ソーシャルメディアを論じる前に〜「ソーシャル」と「メディア」を捉える視点②

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鈴木謙介

ソーシャルメディアの領域はあまりに広く、あまりに流動的である。それをいかに捉えるかは、個々人の社会観、メディア観に委ねられている。どういった視点からソーシャルメディアを考えるべきなのか?

本編の①をまだ 読んでいない方はこちらへ。

手動型ソーシャルメディアの特徴

インターネットの最大の特徴が「ハイパーリンク」にあることは、いまさら述べるまでもないだろう。だが、独立した複数のドキュメントを文字通り「リンク」するこの技術は、同時にそれぞれのドキュメントが静的に独立していることを前提にしていた。ドキュメントが変更されることがあっても、それは所有者によるものでしかあり得なかった。その後、スクリプトやプログラム言語を用いることで、訪問者がコメントしたり、複数の人間がチャットしたりするウェブページが登場したが、それも概念的には「ひとつのページに複数の人間が書き込む」というものでしかなかった。

この点で、ブログソフトウェア「MovableType」が実装したことで広まった「トラックバック」の仕組みは斬新だった。トラックバックとは、自分のブログ記事に言及した他のブログの記事の情報が自分のブログにも表示されるという機能だが、これは他のドキュメントへのリンクという点で掲示板のコメントとは異なっており、また他のユーザーが自分のブログ記事に表示させられるという点で、通常のリンクとも異なっている。あえて言うならば「他人が権限を持っている領域に、自分が強制的に手を加えられる」という機能だったのだ。

実はこの理念こそ、現在のソーシャルメディアの様々な特徴の根幹となっているものだ。マッシュアップサービスの多くは、他のサービスのAPIを利用しながら、そこに新たな情報を加えるという形式をとる。Google Maps のマッシュアップのように地図上にオーバーレイ(上書き)する場合もあるし、Ustream のようにTwitter のタイムラインを画面の隣に表示するというものもある。いずれにせよこうしたサービスでは、元のサービスの加工・再利用が許されているのだ。

あるいは、ユーザーごとのカスタマイズという特徴からも、この点は説明できる。Twitter のTL(タイムライン)に表示されるのは、あくまで自分がフォローした人のつぶやきだが、逆の見方をすれば、私がツイートしたりRT(リツイート)したりするということは、私のフォロワーのタイムラインに強制的に私のつぶやきを書き込んでいるということでもある(だからこそ「連投でTL占拠してすみません」といった謝罪も出てくる)。

つまり手動型ソーシャルメディアでは、「私の領域」だとか「自分専用」といった考えではなく、他の人びととコミュニケーションし、そこから新しい価値を生み出すために、「私」と「他人」の(少なくともウェブ上での)垣根を取り払うことが求められているのだ。

 

新しい社会か、ご近所の復活か

これが昨今注目を集める「シェア」の原理に近いものであることは明らかだろう。実際、ソーシャルメディアは「シェア」的な社会モデルと親和性が高い。というよりもそもそもネット技術はごく初期の頃から、資本主義、産業主義的な社会からの脱却を目指す理想とともに歩んできたので、両者が似通ってくるのは当然と言えば当然なのだが。

たとえば『シェア』(NHK出版)や『メッシュ』(徳間書店)といった、日本でも話題になっている書籍では、「共有する」という生き方がこれからのオルタナティブなライフスタイルになるということ、そしてネットはそうした生き方をよりよくサポートするということが強調されている(※3)。リーマン・ショックによって大量消費社会の問題点をあらためて痛感した米国人にとって、これからは個人所有ではなくシェアだ、というメッセージは、ネットが「これからの社会」を作るという印象を与えるものになるだろう。

ただ、そこで目指されている未来の社会がどういうものなのかという点には注意する必要がある。やや政治哲学的な話になるが、思想の世界では「共有」は「私有」に対置するものと見なされてきた。財産の私有をやめて共同管理しようという話でいえばマルクス・レーニン主義に基づく社会主義国家をイメージしがちだが、ネットの世界でいう「共有」は、こうした国家による管理とはまったく異なる。むしろマルクスが批判したフランスの思想家プルードンの考える「アナーキズム」の方が近いと考えるべきだ。アナーキズムというと「無政府主義」という訳語やテロの印象が強いかもしれないが、その本来の意味は共同体で生産を管理し、自分たちの必要なだけの資源で生きていこうというものなのだ。

こうした思想は1960年代の学生運動あたりから米国などで盛り返し、現在でも環境に配慮した共同生活を志向する「グリーン・アナーキズム」の運動などがある。その点でネットを使って自分たちに必要な分だけの資源でムダなく生きられるようにしようという主張は、「サイバー・アナーキズム」とでも呼ぶべきものだろう。

社会主義とアナーキズムの違いは、前者が国家による強制的な財産の没収を行うのに対して、後者は共に生活を営む人びとの間で資源を持ち寄って暮らすので、そうした没収を行わない(行うとしても、事前にみんなでルールを決める)という点にある。その「持ち寄り」を、ソーシャルメディアなどを利用してネット化しようというのが「共有」の思想の根幹だ。よりネットに親しみのある人向けの説明をすれば、ネットは資源の足りている人と足りていない人のニーズをマッチングすることで「資源を共有する社会」を実現する手段なのだ。

ただしここまでの説明からも分かるように「シェア」の思想は、個人所有と大量消費が前提だった米国社会においては大きな意味を持つが、日本においては少し事情が異なってくる。農村における共同作業が伝統的な共同体の基盤となっており、都市部においても「お醤油の貸し借り」などの資源シェアが行われてきた(経験したことがない人も、そうだったと思っている)社会では、ネットによって可能になる共有社会は、新しい社会というよりは「かつてのご近所づきあいの再生」といった方がしっくりくるだろう。

かつてと異なっているのは、そのご近所づきあいはリアルのものというよりは、ネット上でマッチングされた「バーチャルご近所」であるということだ。

もちろん、すべての資源の共有がネット上で済むわけではない。オークションなどでよく見かける「大型の品物につき引き取りに来てくれる人希望」という注意書きを思い出してみれば分かるが、ネット上で行われるのはあくまでも共有する相手とのマッチングであって、物理的なやりとりは直接会って行わなければならない場合も多い。

社会学の研究の中では、インターネットに限らず、若者たちのコミュニケーションが共通の趣味などを媒介にしたつながりに分化しつつあることが指摘されてきた。「趣味縁」とも「トライブ」とも呼ばれるこうしたつながりは、どの程度の期間継続するものなのかはっきりとは分かっていない。ただそこに「ご近所性」のようなものが加われば、よりつながりの継続はしやすくなるだろうし、また趣味縁に代わる新たなつながりの可能性も生むだろう。

むろん、こうした事例はまだ局所的にしか起きていない可能性の領域だ。ともあれ、ソーシャルメディアの典型だと見なされている手動型ソーシャルメディアにおいては、よく論じられる「情報の共有」や「キュレーションによる有益な情報のスクリーニング」というものだけでなく、「マッチングによる社会関係の創出(もしくは再生)」が大きな特徴であり、また今後も期待できる分野ということになるだろう。

何かが「足りない」という明確なニーズを埋めたいという動機は、既に持っている情報を整理する動機よりも強いと考えられるからだ。

 

※3 レイチェル・ボッツマン、ルー・ロジャース『シェア〈共有〉からビジネスを生みだす新戦略』(NHK出版、邦訳2010年)、リサ・ガンスキー『メッシュすべてのビジネスは〈シェア〉になる』(徳間書店、邦訳2011年)

 

自動型ソーシャルメディアの特徴

 

しかし、今後という点で考えれば、大きな成長が見込まれ、またそれゆえに大きな課題も抱えることになると思われるのは、むしろ自動型ソーシャルメディアの方だ。この分野での動向は手動型ソーシャルメディアに比べて明確な思想性や社会ビジョンが薄いためかこれまであまり論じられることはなかったが、情報の取得や再利用が自動化されているという点で、好むと好まざるとに関わらず、多くの人を巻き込むものになるからだ。

まず、自動型ソーシャルメディアの特徴についておさらいしておきたい。既に述べたとおり自動型ソーシャルメディアとは、ユーザーの行動履歴などを数量的に処理することで、新たな付加価値を生み出すメディアのことだ。数的な処理を可能にする様々なパラメーターを取得するためにユーザーに特定の利用行動を促すサービスもあれば、無料でサービスを利用できるようにする代わりに詳細なプロフィール情報などを登録させることでマーケティング情報に用いるケースもある。

また、こうした情報を再利用する方法も様々だ。グーグルの検索結果表示順序は、よく知られているようにページランクという独自の指標に従っているとされるが、これは収集し処理した情報を、利用者のために無料で提供している例といえる。一方でGoogle AdWords のような検索連動型広告の場合、ユーザーの検索語やキーワードとの関連性といった、ユーザーの検索行動に由来する情報がグーグルおよび広告主のために用いられていることになる。

そもそも、世界初のコンピューターとも称されるENIAC においてすら、その利用目的は弾道計算や気象予測など、多くのパラメーターを短時間で計算処理する分野だった。そう考えれば、インターネット経由で収集したユーザー情報の数量的処理とその再利用というのは、ネット時代のコンピューターの正しいあり方を示していると言えるだろう。

ただ、この点については常に「プライバシー」の問題がつきまとう。多くのユーザーは必要以上の個人情報をサービス側に提供したいとは思っていないし、勝手に処理された情報から「あなたにおすすめの商品はこちらです」と言われることにも、薄気味の悪さを感じる場合があるだろう。自動型ソーシャルメディアは、果たして私たちのプライバシーを丸裸にする危険な道具なのか?

この点について、社会学者のデイヴィッド・ライアンは、現代社会の監視の特徴を、データの監視という点に見いだしている(※4)。人間の流動性が上がる現代においては、その個人そのものより、その人についてのデータを監視しなければならなくなるというのだ。あるいは「Dataveillance」という新たな造語を用いる論者もいる(※5)。これはつまり、ウェブサービスが私たちの情報を収集するという行為が、その人の私生活をのぞき見するようなものではなく、断片的で、それだけでは無味乾燥なデータを黙々と収集し続けるアルゴリズム的なものであるということだ。

たとえば私がAmazon でどんな本を購入したかということが分かったところで、そこからただちに私の思想信条や、どんな人とのつきあいがあるかということが分かるわけではない。実際に行われるのは、似たような行動をとった人と私の行動が比較された上で、次にとる行動をAmazon が先回りして予測し、「あなたへのおすすめ」を表示するということなのだ(むろん、そうしたデータのつなぎ合わせによって個人を特定し、悪用することは不可能ではない)。

スティーヴン・ベイカーの『数字で世界を操る巨人たち』(武田ランダムハウスジャパン)は、この「個人の監視」と「データの監視」の違いを、マーケティングを例に挙げて説明している(※6)。これまでのマーケティングでは、個人の嗜好やその他様々な情報をアンケートによって収集し、それをクラスター分析などの多変量解析によって処理することで、市場の中にどういう種類の消費性向があるのかという分析を行ってきた。しかし消費が細分化する中、分析の精度を上げようとすればするほど、最後は「一人ひとり消費の傾向は違う」という当たり前の結果に行き着いてしまう。

これは、消費を「個人」という単位で見るために起きる問題だ。消費者をクラスターに分類するということは、たとえば「ロックをよく聴く人はペプシよりもコカコーラが好き」といった枠に個人を当てはめるということである。むろん、ペプシが好きなロックファンもたくさんいるわけだが、その「取りこぼし」は、クラスターの細分化では補えないというわけだ。

個人ではなくデータを監視し、それらをまとめて数量的に処理するとき、そこで単位になるのは「行動」だ。「行動ターゲティング」とも呼ばれるデータの監視と処理は、特にソーシャルメディアのように、人びとが自分に関する情報を(ときにリアルタイムに)更新していくメディアと相性がいい。つまり自動型ソーシャルメディアとは、複数の個人の行動を定量的なデータとして処理することで、個人向けにカスタマイズされた情報提供を可能にするサービスなのだ。

この分野においては、ユーザーの情報が少ないとデータに偏りが生まれ、正しい結果を提供できないという問題(いわゆる「コールドスタート」問題)が存在するが、逆に言えば、利用者が拡大するほど得られるメリットも大きくなるという点で、寡占を生みやすいということでもある。どのような情報を取得するか、それをどう再利用するかといった点や、それらに関わる制度整備など、今後の課題も大きい分野だが、未開拓の領域も多いと言えよう。

 

※4 デイヴィッド・ライアン『監視社会』(青土社、邦訳2002年)

※5 Andrew McStay“Digital Advertising”(PalgraveMacmillan、2009年、未邦訳)

※6 スティーヴン・ベイカー『数字で世界を操る巨人たち』(武田ランダムハウスジャパン、邦訳2010年)

今後の動向:リアル空間との連動

 

トピックとして、リアル空間との連動について述べておきたい。既に述べたとおり、現在のソーシャルメディアの流行の背景には、いつでもどこでもテキストや写真をウェブに投稿できるようになったモバイル環境の発達がある。その瞬間ユーザーの周囲で起きていることをウェブの情報に変換する手間を、ユーザー自身が担ってくれることで、メディアのあり方や、情報の流通のあり方も変化するのではないかということが、これまでもたびたび語られてきた。

しかしながら、モバイルツールを手にしたユーザーが持つ情報のうち、あまり利用されていないが今後価値が高まると考えられるのは、「位置に関する情報」だろう。GPSの情報を取得して他のユーザーとコミュニケーションするサービスとしては、位置情報連動型SNSであるfoursquare や、「位置ゲー」として知られるサービス「コロプラ(コロニーな生活Plus)」がある。またGoogle Maps やマピオンの地図をマッシュアップした交通情報サービスなども、この範疇に入るだろう。

なぜ、位置情報が重要になると考えられるのか。その理由のひとつは、ソーシャルメディアによる人と人とのマッチングが実際の出会いを促す機能を果たし、そのことによって新たな「ご近所」を生むという手動型ソーシャルメディアの理念を現実のものにしていくのに、相手との位置関係を示す情報がとても役に立つということだ。自分の欲しいものを持っている人に出会えたものの、相手が遠方の人だったために受け渡しをあきらめた、という事態が回避できるだけでなく、直接相手に手渡しすることで感謝の気持ちをダイレクトに伝えられるというメリットもあるだろう。

またもうひとつの理由に、位置情報は刻一刻と変化するパラメーターであり、複数のユーザーの位置を把握しながら、ユーザー間の便利をはかるために

は、コンピューターによる自動処理が欠かせないから―言い換えれば、これまではあまりに煩雑で誰もわざわざそんなことをしようと思わなかった「多人数の位置情報をリアルタイム処理することで生まれる付加価値」を提供できるから、ということがある。これは自動型ソーシャルメディアの特徴を活かしたサービスだと考えることができるだろう。

いずれの場合においても、大きな課題はある。位置情報は、いかにデータのみを監視するといっても簡単に自宅や職場などを割り出せてしまう非常にセンシティブな情報であり、その取り扱いには最大限の慎重さが求められる。また、こうした情報を扱う上での責任の所在や補償のあり方について定めた法律や制度整備、ユーザーの理解を深める教育や啓蒙活動など、多くの公共的な取り組みと一体にならなければ、いたずらにユーザーの不安を煽ったり、ごく一部の先進的なユーザーの間だけで流行するものの、キャズム越えに失敗するサービスで終わってしまったりするだろう。

これまでソーシャルメディアに関する議論は、学術というよりはビジネスと技術動向、そして社会活動の中間くらいの領域で語られることが多かったように思う。しかしながらそこには、長らく蓄積されてきた技術的な進化があり、また場合によっては「これからの社会」を作り出す大きなビジョンに支えられてもいる。「どのサービスが儲かるか」といった近視眼的な考えで個別の現象を見たり、最新の技術動向にとらわれてコモディティ化した要素を見落としたりすることなく現在の事象とこれからのあり方を考えられるように、ある程度抽象化した「ソーシャルメディア観」を養っておく必要があるのではないだろうか。

 

※この記事は『IT批評 VOL.2 ソーシャルメディアの銀河系』(2011/5/20)に掲載されたものです。