プラットフォームクロニクル OS戦記〜70年代から熾烈につづく攻防戦の行方①

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林 信行

 

プラットフォームを制した者だけが時代の覇者となる。主戦場を次々にかえながら、覇者がめまぐるしく交代し続けるデジタルプラットフォームの世界。しかし、覇者の座を常に狙える企業はいくつかしかない。

 

激戦のデジタルプラットフォーム

アップル社は、1984年に発表した初代MacintoshのOS(Mac OS)で、今日のパソコンの原型をつくった。マウスを使ってアイコンやメニューをクリックするスタイルをビジネス用ではない一般向けパソコンで真っ先に採用したのだ。しかし、その革命を、より多くの人々に広げたのは11年後に登場したマイクロソフト社のWindows95だった。

アップルは一度、潰れかかるが、その後、共同創業者、スティーブ・ジョブズが舞い戻り指揮を執り始めるとすぐにヒット作、iMacを発表し、そこから快進撃を始める。

2007年には新時代のスマートフォン、iPhoneを発表し、マイクロソフトのWindows Mobileを蹴散らしてしまう。

以下ではデジタルプラットフォームの世界の栄枯盛衰を振り返ってみたい。

二人三脚で始めたアップル、マイクロソフト

 

パソコンには3つの生みの親がいる。インテル、アップル、そしてマイクロソフト社だ。

70年代、1部屋を埋める巨大コンピューターが当たり前の時代に、個人用(パーソナル)コンピューターがつくれるようになったのは、インテル社が、日本のビジコン社の嶋正利氏と共にシングルチップ、つまり手のひらにのる1つのチップで、コンピューター命令の処理ができる小型プロセッサ(CPU)、「Intel 4004」を生み出したのがきっかけだ。ここから機械好きのホビイスト達の間で、コンピューターの自作が始まる。

1975年、ホビイスト向けに商品化された最初のコンピューター、Altair 8800に、BASICと呼ばれる、極めて自然な英語に近い形式でプログラムが書ける言語を販売する会社としてマイクロソフト社が誕生する。

70年代後半、まだソフトウェアプログラムは、ハードのおまけと見られていることが多かったが、マイクロソフト共同創業者のビル・ゲイツは「ソフトウェアに対してもちゃんと対価を支払うべきだ。そうでないと質の高い、良いソフトが育っていかない」というオープンレターを書き、当時、話題を呼んだ。このオープンレターについては、アップル共同創業者のスティーブ・ジョブズもソフトウェア産業を築いたきっかけだとして高く評価している。

当時は、自分で使いたいソフトは自分でプログラミングする(あるいは雑誌などで見たプログラムを自分で打ち込む)必要があった。それだけに特にOSというほど大げさなモノを搭載する必要はなく、簡単に基本操作やプログラミングができる言語が重要だった。そこで人気が高かったのがBASIC言語だったのだ。

スティーブ・ジョブズが、アップル社を創業したのはマイクロソフトより1年遅い76年だ。天才エンジニアのスティーブ・ウォズニアックと共に開発した、テレビにつないで簡単にBASICが使えるApple Iという製品のできが素晴らしく、話題をさらった。しかし、さらに凄かったのはその翌年に発表されたApple IIだった。

当時のコンピューターはまだ配線などがむき出しのもの、買ってから自分で組み立てるものが多かったが、スティーブ・ジョブズはパソコンを世間一般に広めるには、キッチン用品のようなデザインされたプラスチックの外装に収まっている必要がある、と直感し、プロの工業デザイナーにデザインを頼んだ。やがて、このApple IIは、数々の名作ゲームや表計算ソフトの元祖となる「VisiCalc」といった素晴らしいソフトに恵まれ累計500〜600万台を売る世界的大ヒットとなった。それにあわせてアップル社はフォードモーターズ社誕生以来の大成功企業として世界的注目を集め、ジョブズとウォズニアックの2人はアメリカンドリームの体現者として注目された。

ところでこのApple IIにはApplesoft BASICというBASICが搭載されていたが、これはアップルとマイクロソフトの共同開発によるBASICだった。Apple用の最初のBASICをつくったウォズニアックは、Apple II開発当時、ディスクドライブの開発で手が空いていなかったため、アップルはBASIC販売で定評のあるマイクロソフト社と組む道を選択したのだ。

ある意味、世界初の大ヒットパソコンは、アップルとマイクロソフトの共同作業によって誕生した、と言ってもいいかもしれない。だが、これから数年後、アップルとマイクロソフトの間に亀裂が入り始める。

OS戦争

 

1981年、それまでパソコン市場には興味を示していなかったIBM社が、最初のパソコン、IBM PCを発表する。

マイクロソフト社は、同製品向けにBASICを始めとするプログラミング言語を提供する予定だったが、自社ではOSを持っていなかったので、当時、パソコン用では唯一のOSだった、デジタルリサーチ社のCP/Mを推薦する。しかし、I

BMとデジタルリサーチ社の間で折り合いがつかなかった。

そこで当時、副社長だった西和彦氏らの後押しで、マイクロソフト社自身でO

Sを開発することになった。いちから開発しては時間が掛かるので、シアトル・コンピューター・プロダクツ社が開発中のQ-DOS(Quick and Dirty OS)というパソコン用OSを5万ドルで買い取り、これをMS-DOSというOSに仕立てた。

こうしてMS-DOS搭載のIBM PCが1981年に発売されると、IBMのブランド力も後押しして、企業を中心に採用が広がり、1年ほどの間にApple IIからパソコン市場トップシェアの座を奪ってしまった。ただし、IBMにとって良い時代はここまでだ。ここでもう1つ重要だったのが、マイクロソフト社がIBMにOSの独占販売権を与えず、他のパソコンメーカーにもOSの提供を行ったことだ。1982年からは、コンパック社を始めとする数々のメーカーからMS-DOS搭載のIBM PC互換機が登場しはじめ、これがMS-DOSプラットフォームの普及をさらに勢いづけた。多くのアプリケーションソフトがMS-DOS用につくられたため、IBM PC互換機の方もさらに増える、という構図ができあがったのだ。

ビジネス市場の重要性に気がついたアップルは、その後、マウスを使った先進的操作を取り入れたビジネスコンピューターのLisa(1983年)と、マウス操作をより安価に実現したMacintosh(1984年)を発表した。

その革新性に心を動かされる開発者は多かった。マイクロソフト社のOfficeやDTP市場を生み出したAldus社のPageMakerなど、マウスで操作する今日のアプリケーションの原型の多くがこの時代のMac上で誕生した。

マイクロソフト社のビル・ゲイツ氏も、「Macは開発者の創造力を掻き立てる唯一のコンピューター」と賞賛した。ただし、マイクロソフトはMac開発にいち早く取り組み、そこで学んだノウハウを元にWindowsの開発も開始していた。

おまけにWindowsの完成はMacより後だったが発表だけはMacよりも先に行ってしまっていた。

大きな注目を集めたMacだったが、価格競争が激しく低価格製品の多いIBM PC互換機ほどの勢いはつくれず、低いシェアで低迷していた。

そうした状態が5年も続く中、マイクロソフト社は、それまでMS-DOSの上でおまけ的に動いているだけだったWindowsに改良をつづけ実用的なOSに育てていった。

1990年のWindows3.0以降、Windows用アプリケーションも増え始め、MS-DOSの代わりにWindowsを使う人が増え始める。日本でもちょうどこの時期からWindows3.0をベースに日本語の機能を追加するDOS/Vと呼ばれる仕様のパソコンが増え始める。

実は日本も、この頃まではMS-DOS全盛の時代になってはいたが、日本でMS-DOSを広げたのはIBM社のPCではなく、早い段階で日本語の取り扱いに対応したNEC社のPC-98シリーズだった。しかし、Windows3.0の登場以降は、安価で質の高いソフトが膨大にある米国市場のソフトウェアや周辺機器への需要も高まり、だんだんとDOS/Vに人気を奪われていった。

そんなPC-98シリーズに引導を渡し、さらにマウス操作時代のパソコンOS戦争でMacをも負かしてしまったのが1995年のWindows95だった。インターネットブームとコンパック社らのパソコン安売り攻勢が加勢して、Windows95パソコンが急速にシェアを伸ばした。

その一方で薄利多売を始めたパソコンメーカーは利益率が下がり、徐々に苦境に追いやられていく。この頃には、CPUの性能がかなりあがっており、一番、安価なパソコンを買っても、一通りのことはできるようになっていた。

そのため、業務用に使う超高性能パソコンか一番安いパソコンしか売れない、という状態に入りつつあり、とにかくコストダウンを図ったグレーの安い箱形筐体に収まったパソコンが市場にあふれた。

そこに変化をもたらしたのはアップルだった。一度は潰れかかった同社に舞い戻ったスティーブ・ジョブズが、デザイン主導で開発した半透明ボディーのiMacを発表すると、それ以後、パソコンの世界にはデザイン重視で付加価値を高めた製品があふれ始めた。

 

※この記事は『IT批評 VOL.1 プラットフォームへの意志』(2010/11/30)に掲載されたものです。