「モノ」の処理と「コト」の処理
友好も憎悪も、あるいは正義も悪をもAIが理解できるとして、その均衡を破るものが感情だとすれば、人間もまた同じかもしれない。そういう点で『プルートゥ』も擬人観のなかで創作されている。
是非善悪はデジタルに判断することは困難なことだ。感情を挟まない判断は困難で、しかも感情は経験によって培われるものとすれば、AIは人間のように経験を積むことができるのだろうか。経験とは記憶の蓄積ではない。ビッグデータは記憶の蓄積であっても経験の蓄積とは呼び難い。
それは日本語に特異な表現である「モノ」と「コト」の違いに似た違いだ。詳細は精神医学者である木村敏氏の著作を紐解いて欲しいが、簡便に説明すると「モノ」とは実体そのものであり再現可能な存在あり、「コト」とは再現不能な一回限りの事象を指している。日本企業は、「モノ消費からコト消費」を言うようになったが、体験やコミュニケーションを消費させる商品やサービスに対する提言が多くなされていることも思い出しておこう。
「モノ」と「コト」の違いについては、和辻哲郎以来、日本人哲学者の研究のひとつのモチーフとなっている。この探求にどんな意味があるのか。
それは、西洋とは違う知性観、知能観をもたらし得る。
わたしたち日本人は、ギリシャ哲学の時代から西洋で連綿と考えられてきたそれとはまた別の知性(知能)探求の歴史を持っている。
「モノ」に対する意味や解釈はデジタルに処理可能なものなのは言うまでもない。ホッブスやデカルトが先駆した機械論的世界観ではすべてが「モノ」として処理できる。そして西洋の知性観は多かれ少なかれ、現在でも機械論的世界観に影響を受けている。
しかし、「コト」は受容側によって意味も解釈もまったく違う。大げさにいえば1つの「コト」に対しても地球人口の分だけ意味と解釈がありうる。それが記憶の蓄積ではない「経験」の根源である。
日本人が無機物を容易に擬人化して親しむのは、この「コト」の受容にある。無機物を「モノ」として実体論で理解するのではなく、「コト」として関係論で理解しようとするからだ。無機物が話しかけているように思うのは、受容側の解釈によって成立している。日本人には、知性や知能がAI側だけでも人間側だけでもなく、AIと人間のあいだにあるという無意識が働きやすい。関係論で理解すれば、すでにAIは人間と同等の感情を持っていると言う日本人がいるのは無理からぬことだ。二次元キャラと恋愛し結婚する日本人オタクの心性とほぼ同じものだ。
「コト」にあたる領域をAIは処理することはできるのだろうか。処理したうえで最適解を導けるのだろうか。『プルートゥ』に描かれた高性能ロボットのように機能停止し、それを動かすのが、あの人間の猜疑心と恐怖心を契機とする「偏った感情」でないとは誰にもいえない。