日本人はロボットアニメにどんな夢と欲望を託したのか〜アニメが描いた日本の現在と未来①

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稲田豊史(構成:3rd.mobi編集部)

日本人の無意識のなかにあるロボット観をアニメのなかから探る。アニメ作品に現れたロボットたちは、まだ見ぬ未来への想像を通して社会背景を照らしつづけてきた。『セーラームーン世代の社会論』(すばる舎)著者の特別連載・第1回。

 

ロボットを疑似家族として描いた日本人

 

日本初の本格的な商業テレビアニメは、1963年に放送が開始された手塚治虫原作の『鉄腕アトム』(英題:ASTRO BOY)です。主人公のアトムは原子力で動く少年型のロボットで、限りなく人に近い感情を持ち、人とロボットの間を揺れ動きながら、人のために敵と戦います。

『鉄腕アトム』が最高視聴率約40%を記録する大ヒットアニメとなったことも手伝って、以降も「ロボット」が登場するアニメは作られ続け、その潮流は現代まで受け継がれています。

『鉄腕アトム』以降も数多くのロボットアニメが製作されましたが、特に1970年代から1980年代にかけての作品を見ると、ロボットと人間の関係性に、2つのタイプがあることを見てとれます。

ひとつは『機動戦士ガンダム』などに代表される「闘う巨大ロボット」。兵器・道具でありながら、同時に父性の象徴としても機能します。もうひとつは『ドラえもん』に代表される、「友達(buddy)としてのロボット」です。

「闘う巨大ロボット」は、やってくる外敵を力強く倒してくれる存在で、家族でいえば頼れる父親。アメリカ社会における、銃を携え、馬(車、バイク)にまたがるマッチョな父親像といったところでしょう。

『機動戦士ガンダム』では、ロボットそのものが持つ父性に加えて、「設計者である父」「ロボットを父から譲られて操縦する息子」という直接的な父と子の関係までもはっきりと描いています。特に物語の後半で主人公・アムロ・レイが、病気で半ば正気を失っている父・テム・レイと出会うシーンは、非常にもの悲しく印象的です。子が図らずも父を乗り越えてしまう悲劇まで露骨に提示していました。

もう一方の「buddyとしてのロボット」は、主人公、ひいては人間をけっして威圧せず、見下さない存在です。例えばドラえもんの身長は、作者である藤子・F・不二雄によって129.3cmと設定されていますが、これは連載開始当時の小学4年生の平均身長と同じ。主人公であるのび太が小学4年生だったためです。メンタル面はもちろん、「buddyとしてのロボット」は物理的にも子どもを見下ろさず、いつも隣に同じ目線で立ってくれているのです。

buddyの類型として、まるでペットのように、癒しを与えるロボットが登場する作品もあります。『機動戦士ガンダム』でいうところのハロです。ハロはバスケットボール大のロボットで、移動の手段は転がるか跳ねるか。特に優れた機能を持っているわけではなく、ごく簡単な言葉のやりとりしかできません。むしろ主人が世話をしなければならない、単なる庇護と愛玩の対象です。ロボットと人間の関係性に重きを置く日本のアニメにおいて、時にロボットは、道具の機能として優れていることすら重要でなくなるのです。

なぜ日本人が、アニメで描かれるロボットに「父への憧れを投影できる疑似的な父親」、あるいは「何もかも許してくれる甘くやさしい友人」を強く求めたのかについては、いろいろな理由が考えられるでしょう。ひとつには、高度経済成長期から1980年代にかけて、父親が会社で働きすぎるあまり、家庭から父親が不在となったことがあげられるかもしれません。さらに、70年代におけるニュータウン・団地への一斉大量入居によって地域社会の関係性が薄れ、いわゆる“竹馬の友”ができにくくなったことも思い当たります。

私は、こういった状況に危惧を抱いた当時の大人たちの後ろめたさ、子どもたちに対する申し訳なさのような気分が、作品性に反映されている気がしてなりません。

 

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Author profile:
稲田豊史 Toyoshi Inada / 編集者、ライター
映画配給会社、DVD業界誌の編集長、書籍編集者を経て2013年にフリーランスとなる。得意分野は、映画、マンガ、アニメ、女子論ほかポップカルチャー全般。著書に『セーラームーン世代の社会論』(すばる舎リンケージ)など。
Photo credit: tami_chan / CC BY
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