたらされた非物質的な電子的〈共有地(コモンズ)〉という資源の領域は、これまでの稀少性の論理に囚われた商品経済の論理を脅かしている。IT技術のコストダウンによって、この〈共(コモン)〉の次元は、急速に拡大している。この複製技術のユートピアである電子的〈共有地(コモンズ)〉は、ベンヤミンのいうところの「第二の技術」の現代的な現れに他なるまい。

インターネットによって媒介されデジタル化された電子的〈共有地(コモンズ)〉は、生産と消費の結びつきを必要性ではなく、限りなく遊戯に近づけていく。例えば、ネットに没入するオタク、ニート、引きこもり達は、貴重な時間を浪費してまで、非物質的な労働を行い〈共(コモン)〉の次元へと無償の贈与を行っている。彼らを新たな過剰性の社会の住人であると考えられないだろうか。

電子的〈共有地(コモンズ)〉へ注ぎこまれる無償の非物質的労働は、ベンヤミンが論じた「遊戯」そのものではないだろうか。そのような遊戯の成果である知的情報は、デジタルコードに還元された原理的に無尽蔵の複製可能性を持つとともに、ネットワークの中で蓄積されアーカイブ化される。電子的〈共有地(コモンズ)〉では過剰性の経済が生じているのだ。

近年のIT技術の革命は、ベンヤミンが論じた遊戯空間の拡大だけでなく、ネットユーザーの自己認識をも強化している。デジタル技術が浸透する以前、新聞、映画、TV放送などのメディアは、巨大資本によって占有される傾向にあった。低コスト化していくIT技術によって、資本に囲われた専業の記者だけでなく、誰もがジャーナリストとなり自らが出版・報道などの活動が行える段階にある。例えば、中東のアラブの春のきっかけとなった、チュニジアのモハメド・ブアジジの死の抗議は、いとこのアリ・ブアジジの携帯電話の動画撮影機能によって撮影され、Facebook に投稿された。

IT革命は、情報戦における貧者の武器を提供している。電子メディアにおけるIT革命とその基礎にあるデジタル化という複製技術は、もはや巨大な資本を有する特権者が占有し享受しうるものではない。

このようにインターネットに媒介された電子的〈共有地(コモンズ)〉は、それまでの物財に基づいた圧倒的な富の非対称性を水平化していく力を持つ。私的所有に馴染んできた我々の集団的知覚は、急速に変貌する時代の潮流に洗われているのだ。

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