任天堂はなぜ勝者となりえたのか〜ハードとソフトのシナジーなきプラットフォームはない

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ゲームニクスとは何か

ここまでは任天堂の会社としてのアンチグローバルな体質が、誰も思いつかないような独創的な製品を生み出し、結果として「ブルー・オーシャン市場」の創出を可能にしてきたことを述べてきましたが、ここからは具体的なソフト作りへと視線を変えてみます。

任天堂の製品の〝手触り感の良さ?を実現させているのが「ゲームニクス」というノウハウです。マニュアルを読まなくても直感的に操作ができて、思わず使い込みたくなってしまう、そんな方法論を試行錯誤のうえ、長年かけて蓄積してきました。

よく「子供がゲームを始めると何時間も夢中になり、なにも手につかなくなって困る」というお母さんの言葉を聞きますが、なにも「ゲーム」という「魔物」めいた物がそこにあるわけではありません。「人を夢中にさせるノウハウ」が詰め込まれている結果であり、そのノウハウが「ゲームニクス」(GAME-NICS:ゲームのエレクトロニクス、ゲームを作る上での技術という意味の造語)なのです。

スーパーマリオクラブというチェック機能がユーザー目線でのモノ作り体質を作った

もともとゲームというメディアはアメリカで誕生しました。1971年、「PONG」というアーケードゲームがヒットして市場が生まれ、197 7年にアタリ社から発売された「ATARI 2600」というカセット交換式の家庭用ゲーム機は1982年の段階でアメリカの4家庭に1台という驚異の普及率となり、ゲーム市場が確立しました。日本のファミリーコンピュータ(以後ファミコン)の発売が1983年ですから、ずいぶん前のことになります。しかし当時5億ドルとまで言われたゲーム市場は1985年に突然崩壊します。経済用語として「アタリショック」と言われた事件です。

1983年にファミコンを発売し、1985年の「スーパーマリオブラザース」の発売によって大ヒットとなっていた頃、任天堂はファミコンのアメリカでの販売を検討していました。そこで任天堂は「アタリショック」の原因を独自に分析し、「アタリショック」の最大の原因は粗悪なソフトが大量に市場に出回ったためと判断したのです。そこで社内に作られた組織が「スーパーマリオクラブ」でした。

スーパーマリオクラブには、老若男女・ゲーム初心者からマニアまで、200名程度のユーザー代表がアルバイトとして登録されています。ソフトが出来上がるとスーパーマリオクラブの中から選出された20名ほどにA4一枚程度の説明書だけを渡してゲームをしてもらい、最終的に点数がつけられます。この点数が「80点以上でないと、自社タイトルについては発売しない」という縛りがかけられたのです。あらゆるユーザーに「良い」と言ってもらわなければならないわけですから、ゲームディレクターにとって脅威的なことでした。本当にお客さん目線で作らなければ高得点は得られないため、ゲームクリエーションの中での「作り手のエゴ」は全く通用しなくなったのです。

スーパーマリオクラブはソフトの品質を管理するためにスタートしたのですが、この審査過程の中で任天堂が発見していったのは、「ゲームの面白さも重要だが、それと同等に操作性が大切である」ということでした。どんなに面白いゲームでも「なにをしたらよいかわからない」「どう操作すればよいかわからない」では、誰もゲームを続けてくれず、ゲームの面白さに到達する前に止めてしまうからです。

マニュアルを読まなくてもプレイできてしまう、段階的に攻略法を学習してクリアできてしまう、長時間にわたって集中してハマってしまう││こういったユーザー中心主義の優れた操作性の方法論が何十年間にもわたって蓄積していくことになります。これが「ゲームニクス」というノウハウなのです。社長が岩田氏になってからは特にこの「ゲームニクス」という点に注力して製品を開発していますので、「DS」や「Wii」の成功もこの基本姿勢によります。

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