マルティン・ルターからワエル・ゴニムへ

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グーテンベルグ系の衰退とソーシャルメディアの登場

清家竜介

ソーシャルメディアの登場で「歴史が大きく変わる」という言説が巷にあふれているが、その”歴史”を語ったものにはなかなか出会わない。メディア論の視点でみると、”歴史”を変えうるソーシャルメディアはどういうものか?

新たな波頭の先端で

 映画「ソーシャル・ネットワーク」は、現代という時代を切り取った傑作である。インターネットというオンラインメディアの申し子の一人、マーク・ザッカーバーグは、一見冴えないオタクのような容姿をしている。だがザッカーバーグがパソコンのキーボードを叩き続けることで引き起こした出来事とその変化の速度は、まさに劇的であった。
 親友であり後に彼を訴えることになる共同出資者サベリンやウィンクルヴォス兄弟は、その変化の速度から決定的に遅れていた。ザッカーバーグのヴィジョンとプログラミング技術は、2004年2月にFacebook を誕生させ、その世界的成功に向けて結晶していく。
 2010年12月17日、チュニジア中部の貧しい田舎町シディブジッドで失業中であった26歳のモハメド・ブアジジが、警官から受けた恥辱に抗議するため焼身自殺を図った。焼身自殺を図った痕跡と、死の抗議を受けとめた群衆が役所に詰めかける動画が、素早くFacebookに投稿される。マスメディアは、その出来事を隠蔽すべく取り上げることはなかった。名うてのジャーナリストやマスメディアが映し出した映像ではない。出来事を聞きつけた従兄のアリ・ブアジジが、その手に持っていた携帯電話に付属した動画機能で撮影し、Facebook に投稿したのである。
 その映像は、稲妻のように人々を結び付けていき、全国的な大規模デモとストライキへと発展する。映像によって感化されたコミュニケーションの流れが、チュニジアでジャスミン革命を実現させ、エジプトのムバラク政権を退陣にまで追い込んでいった。その余波は、今もなお続いている。
 中東の激変以前、すでにウィキリークスの存在が世界に衝撃を与えていた。アメリカや他の先進諸国も、ウィキリークスでの情報漏洩にうろたえ、アサンジを重大な犯罪者として扱おうとしていた。わが国でも海上保安官による尖閣衝突ビデオの漏洩問題で経験したように、新たなメディアによる決定的変化が生じていたのだ。
 アメリカや中国のような大国、軍事独裁政権は、このオンライン上のコミュニケーションの流れに恐れおののき、何とか統制しようとしている。なぜなら、これらの情報の流れは、それまでの国家秩序さえ押し流しかねないからだ。
 こうした現象は、旧来のメディア環境がつくり出していた文化や社会秩序が、急速に過去のものになりつつあることを明かしている。かつてマーシャル・マクルーハンが予言した「グローバル・ヴィレッジ」が、インターネットというオンラインメディアを媒介にすることによって、その明確な姿を現しはじめたのだ。ブログ、Facebook、Twitter などのソーシャルメディアは、電子メディアによってもたらされる重大な変動の波頭をなしている。

メディア論の基本思想─身体の拡張としてのメディア

 ソーシャルメディアをメディア論的な観点から捉えるために、まず入門的な意味も込めてメディア論の基本的発想を押さえておこう。
 現代のメディア論の立役者であるマーシャル・マクルーハン(1911〜1980)は、有名な著書の中でメディア論の基本思想を以下のように述べている。
「メディアはメッセージである」
 この一文は、マクルーハンの代名詞とも言うべき有名なものである。その意味は、メディアは、その内容としてのメッセージとは異なった、メディアそれ自体という形式の次元で独自の働きを持っているということである。その働きがどれほどのものかと言えば、以下のとおり。
「すべてのメディアは、われわれのすみからすみまで変えてしまう。それらのメディアは個人的、政治的、美的、心理的、道徳的、倫理的、社会的な出来事のすべてに深く浸透しているから、メディアはわれわれのどんな部分にも触れ、影響を及ぼし、変えてしまう。メディアはマッサージである。こうした環境としてのメディアの作用に関する知識なしには、社会と文化の変動を理解することはできない」
メディアは、日常的な語法では、情報を伝達するための便利な道具として扱われている。しかし、マクルーハンの切り開いたメディア論の発想から考えると、メディアは単なる便利な道具ではない。
 メディアは、主人である人間の目的に奉仕するのではない。メディアは、道具を使用する人々の知覚・行動様式・規範さえも変容させる。その結果、社会や文化をも変容させてしまうほどの影響力を持っている。いわばメディアは、人間の主人にもなりうる存在なのだ。
 では、そもそもメディアとは何だろうか。もちろんマクルーハンは、それに対するシンプルな解答を残している。
「すべてのメディアは人間のいずれかの能力─心的または肉体的能力の拡張である」
 例えば、車輪は足の拡張、本は目の拡張、衣服は皮膚の拡張である、といった具合である。
 ここでは、人間がこしらえた様々なテクノロジーと道具が人間の身体の働きを拡張するメディアとして捉えられている。こうやってみるとマクルーハンのメディア論が、とても大きな射程を持っていることが分かるはずだ。

コミュニケーションを媒介するメディア

 現代のインターネットに代表されるオンライン上の電子メディアは、身体のいかなる部位の働きを拡張するのであろうか。
 マクルーハンによれば、電信・電話・ラジオ・ファックス・TVなどの電子メディアは、人間の「中枢神経系」を拡張するものである。すなわち脳と脊髄を中枢とする神経系を構成するシナプスやニューロン、刺激に反応する感覚細胞と結び付いた視覚や聴覚などの知覚を拡張する。より単純に言えば、思考や感情などの意識過程の拡張である。
 それらの電子メディアは、声や身ぶりという身体に制約されたコミュニケーションの範囲を遥かに飛び越えたかたちで、人々のコミュニケーションを結び付けている。インターネットというメディアもまた、それ以前の電子メディアとは異なった論理で人々の神経系を結び付けている。
 マクルーハンは、「誰が水を発見したのかは知らないが、それは魚でないのは確かだ」と述べている。これは、ある特定のメディア環境(ここでは水)に浸りきった場合、それから距離をとり対象化することが困難になることの指摘である。だからこそ、ソーシャルメディアを生み出した現代の電子メディアの変化を捉えるために、それ以前のメディア環境を理解することで、現代のメディア環境からの視差をつくり出さねばならない。
 身体の条件に制約されたコミュニケーションは、それに対応した文化や社会秩序を生み出す。例えば、文字というメディア以前のメディア環境を考えるならば、声や身ぶりなどを通じて維持される無文字社会とその文化を考えねばなるまい。
 無文字社会では、身体が移動でき、声の届く範囲でコミュニケーションが行われ、それを基礎とした文化と社会秩序が生じていた。そこでは、長老の語りや神話劇の際に口伝えで語られる神話を共有する宗教共同体の秩序がかたちづくられていた。無文字社会の口承文化では、韻律の整えられた詩歌や舞踊などの身体技術が、人々の記憶を留める働きをしていた。
 マクルーハンが指摘するように、文字の発明は、声や身ぶりという身体的制約を超えたコミュニケーションを可能にするものであった。というのも直ぐに消えてしまう音声と異なり、「書かれた文字」は、時間と空間の変化を超えて持続するからである。
 声をメディアにした「話し言葉」は、聴覚に働きかけるものであった。新たなテクノロジーである「書かれた文字」は、いわば目に話しかける。この視覚への働きかけによって、文字は人間の視覚を強化した。だが、それは同時に聴覚を衰退させるものでもあった。
 晩年のマクルーハンと息子のエリックは、メディアが人々に働きかける際の法則を四つの組み合わせを意味する「テトラッド(tetrad)」として表現している。テトラッドとは、「拡張(extension)」「衰退(obsolescence)」「反転(reversal)」「回復(retrieval)」の四つである。
 テトラッドを適用して考えると、文字というメディアを介したコミュニケーションは、視覚を「拡張」すると同時に、「話し言葉」で優位であった聴覚を「衰退」させてしまう。というのも感覚は全体のバランスを保とうとするので、ある知覚が強められると他の部分は弱められ麻痺状態になるからである。テトラッドの残り二つ、「反転」と「回復」については後で触れよう。

グーテンベルク系の形成

 マクルーハンは、『グーテンベルクの銀河系』(1962)でグーテンベルク(1400頃〜1468)の活版印刷術によって形成されてきた文化や社会の在り方を描いた。その在り方こそが急速に過去のものへとなりつつあるメディア環境のパラダイムである。その在り方を象徴的に「グーテンベルク系」と呼んでおこう。
 グーテンベルク以前、紙の製法が伝わっていなかった西洋社会では、書物はとても高価なものであった。例えば聖書は、修道院などの筆写工房で、神への奉仕作業として、高価な羊皮紙などに手書きで写本されていた。時には、一冊の聖書に一つの城の価値があるとされるくらい貴重なものであった。そのような写筆文化によって伝承された知識は、教会や貴族などの独占物であった。
 13世紀以降に西欧社会に徐々に伝達されていった製紙法と、ストラスブルクの印刷工であったグーテンベルクの活版印刷術の発明が結び付くことによって、知の独占が破られる。1450年頃に開発されたグーテンベルクの活版印刷術が、出版資本主義を生み出し、最初の複製された文化商品としての書物を大量生産していくのだ。活字の印刷された書物という文化商品は、近代という時代の基本的枠組みをつくることになる。
 出版資本主義は、知識階級が使用していたラテン語の書籍市場をすぐに飽和させてしまう。ただちに出版資本主義は、それまで使用されていなかった俗語の書籍市場を開拓することによって、さらなる販路をつくり出していった。
 出版資本主義が生み出した最初のベストセラー作家は、革命家マルティン・ルター(1483〜1546)にほかならない。ルターのドイツ語訳聖書は、1522年から1546年の間に430版を数えた。ルターは、大衆的読者を手に入れた最初の作家だったのである。ルターが使った言葉は、その後デファクト・スタンダードとなり、現代ドイツ語の原型となる。そのような国民的作家と活字の印刷された書物が、国語と方言を分かつことになる。
 教会から離れた孤独な読書は、人々の意識過程に内面の広がりを生じさせる。同時に、それは、書かれた文字に対する反省の過程を生じさせることで、自律的な個人が誕生することになる。
 こうして「俗語の活字を読む個人」が、出版資本主義によって生み出される。「俗語の活字を読む個人」は、身体の制約を超えて活字に印刷された出来事を共有する。個人の身体の制約を超えた情報の共有によって、「同時代性」という時間意識が成立する。
 そして、なんといっても新聞というメディアの誕生が、「国民」と「同時代性」という意識を生じさせる重要な鍵であった。
 初期の新聞は、商人向けの商業情報を掲載するものであった。後に、それが国家によって行政目的の官報へと転用される。官報をメディアにした行政府による告知が、それを受け取る公衆を成立させた。
 さらに官報の機能が民間に転用されることによって、公論を扱う新聞というメディアが成立する。国家もまた、軍事活動や経済活動を効率化させるために言語の統一を試みるようになる。
 その結果、国語によって書かれた新聞という文化商品を消費する、「国民」という想像的意識が刷り出されてくる。活字の印刷物の効果によって、近代という時代の枠組みの基礎となる「国民」というアイデンティティが成立したのである。
 さらに1811年にケーニッヒが熱力学を応用した高速輪転機を発明する。その装置は、印刷のスピードを大幅に上げることによって、一夜にして数十万部の新聞の発行を可能にした。その結果、大量の読者を持つ大衆新聞が成立する。このような大衆新聞というマスメディアの誕生によって、国民的イベントを共有する国民意識が強化されるのである。
 エリック・ホブズボウムも指摘するように、19世紀後半から20世紀初頭にかけて国歌や国旗などが制定され、国民的儀礼が整えられていく。このような国民というアイデンティティを成立させるテクノロジーの要に新聞というメディアが君臨していたのである。
 活版印刷術によって刷り出された俗語の書物や新聞という文化商品を消費する「活字人間」こそが、近代文化の骨格をなす国民国家の担い手であったのだ。

電子メディアによるグーテンベルク系からの反転

 このようなグーテンベルク系に住まう「活字人間」の生存様式を変容させたのが、電子メディアの登場であった。
 1844年5月24日に、サミュエル・モールス(1791〜1872)は、ワシントン―ボルティモア間で初めて「電信」の送信に成功する。この日こそが、電子時代の幕開けとなった。
 マクルーハンは、電子メディアの特徴を、「包括的で同時的な領域」を成立させるものであると見ている。それは、電子メディアによって結び付けられた巨大な空間の広がりの中で、情報が同時に伝達されることを指している。その後、世界中に張り巡らされた電信は、「モールス・コード」を使った遠距離のコミュニケーションを瞬時に達成したのである。
 電子メディアは、電信や電話だけではなく、ラジオやTVなどのブロードキャスティングを生み出し、グーテンベルク系の活字を中心にした視覚優位を「衰退」させていく。ラジオというブロードキャスティングは、人々の聴覚的同時性を「回復」させ、TVはそれに動画を加えた。 影響力の強いブロードキャスティングは、国家によって管理される傾向にある。というのも少数の放送局が、一方的に大量の聴衆や視聴者に強い影響力を及ぼすことができるからだ。
 これらの電子メディアは、グーテンベルク系の秩序を大きく超え出るものではなかった。ラジオや映画は、音声やフィルムを文化商品へと変え、人々を受動的な消費者へと変えてしまう。その一方向的な情報の流れは、国家権力に大いに利用されることになった。例えば、戦争期の日本の同盟通信社のパンフレット(1944)には、以下のように書かれてある。
「武力戦に諸々の兵器があるごとく、ニュースを砲弾とする思想戦にも武器がある。新聞、ラジオ、映画これが三大武器である。近代兵器にたとえるならば、新聞は戦車、ラジオは飛行機、映画は潜水艦ともいえるであろうか。これに対し通信社はまさに兵器廠、砲弾製造所の役割を果たすものだ。命中確実な砲弾、ニュースを迅速に供給し、以って敵の思想人を撃破すべき世界的規模において戦うもの、それが国家代表通信社だ」
 TVもまた同様である。フランスのテレビ局TFIの会長パトリック・ルレーが述べた以下の言葉が、それを如実に表している。
 「私たちのテレビ番組の役割というのは、コカ・コーラに、人間の脳の時間を自由に使えるように売ることだ」
  民間のTV局が売り出すコンテンツは、視聴率によって価格が左右される。視聴率は、いわば視聴する人々の意識とその時間の量を表現する。広告費を収入源とするTV局は、大量に売り出した視聴者の意識の時間に、効果的に広告情報を注ぎ込まねばならない。
 このようにブロードキャスティングを行うラジオやTVなどの電子メディアは、国家や企業によって都合のよい情報を一方向的に消費者へ届けることに大いに貢献してきた。その情報の流れは、決して双方向性を基調とする「ソーシャル」な性質を持つものではなかった。
 ケーブルテレビや衛星放送の多チャンネル化したナロウキャスティングもまた、視聴者を一方向的な情報を受け取る消費者にしてしまう。ナロウキャスティングは、いわば飽和したブロードキャスティングから差異化する。ナロウキャスティングは、消費者のニーズを多様化させる多チャンネル化の戦略を採用し、新たな市場を開拓した。このナロウキャスティングは、ブロードキャスティングのような大規模な共時的イベントを発生させず、人々を個別化・島宇宙化させる傾向にある。
 だが、このようなグーテンベルク系と親和的であった電子メディアの性質は、その進歩の先端で「反転(reversal)」し、異なった論理を獲得することになる。
 マクルーハンの言う「反転」とは、あるメディアが潜在力の限界を超えて発達すると、異質な性質を獲得し、意図しない効果を生むことを意味する。
 その「反転」の契機は、軍事的目的のためにつくられたアメリカ国防総省のARPANET を前身とするパケット通信技術が、1990年代初頭に商用利用が解禁されたことであった。これによってインターネットが民間で利用可能となり、オンライン上のウェブキャスティングの道が開かれたのである。
 オンライン上のウェブキャスティングは、電話の持っていたコミュニケーションの双方向性を劇的に「回復(retrieval)」させる。というのもウェブキャスティングは、電話のように音声だけでなく、活字や映像、動画さえもコンテンツとする。これによって、それまでの一方向的な活字・映像・動画の流れが双方向的なものへと転換する。しかも電話とは異なり、その双方向性は一対一ではなく、ネットワークでつながれた無数の受信者へと一気にコミュニケートすることを可能にしたのである。
 ちなみに、マクルーハンのテトラッドの一角をなす「回復」は、衰退していた作用が、新たなメディアによって再開・活性化されることを意味する。

グーテンベルク系の終焉から新たな銀河の形成へ

 オンライン上のソーシャルメディアは、コミュニケーションにおける革命的変化の先端にある。電子メディアが有していた潜在的可能性が、オンラインのソーシャルメディアのコミュニケーションに典型的なかたちで現れている。
 ブロードキャスティングやナロウキャスティングでは、単に受動的な情報の受け手であった消費者が、ウェブキャスティングでは活字・映像・音声・動画の能動的発信者に変わってしまう。ブログやFacebook やTwitter などのソーシャルメディアは、情報を独占し編集してきた少数のゲートキーパー(新聞・放送局など)が発信する一方向的な情報の流れとは異なった、情報とコミュニケーションの流れをつくり出している。
 ネットワークの末端にいる無数の人々は、能動的発信者へと「反転」してしまった。マクルーハンの予言した「グローバル・ヴィレッジ」が、TV時代の司祭たちが神の教えを一方向的に垂れるカソリックミサのようなかたちではなく、すべての参加者が発言権を持つ古代ギリシアの民会や部族社会の合議制のような双方向的なかたちで実現したのだ。まさに「再部族化(retribalization)」である。
 だが、この新たな部族化のプロセスは、流動的なものである。人々は、オンライン上の錯綜するコミュニケーションの渦の中で、集合離散を繰り返しながら無数のコミュニティをつくり、さらには解体させていく。こうなってしまうと、それまでの情報のセンターであった新聞社や放送局の絶対的優位性が瓦解してしまう。
 すでにFacebook を通じたアリ・ブアジジのウェブキャスティングが、中東における革命の連鎖という世界史的出来事を生じせしめたことが、その証明となっている。グーテンベルク系の論理では生じえなかった情報とコミュニケーションの流れを、オンラインのソーシャルメディアが可能にしたのである。
 ウェブキャスティングは、ブロードキャスティングを行う図体のでかいマスメディアという衰弱した恐竜の横を這いまわる敏捷な哺乳類のようだ。携帯電話やスマートフォンさえあれば、どこでも誰もが、オンライン上の出版社となり、放送局となりうるのだ。
 情報を検閲し編集するマスメディアというゲートキーパーが、何事かを隠蔽することはすでに困難になっている。ゲートキーパーによって隠蔽されたり、捻じ曲げられた情報は、それを超えた情報に包囲されることにより、信頼を失っていく。
 このようなウェブキャスティングの時代においては、佐々木俊尚氏が述べた「キュレーター」のような存在が信頼と発言権を得ていくだろう。
 グーテンベルク系が育んだ文化と社会秩序が、電子メディアが生じせしめた新たな銀河系によって解体され再編成されつつあるのだ。われわれは約550年前に産声をあげた老朽化した銀河と異なった、電子メディアによって連結された新たな銀河がかたちを整えつつある時代に居合わせているのだ。その銀河のかたちの先端にFacebook やTwitter などのソーシャルメディアがあると考えてよいだろう。
 またウィキリークスなどの積極的に国家機密を漏洩させるメディアが、ナショナルな正義を超えた、トランスナショナルな正義を担う新たなメディアとして認知されはじめている。ムバラク政権を攻撃することでエジプト革命を支援した、インターネットにおける情報の自由を守護しようとするアノニマスのような国際的なハッカー集団の存在もまた、新たな文化の前触れであろう。
 そう考えると、かつての新聞社や放送局によってかたちづくられた「ナショナルな文化やアイデンティティ」から離れた、「新たな文化とアイデンティティ」がすでに形成されつつあると考えてよいだろう。

バックミラー越しの未来

 現在も中東の変化を生み出した情報とコミュニケーションの流れは、軍事独裁政権や大国をも脅かしている。中国は、革命の飛び火を恐れ、中国版ジャスミン革命に関わったとされるネット活動家たちを拘束した。すでに中国は、それ以前から巨費をかけて情報統制しなければ、国内の秩序を容易に保つことはできない状態であった。
 30年以上続いたムバラク政権を退陣に追い込んだエジプト革命の過程の2011年2月7日に、Google 社員のワエル・ゴニムが解放された。ゴニムは、「エル・シャヒード(殉教者)」というユーザーネームを名乗りFacebook 上でデモを鼓舞するファンページを管理していたが、運動の最中に当局に拘束された。だが拘束後もそのファンページは同じく「エル・シャヒード」を名乗る複数の後継者に引き継がれていた。
 解放されたゴニムは、エジプト革命を象徴する人物としてタハリール広場で祭りあげられた。ゴニムは、党などの政治的中心を欠いた、ネットワーク状のデモが成し遂げた革命にふさわしい人物であろう。だが革命を担った当事者たちさえもが自らが行っていることを理解していないのかもしれない。
 というのもグーテンベルク系の革命を象徴するルターは、神の教えに忠実な生活を求めたにすぎなかった。だが、彼はまったく意図しなかった世俗化した未来をつくり出すことに一役買ってしまった。
 マクルーハンが「バックミラー現象」と表現したように、われわれは、急速に移り行く現実を把握することができない。というのも現実を捉える言葉は、過去につくられたものだからだ。われわれは、過去を映し出す言葉を使うことによってしか、変化する現在と未来を眼差すことができないのだ。
 後ろ向きのバックミラーのような言語は、急速に変化し生成する出来事を捉えるには不向きなのである。ただ真の芸術家のみが、新たな出来事を鋭敏に捉え、未来のヴィジョンを獲得することができるのだと、マクルーハンは言う。
 そう考えるとワエル・ゴニムというエジプト革命のアイコンを生み出した、新たなオンライン上のコミュニケーションの流れは、彼らの意図に反した、まったく異質な未来をもたらすのかもしれない。