パサージュからネットへ〜資本主義の構造転換と消費社会の変容 第2回

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革命的メディアとしての写真と映画

 

ベンヤミンは、様々な複製技術の中でも、写真こそが「真に革命的な複製手段」であると述べている。オリジナルの唯一性と異なり、複製は、二次性と反復性をもっぱらとするが、その中でも写真は、決定的に人々の知覚を変容させるからだ。

写真は、それまでの宗教画や肖像画のように高価ではない。それは、活字の書物と同じように、大衆の手に届くものであり、実際に大衆を求め、大衆のものとなった。

活字が知的世界のアウラを取り去り、それまでの知的な特権階級を解体し平準化していったように、写真は、絵画や彫刻のオリジナルによって占有されていた美的領域を複写して、誰もが近寄れ、持ち運ぶことができるものに転じてしまう。

さらにオリジナルと異なった複製である写真は、対象のクローズアップや動物の素早い動きなどを瞬時にフィルムに定着させ、人間の目に映らなかった無意識的な領域をも可知的なものにする操作性において優れている。

この写真というメディアによって生み出された芸術作品は、それまでの絵画とは異なった集団的知覚の組織化を行う。美的領域を大衆化させ、さらに無意識の領域を集団的知覚へと組み入れてしまうのだ。

ベンヤミンは、このような写真というメディアによって媒介された知覚の在り方に「平等な社会主義への変化」を読み取る。芸術作品を覆っていたアウラを払拭し、美的領域を大衆化させる写真というメディアが「世界における平等性への感覚」を強化すると考えたのである。すなわち写真というメディアによって、芸術作品が、特権者の権威を維持する儀礼から、社会主義的な政治を推し進めるための機能を持つようになったのである。

さらにベンヤミンは、映画に着目する。映画は、静止した写真のフィルムを連続的に連結させたものである。ただし映画は、様々なシーンを捉えたフィルムをモンタージュして編集することで作り出される。シーンを捉える撮影方法もクローズアップやスローモーションなどを駆使する。それは写真と同様、それまで人々の意識に上ることのなかった視覚的無意識の領域を映し出すことができる。

ベンヤミンは、アウラを葬ったフィルムによって構成される映画が、当然、視覚的な無意識の領域を映し出すとともに、それまで人々を支配しているものに対する洞察を深めると、考えた。映画は、旧来のアウラを召喚してきた魔術的テクノロジーに慣らされた牢獄のような日常世界を、高速度撮影というダイナマイトで爆破する。カメラの前には、視覚的な無意識に浸透された別の空間が広がっているのだ。

映画や写真という複製技術は、大衆の自己認識という正当な階級的関心を強化し、彼らの自己認識を深めるポテンシャルを持つとベンヤミンは考えた。それらのニューメディアは、階級構造を明確化することで、大衆(労働者たち)の階級意識を明晰化するものであると考えたのである。もちろんベンヤミンは、大衆達の自己認識という正当な階級的関心が、資本主義によって腐敗した方向へとそらされるという懸念も表明している。新たなメディアを、労働者階級が奪取するのか、ファシストが奪取するのかそれが重要な政治問題であることをベンヤミンは強調していた。

結局、ベンヤミンが危惧していたように、写真や映画の力は、ベンヤミン達ではなく、ファシストや国家主義者達の手に落ちることで大衆の自己認識を曇らせる。そしてベンヤミンは亡命の旅の途中、スペインで囚われの身となり服毒し自らの命を断った。

アメリカに亡命したホルクハイマーとアドルノは、アメリカの文化産業もまた、美的なものを文化商品へと変えることで、労働者の自己認識を誤らせることを認識した。例えばハリウッドなどの映画産業は、スター崇拝などの気晴らしを提供することで、労働者の不満をも商品生産の回路の中に繰り込んでいた。彼らは、ベンヤミンが期待をかけた映画や写真などの複製技術が、大衆の認識を高めるのではなく、資本主義経済の回路を強化している現実に直面したのである。

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