ソーシャルメディアとケータイ〜インターネット本来の可能性が具現化する

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クロサカタツヤ

 

ケータイはソーシャルメディアの可能性と課題を端的に表しうる。より個人的なデバイスであるケータイと、社会への情報発信を簡易にしたソーシャルメディア。両者の接近は、何を意味するのだろうか?

東日本大震災を受けて

本稿をまとめていた矢先の、2011年3月11日午後、東日本全域が大地震と大津波に襲われた。直後に生じた原発事故を含め、未曾有の大災害となった今回の震災は、日本社会におけるソーシャルメディアとケータイの可能性と課題の両面を顕在化させた。

まずソーシャルメディアの可能性については、情報伝達手段としてTwitter の活躍がクローズアップされた。今回はマスメディアも初動対応が十分ではなく、筆者の定性的な観測では、3月13日(日曜日)の午後くらいまで、理性的な一次情報のメディアとして機能していたように思う。

こうした展開に政府も呼応し、自治体の情報発信手段を支援する目的で「公共機関のソーシャルメディア活用指針」が内閣官房、総務省、経済産業省の連名で発表されるなど、震災を機に一気に市民権を得た。この背景には、物理インフラも含めて今回インターネットが堅牢であったこと、そしてソーシャルメディアが自治体や被災地からの唯一の直接的な情報発信手段となったことが挙げられる。

一方で課題も露呈した。前述の日曜午後を過ぎたあたりから、少なくとも次の週末を迎えるくらいまで、Twitterのトラフィックは少なからずデマや罵倒に支配されていた。

社会心理学的観点からも、ちょうどデマが発生しやすい時間帯や状況だったところに、ソーシャルメディアが人々の不安を増幅させる一種の凶器となってしまった格好だ。

これを受けて、首相官邸の犯罪対策閣僚会議は「被災地等における安全・安心の確保対策」の一部で、ネット上のデマ拡大に懸念を表明した。また総務省からも「東日本大震災に係るインターネット上の流言飛語への適切な対応に関する電気通信事業者関係団体に対する要請」が発表され、ソーシャルメディアを含め、事業者に自主規制的な対応を求めた。

当初機能していたはずのソーシャルメディアが途中から機能不全に陥った理由の一つは、情報の質(信頼性や正確性)を評価しにくく、目立つ物言いや付和雷同にトラフィックが消費されやすいことにある。またそれに伴い、特にTwitter では情報フィルターの一つであるはずのハッシュタグ機能も崩壊し、信頼すべき情報や利用者が必要とする情報が埋もれてしまった。

また、ソーシャルメディアが個人によって構成されるメディアだったことも、今回はネガティブに作用したようだ。

東京圏も含めた被災者の多くに不安や疲労が蓄積していく中で、共感のための共通理解の基盤が崩壊し、些細な問題も針小棒大に論う殺気立ったコミュニケーションが発生しやすい状況となってしまったのだ。これは、価値観や嗜好性の近い人同士のネットワークであるFacebook でも、価値観の近さゆえに不安の連鎖という形で表面化していた。

このように、可能性と課題の両面を見せつけたソーシャルメディアだが、とはいえ今回の震災をきっかけにTwitter 人口はまた一段と拡大したことからも分かるように、総じて言えば、これからの日本社会に必要な情報メディアとしての地位を得つつあるようだ。特に今回の震災では、マスメディアもその役割に限界があることも明らかになった。こうした中で両者が情報メディアとして補完していくためにも、ソーシャルメディアの課題の克服と可能性の拡大を両立させることが、復興プロセスへの寄与も含め、急務と言える。

そして筆者は、ここに挙げたようなソーシャルメディアの課題の多くは、ケータイによって解決可能だと考えている。それは具体的にどういうことか、まずはソーシャルメディアそのものの再定義から本論を始めよう。

 

ソーシャルメディアは個人のメディア

 

改めて、ソーシャルメディアとは、一体何だろう。

Twitter やFacebook のことでしょ、というのはもちろん回答になっていない。いないのだが、ソーシャルメディアを使っていない人に説明しようとすると、大体はそんなオチの話となる。あれこれ概念的に伝えようと試みるものの、使っていない人はどこまでもピンと来ない。そして最後は「使えば分かる」という、一種の説明放棄に陥る。まるで、ビールを知らない人に「とりあえず飲め」と言うのに等しく、やや暴力的な物言いだ。

ところで筆者は、こう考えている。

ソーシャルメディアとは、個人のメディアである。

利用経験の有無を問わず「たったそれだけ?」と言われそうだが、今のところこれ以外の説明が思いつかない。せめてもう少し足すと、言語の読み書きができる人であれば、誰しもが手軽に情報発信できるメディア、というくらいだろうか。

しかし、たったそれだけのことが、ソーシャルメディアの大きな特徴なのだ。

なにしろ、ソーシャルメディアは、手軽だ。Twitter なら最大140字、Facebook やmixi もそもそも長文に馴染まない。ということは、普通に楽しむ限り、特別な文才はいらない。ブログのような、三日坊主にはなりにくい。

また、発信すれば誰かに読んでもらえるというのも、ソーシャルメディアの魅力だ。ブログであれば、もしかすると「書きました!」というPRが必要かもしれない。しかしソーシャルメディアなら、互いにフォローし合えば、誰かの目には留まる。

逆に言えば、有名人だからといって、自動的に多くの人に読んでもらえるというわけでもない。芸能人を囲い込んで彼らにつぶやかせる、というアプローチでTwitter に対抗を試みた「アメーバなう」が鳴かず飛ばずだったことからも、そのことは裏づけられる。

文才もいらなければ、PRもいらない。伝統的マスメディアの手法によって形成された社会的な評価・評判も必要としない。だから継続への意志もブログほどにはいらない。そしてふと気がついて書き留めたことが、もしかすると世界中の人に届くかもしれない。

こうした〈メディアとしての可能性〉を、すべての利用者が等しく感じられる仕組みが、ソーシャルメディアには実装されている。自ら何かを発信したいと考える人にとって、これは大きな動機づけとなるし、何より「楽しそう」という雰囲気を醸し出す。そうして利用者が利用者を呼び、その好循環がメディアとしての器を一層大きくする。これが2011年初春時点での、日本におけるソーシャルメディアの現状であろう。

 

強さと弱さが共存するソーシャルメディア

 

インターネットのテーゼそのものでもある〈個人による情報発信〉に、ソーシャルメディアは様々な意味での〈手軽さ〉を付け加えた。それが、ソーシャルメディアの今日の興隆をもたらしている。ならば、インターネットの可能性と課題を、ソーシャルメディアは改めて社会に対して再提示するのかもしれない。特に、インターネットそのものは、ケータイを介しての利用も含め、すでにインフラとして定着している。だとするとそれは、「拡大再生産」という形でもたらされるはずだ。

たとえば、個人による社会への直接的な働きかけも、その一つである。インターネット黎明期には多くの人が期待した可能性だが、インターネットが成熟するにつれて、従来の近代的な間接モデル(政府や企業等の法人が、高度化・肥大化する社会に対峙する主体を担う社会モデル)に回収された。これは、インターネットが従来の近代社会システムをも引き受けるだけの包容力を持った技術だということでもある。ちなみにこの間接モデルを情報メディアに適用すると、正しくマスメディアそのものとなる。

一方、ソーシャルメディアの特徴である〈手軽さ〉とは、裏返せば機能的に制限されているということである。これをポジティブに評価すれば、インターネットそのものよりも抑制的である分、従来型の社会モデルに回収されることなく、個人の居場所が存在し続ける余地が残るかもしれない。できることが少ないためにかえって企業が介入しづらく、個人が主体として存在できる可能性がある、ということだ。実際、法人であっても〈個人的な人格〉が求められるのが、ソーシャルメディアである。

一方でソーシャルメディアが、インターネットの成熟期に登場したという意味も大きい。フツーの人がフツーにネットを使う時代に、機能が抑制されたことで個人に居場所が与えられるようなメディアが登場した。そしてそれを受け取ったのがフツーの人であったがゆえに、改善・改良という名の陳腐化を招くことなく、そのままの形でソーシャルメディアは広く普及することができた、ということだ。

このことは、私たちの市民社会そのもの、そしてその上に立脚する経済や政治にも、少なからず影響を及ぼす。これまでは政府や企業という、間接的ながらも一応は全体を代表していると目される主体が、社会に対して影響力を及ぼしていた。しかしソーシャルメディアを使えば、法人というまどろっこしい存在をショートカットして、個人が社会に直接訴えかけることができる。

もちろんこれには善し悪しの両面がある。たとえば、政府や企業が本当に全体を代表しているのかという疑念は、価値観の多様化した社会では自明的に示されるものだが、ソーシャルメディアはそこに〈個人の役割〉を再発見させる手段となる。先の北アフリカ・中東の民主化運動の背景で、ケータイ経由で使われたTwitter やFacebook が大きな役割を果たしたが、ソーシャルメディアを介して個人が社会と対峙した好例だろう。

しかしこれは、壊す必要のない秩序を壊したり、特定個人による新たな暴走や独裁を生み出す危険性がある、ということでもある。実際、ふとした失言で数万人から袋叩きに遭う企業や経営者を見かけることは、このところ少なくない。個人のちょっとしたネガティブな思いであっても、それが可視化されて集積することで、ソーシャルメディアは言論の暴力装置にもなる。

ソーシャルメディアには、社会改革や経済効率の改善が必要な時に、スマートな個人の潜在能力を拾い上げ、その加速を促し、内実化を進めるという効果がある。しかし反対に、秩序の破壊やファッショ的(あるいはカルト的)な独裁を生み出す危険性もある。これは社会に対して個人が持っている強さと弱さの投影そのものであり、ソーシャルメディアが個人のメディアであるがゆえの、必然でもある。ケータイがスマートメディアを増幅する

ケータイとソーシャルメディアは相性が良い。たとえばTwitter のタイムラインを眺めていても、ケータイからの利用が多いし、mixi に至ってはケータイ経由の方がマジョリティでさえある。ではなぜ両者はこれほどまでに相性が良いのか。筆者は大きく三つの要因を考えている。

一つは、〈報酬系の倍加〉だ。ソーシャルメディアが有する、24時間365日情報発信できるという可能性を快楽と感じた人が、今度はそれを生理的欲求とし、その解消をケータイに求める。平たく言えば一種の中毒症状、つまりソーシャルジャンキーということだ。

本誌の読者であれば、ちょっと手が空くとすぐにケータイを開いて何かをつぶやこうとしたり、写真を撮ってはせっせと公開しようとする「Twitter 中毒者」が、自分の身の回りに一人や二人はいるのではないか。

これはソーシャルメディアの、他者からの反応を得られやすかったり、他者の行動が互いに可視化されている、という特徴と大きく関係している。誰からも反応を得られないことのさびしさを知る現代人であればあるほど、ちょっとした発信にもすぐ反応(=報酬)があれば、手放せなくなる。こうした情報発信者への報酬系が機能として組み込まれているのがソーシャルメディアの特徴であり、それを倍加するのがケータイなのである。

二つめは、〈場所・空間の強さ〉である。すなわち、場所や空間が持つ情報の豊富さや強さが、情報発信の欲求を大きくする、ということだ。

たとえば自宅の書斎で楽しむソーシャルは、そこがパーソナルな空間である以上、なかなか外界と文脈を共有することが難しく、どうしても発信内容が脳内世界由来の情報に依存しやすい。しかし、外出先の喫茶店であったり、取引先での打合せ中だったり、こうした具体的な場所に行くと、その場所ならではの情報そのものもおもしろければ、またそれによって新たな発想が呼び起こされることもある。

この特徴は、こうした場所・空間の共有を楽しむツールが、ソーシャルメディアのアドオンとしていくつも開発・利用されていることからもうかがえる。また、メディアジャーナリストの津田大介氏が政府委員会等に参加した際のTwitter 中継に端を発する〈tsudaる〉というソーシャルメディア活用も、委員会・審議会といった空間に価値のある情報が埋め込まれており、それを発掘・発信したいという欲求に駆られることに起因する。

そして三つめは、〈共鳴の実感〉である。一つ一つの情報発信にはそれほど情報量がなかったとしても、それが自分のみならず多くの人と連帯し、一つの大きなうねりになっていることが実感できた時、むしろそれにより大きく参加する動機となる、ということだ。

前述の北アフリカの民主化運動でも、ソーシャルメディアとケータイの組み合わせが大きな威力を発揮したが、これも一例である。ソーシャルメディア上で連絡を取り合い、自分の政治的なポジションや仲間の安否情報を共有する。

そして海外の反響から自分たちの正当性を確認し、運動を加速していく。こうした循環を、両者の組み合わせは加速したのだろう。

もちろん今回は前政権によって回線が切断されたこともあり、ケータイでしかつながらなかった(さらには公衆電話などからの音声変換等も必要だった)という事情もある。しかし逆に言えば、空間的に分断された困難な状況で、手元にある通信手段によって個々人がソーシャルメディアに接続され、そこで集約された情報の共鳴が、再び実空間の社会運動に投影される、という循環が成立していたということである。

これら三つの要因が示しているのは、すでにソーシャルメディアは可搬性(モビリティ)を前提に考えた方が自然だというところまで、ケータイと接近しているということである。もっとも、ソーシャルメディアが個人のメディア

であるという前提に立つなら、この傾向も至極当然だ。なぜなら分業化が進んだ近代社会において人間は常にあちこち動き回っており、またあちこち動き回る人間のための通信手段、つまりケータイが、私たちの社会では基本的な情報インフラとして、すでに定着しているからだ。ならばその人間に寄り添ってこそ、個人のメディアであるソーシャルメディアは、本領を発揮するはずである。

もちろん、ソーシャルメディアとケータイは機能として独立しており、この関係性は今後も不変だろう。しかし両者の組み合わせによって、ソーシャルメディアを使う個人のパワーはより大きく増幅し、事と次第によっては社会さえも動かしうる。それは机上の空論ではもはやなく、すでに現実として私たちの情報空間を大きく揺さぶり始めているのである。

ソーシャルメディアとケータイへの戸惑い

 

ソーシャルメディアを個人のメディアとするならば、こうした情報メディアは、実は有史以来はじめて登場したのかもしれない。過去を振り返ってみて、ここまで大規模に普及した個人による情報発信を前提とする情報メディアが、かつて歴史上存在していたことを、筆者は寡聞にして知らない。

ソーシャルメディアでの交流を楽しむだけでなく、仕事上のネットワーク拡大にも活用している筆者としては、こうした新しいメディアの登場とその普及は、基本的に歓迎したい。しかし一方で戸惑いを感じる人がいることも、私たちは忘れてはならない。そしてそれゆえに、すでにソーシャルメディアを使いこなす人々の熱狂をよそに、日本社会における情報メディアとしての位置づけは、いまだマイノリティの域を出ていない。こうした現実を踏まえてこそ、ソーシャルメディアとケータイによる新しい情報のパラダイムを、より正しく社会に導入することができるだろう。

まずもって、ソーシャルメディアを受け入れている人たちでさえも、個人が能動的・主体的に情報を発信するということの本当の意味を、理解できていないはずだ。なにしろ私たちは、個人の発信した情報が〈社会全体に届く可能性〉がここまで極大化した世界を、まだ誰も知らないのだから。

たとえば、それはプライバシーという権利に関する議論で表面化している。従来のプライバシー権は、政府や企業が個人(市民)に関する情報を収集・集約することを前提に、そうした「巨大な存在」から個人の権利を守るために作り出された権利だった。この場合、情報は個人が能動的に発信するものではなく、政府や企業が収集していくものとして位置づけられており、この収集に制限を課す根拠として、プライバシー権が存在する。

しかしソーシャルメディアは、こうした考え方とは正反対にある。なにしろそこで取り扱われるのは、政府や企業が収集した情報ではなく、個人が自らの意志で自発的に発信した情報だ。しかもケータイ経由なのだとしたら、いつでもどこでもプライバシー情報がダダ漏れ、という状態である。こうした状況を、従来のプライバシー法制はほとんど想定していない。

一方でソーシャルメディアを舞台にした略取・誘拐や性犯罪の発生等は、すでに日本のみならず海外でも頻発している。そこには、個人が自発的に発信した情報でさえも、それが社会全体に広まると、当の本人はおろか事業者でさえも管理しきれない、さらにはもはや誰にも管理不能である、というソーシャルメディアの矛盾や限界が見え隠れしている。

特にこうした犯罪行為は、残念ながらケータイの利用で増加する傾向にある。警察庁によれば、特に未成年の犯罪被害について、非出会い系サイト(いわゆる大手SNS)をケータイ経由で利用することで巻き込まれるケースが圧倒的に多いとしている。また関連して、子どもたちのイジメの舞台に、ソーシャルメディアとケータイが使われていることは、すでに広く知られている。

ソーシャルメディアとケータイの組み合わせは、従来のプライバシーの概念を大きく変える一方、より深刻なプライバシーの侵害が発生しうる状況をも作り出してしまった。

こうした背景から、ソーシャルメディアとプライバシーに関する検討が、ここ2〜3年、欧米を中心に活発に行われている。たとえば欧州委員会は、プライバシー権の新しい概念として「忘れられる権利(right to be forgotten)」を提唱しはじめており、この概念に基づく法改正の動きを進めようとしている。また米国でもソーシャルメディアを強く意識したプライバシー保護に関する法制化の動きが進んでいる。

法律を作れば問題が解決するわけではない。しかし検討の過程で、ソーシャルメディアの課題解決を誰がどう担うべきか、という議論は進むだろう。そしてソーシャルメディアが個人のメディアであるならば、そこでは情報を発信する側の責任も問われることになる。ケータイがソーシャルメディアの負の側面も増幅している以上、両者を踏まえた〈個人の役割と責任の適正化〉の議論は、もはや不可避である。

 

ケータイでソーシャルメディアを手なずける

 

ソーシャルメディアは、社会に何かを働きかけたい個人にとっては、かつてないほどの強力な武器となる。そしてその能力は、ケータイによってさらに増幅される。これまで「ちっぽけな存在」として位置づけられていた個人が、社会と対等に向かい合う主役として活躍できる。

しかし私たちは今日現在、ソーシャルメディアを使いこなせているとは言えない。そもそもソーシャルメディアが社会に与える影響力を理解できてもいなければ、ケータイとの組み合わせによって増幅されるダメージは、近年積み重なる一方でもある。

特に、完全性の高い匿名(どこまで辿っても特定できない・しにくい)状態でのソーシャルメディア利用は、一種の暴力装置となりうる。当事者意識が希薄になりやすいという意味においては、スレッドという文脈を共有した上で自覚的にコミュニケーションが行われる「2ちゃんねる」よりも、もしかすると悪質かもしれない。

現状を放置すれば、ソーシャルメディアは「強力だが使いこなせない武器」として、誰も手を出さない代物になりかねない。すでに一部では「ソーシャル疲れ」という言葉も出てきているように、曲がり角に来ているのは間違いない。

それでも筆者は、ソーシャルメディアの可能性を、信じたい。そしてそれをより良い方向に伸ばすために、ケータイにできることがある、と考えている。

まず、ゆるやかな実名性の導入が必要だろう。とはいえ、いついかなる時も実名で、というわけでなく通常は匿名でも構わないのだが、誰か(おそらくはソーシャルメディアの事業者が望ましい)がそのIDの実体を把握している状況

が必要だ。フーコーが指摘したパノプティコン(全展望監視システム)ではないが、〈誰かに見られている〉という状況が、暴力性を抑制する一助にはなろう。

またソーシャルメディアそのものも、〈複数だが少数〉という状態に絞り込まれた方が、ユーザーの負担は結果的に減るはずだ。一般的な利用者なら、サービスの利用状況を把握・管理できるのは、せいぜい4〜5種類のサービスが限界だろう。それ以上は管理が行き届かず、結果としてプライバシー情報の漏洩リスクを高めるし、そもそもIDやパスワードを覚えていることさえ、ままならないはずである。

すなわち、利用者自身の責任において、利用者が主体的に管理できる状況、いわば〈ペルソナの管理〉を実現することが、ソーシャルメディアと社会の協調を図る上で重要となるはずだ。そしてその結節点かつコントローラーとして、ケータイはうってつけの存在だと筆者は考えている。通信事業者との契約の中で身分証明は明確だし、もとより現代人にとっては「財布以上に身体に近いもの」である。また複数サービス利用の管理はケータイの得意領域であり、スマートフォンはその能力をさらに向上させているもちろん、ケータイ側にも様々な課題がある。そもそもケータイ自体、ソーシャルメディアを想定したサービス設計・制度設計が、十分行われているとは言い難い。そうした状況の打破には、通信事業者、サービス事業者、最終利用者、というそれぞれの役割が改めて定義される必要があるが、そうした議論は国内外のいずれにおいても、いまだ途上にある。とはいえ、ソーシャルメディアを手なずけられるのは、ケータイをおいて他にないのも、おそらく間違いなかろう。

ソーシャルメディアには大きな可能性がある。しかし使い方を間違えれば、凶器にもなりかねない。そして私たちは、〈ソーシャルメディアのある社会〉について、まだ何も知らないに等しい。すでに顕在化している課題を克服し、その先にこそ、本当の意味での〈個人のメディア〉の時代を迎えるためにも、ケータイが大きな役割を果たすべき時が到来している。