ITproのための「ももクロ論」補論③

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桐原永叔

 

 

前回は、オープン・モジュラー型のアーキテクチャを持つとも言えるAKB48に対し、ももいろクローバーZをクローズ・インテグラル型のそれとして対置してみた。3回目になる今回は、オープン・モジュラー型の商品サービスに不可欠なユーザーのコミュニケーションの活性化と動員力の強化についてAKB48の方法論を分析しつつ、ももいろクローバーZへの年齢も趣味も越えてファンを動員している原因を探る。

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第3話 「自分ごと化」されるももクロ、ユーザーの生産性に委ねられたコミュニケーションの活性化と動員力

イベントやライブに参加することで得られた体験から派生するコミュニケーションがAKBのビジネスの中心にある。コミュニケーションは、単体では不可能なのは当然であり、ある種のコミュニティが必要になる。AKBには、ネット上にさまざまなコミュニティが存在し、ファン同士の活発なコミュニケーションが、AKBの活動を支えている。

AKBのCDに握手券、投票券が付与されるのは、それを利用してヒットチャートに食い込むことで、より広くコミュニケーションを活性化することができるからだと、『IT批評』でのわたしのインタビューに対し宇野常寛氏は答えている。

AKBの動員の方法論

コミュニケーションを拡張するかたちのビジネスモデルは、「ネットワーク外部性」といえるものと深く結びついている。「ネットワーク外部性」とは、電話やSNSのように、加入するユーザーが増えるほど1ユーザーのメリットも増加するという現象のことだが、ヒットチャートの上位に入ることは、(アンチや批判をふくめて)コミュニケーションへの動員を増やすというわけだ。それが、AKBファン個々が得る利益を充実させる。

AKBは動員システムとして先鋭的な機能をもっているのは、他の点でもいえる。クリス・アンダーソンが『ロングテール』(ハヤカワ新書)のなかで紹介している経営コンサルタント、ジョン・ヘーゲルの解説によれば、選択肢が増えるほど消費者は自分の欲求に対して分析的になり、分析的になれば「カスタマイズ」というかたちで商品サービスの制作に関わるようになるからだ。

つまり、多数のメンバーと(自前劇場があるために可能な)多数の公演いう膨大な選択肢を与えられたAKBファンは、選択のなかでグループをさまざまに分析し意見をもつようになり、それらの意見がソーシャルメディア上でのコミュニケーションへの動員を倍増させていく。

重要なのはファン同士のコミュニケーションだけではない。先にみたようにこうしてネット上のやり取りをAKB運営側は進んで参考にして活動にフィードバックする。そのことで、本田哲也氏が『ソーシャルインフルエンス戦略PR×ソーシャルメディアの設計図』(アスキー新書)でふれているように「ファン=消費者」という芸能界におけるこれまでのビジネスモデルではない、ボトムアップの影響力を取り込んで相乗的にコミュニケーションは活性化されている。

AKBはファン動員における「ゲーミフィケーション」の効果も特筆すべきものだ。「ゲーミフィケーション」とは、ゲームデザインの技術、手法を応用したソリューションのことで、顧客消費者のロイヤリティ向上にも大きな効果があるとされている。アメリカ現大統領のオバマが前回の選挙活動に取り入れたことで有名になった手法だ。

宇野常寛氏は先のインタビューで、「AKBは、わかりやすくいえばユーザー参加型のゲームです。選抜総選挙というメインイベントとGoogle+という日常、そして握手会というその中間があって、自分の推したいメンバー(推しメン)を上のランキングに上げていくゲームです」と述べている。

コミュニケーションにゲーム性が付加されることで、コミュニケーションそのものへの中毒性も高いものになる。コミュニケーションは拡大するだけでなく、その濃度も高くなる。つまり、ロイヤリティが向上する。一旦、AKBにまつわるネットワークに加入すれば、簡単にはやめられなくなるだろう。コミュニケーションは常態化されることで、なくてはならないものになってしまうからだ。それは友人との通信のつながりが切断することに怯える若者と同じようなものだ。

「隠れた経済活動」と、「影の文化経済」

現代におけるインターネット文化のあり方を予見していたのは、『第三の波』(中公文庫)を著したアルビン・トフラーだろう。『第三の波』のなかで「隠れた経済活動」として述べられたのは、市場経済とは離れたところに無償の隠れた経済活動があるという分析で、「生産=消費者(プロシューマー)」という、市場を介さないで経済活動を行う者の大規模な登場を見抜いていた。インターネット空間で現在、活発に行われる大衆文化のさまざまな活動のほとんどは、この概念で説明がしやすいものである。

このプロシューマーを、インターネット以前から活発に生み出していたのは、大衆文化の世界であった。「隠れた経済活動」がとくに早く表れた分野はサブカルチャーの文化だった。

1970年代から80年代、アメリカのSFファンは、日本在住者がビデオテープに録画したアニメ番組に英語字幕をつけて自主流通させていた。アメリカで草の根的に日本アニメを普及させたこうした活動も、インターネット以前にさかのぼる話だ。まさに自分たちが参加し作りあげること、プロシューマーになることによって動員力が高まっていったのである。

こうした消費者側の生産的な動きは、大衆音楽においても代表的な例がいくつもある。デイヴィッド・ミーアマン・スコット、ブライアン・ハリガンが書いて話題になった『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(日経BP社)でも、インターネット登場以前から行われていた、「デッドヘッド」といわれるグレイトフル・デッドのファンコミュニティの生産的な経済活動をとりあげ、これらがインターネット時代のマーケティングの先駆けだったと述べられている。

ジョン・フィスクは、大衆文化の消費者は、多かれ少なかれ個人的な生産を行って、産業が支配する領域から逸脱したところで、大衆文化に個々の意味付けをしていると分析した。フィスクは、ファンの活動によって生み出された生産を「影の文化経済」と呼ぶ。フィスクは、ファンたちの生産活動をつぎの3種に分類している。

それは、「記号論的生産性」、「言明的生産性」、「テキスト的生産性」だ。「記号論的生産性」は、どのアーティストやアイドルを選択しファンとなるかという趣味選択による個性表現であり、サブカルファンに顕著なように人とは違う趣味を誇示させ、個性的なセンスの持ち主という記号を付加してくれるものだ。「言明的生産性」とはアーティストやアイドルについて批評を含めたコミュニケーションであり、アーティストの衣装でコスプレしたりするようなこともこれにあたる。そして、「テキスト的生産性」は、ファンサイトの開設や二次創作のような行為で、与えられたコンテンツを解釈し自分のコンテンツを創造することである。ニコニコ動画の「歌ってみた」「踊ってみた」もこれに含まれる。

アイドルを「自分ごと化」したオヤジたち

ひとつ付け加えておくと、現在、広告やPRの世界でキータームになっている「自分ごと化」といったものも、ここでいう生産性と深い関係があるだろう。ただし、消費者が打算的に「自分ごと化」を行うニュアンスの強い広告やPRの考えとは違和がある。「言明的生産性」や「テキスト的生産性」などは、むしろ周囲に利益を供与・共有するためといったニュアンスが強いからだ。

こうした「自分ごと化」のような生産性は「ネットワーク外部性」によって向上する。(ファンコミュニティなどの)ネットワークに接続されて初めて、個の利益が表れてくるからだ。わたしは、消費者の生産活動は、資本に一方的に提供されるコンテンツに対する“民主化運動”といったほうが近いと考えている。消費者の生産性の本当の目的は、商品やサービスの目的や意味を企業から奪いとることなのではないだろうか?

ともあれ、トフラーのいう市場経済を介さない「隠れた経済活動」、フィスクのいう「影の文化経済」こそ、インターネットによって増幅され可視化が加速しているものだ。これまで隠蔽されていたファンの経済活動、文化的生産活動の動向を、いかにマネタイズするかを各業界が模索しはじめているなか、この2つの消費者の活動が現在もっとも明確に表れ成功しているコンテンツは、AKBやももクロを代表とするアイドルの市場(もっといえばオタク市場)に溢れている。

『ももクロ論』で詳細にふれたが、ももクロの楽曲やダンス、ステージ演出にはさまざまなジャンル、文化層のコンテキストが無作為(ハイブリッドではなく、ブリコラージュに)に流入している。わたしは、それがクラスターを越えてファンを拡大した理由と分析した。さまざまなクラスターに紐づいているコンテキストが、ファンの生産性を刺激したからだ。それまではレイドバックした趣味に耽溺していた、いい歳をしたオヤジどもが、10代のアイドルを「自分ごと化」した原因は、ここにこそあるのだろう。ロックファンはロックの文脈で彼女たちを語り、プロレスファンはその文脈で彼女たちを語るといったかたちで、『ももクロ論』の言葉でいえばポリフォニックな「言明的生産性」が増幅していったのだ。

重要なのは、ももクロの運営側に当初、そうした「自分ごと化」させる戦略めいたものが見えなかったことだ。クローズされた(あるいは無計画な)コンテンツのリリースが、かえってサスペンスを提供することになり、解読すべき対象としてアイドルを浮上させたわけだ。『ももクロ論』では否定的に述べたのだが、それがヒッチコックのいう「マクガフィン」として機能したことは否めないだろう。

解読を促すサスペンスに対し、ファンはゲームに参加するようにコンテンツに没入していった。わたしは、ももクロに遭遇して以降、フェイスブックに繰り返し、彼女たちの楽曲や演出について、ロックの文脈をふまえたコメントを投稿していた。それが、共著者である清家竜介氏をはじめ、数名の同世代のロックファンを「モノノフ」にする結果となった(ファンクラブに入ったり、先日の国立競技場のライブに“参戦”したりと、それまでの彼らのことを知る者には、悪い病気にかかったようにさえ見える。わたしも、そう見られているだろうが……)。

地下化したアイドルを知らず、それを巨大資本のものであると誤解してきたロートル・ロックファンは、インディー系パンクバンドのように解放と解体を体現するアイドルとして、ももクロを認識したともいえるだろう。資本ではなく、大衆のものであるアイドルとして再発見したのだ。